轟家の娘でいるということは、実際あんまり簡単じゃない。というか面倒が多い。
 事務所に泊まり込むことも多い父の荷物運び、主に着替えやらお弁当やら必需品やら何かの予備やら、それを引き取りに来るサイドキッカーさんや後輩ヒーローさんとの付き合い、学校で噂されるどうのこうの、焦凍と父がたまにぶっ壊す家のメンテ、時には業者さんへの依頼、日々の雑務。まあ家族内だと私が一番の暇人なのでね、家事は私の担当になるよね必然的に。お姉ちゃんもやろうとしてくれてるけど小学校教諭だからなー忙しいの知ってるよ私は……。ある意味ヒーローよりハードワークなんじゃないの教師って……。
 家事っていうのは名前のあるものもないものも一杯ある。主なところで料理洗濯掃除、メンテあれこれ備品あれこれ。それから、母の、病院関係。
 ――病室に入る前のワンクッション。静かに深呼吸して腹筋にちょっと力を込める習慣を、いつまでも省略できないでいる。

「お母さん、来たよ」
「……」
「今日は私だよー。お姉ちゃんは引率の日なんだってさ、先生も大変だよねえ」
「……」
「あんまり食事とってないって聞いたから、これゼリーと……軽い果物って言われてさあ、バナナと林檎しか思い浮かばないの私。林檎むいてきたんだよ、ここに置くね」
「……」
「でもバナナと林檎って自販機のジュースでもあるじゃんっていうねえ。さっき待合コーナーの自販機見てきたんだけどさ、すっごい種類が豊富なの知ってた? 経口補水液からお汁粉まであったよ。あと紅茶が全種類あったかいのと冷たいのがあってさ、絶対お医者さんか看護婦さんの誰かがこだわってるよねー」

 簡素な丸椅子に腰かけて、つらつらと喋り続ける。別に独り言を止められないやつなわけじゃない、相手がちゃんといるのだ。反応してくれないだけで。ねえ、お母さん。そんな風に声をかけて、ひどく怯えられた経験があるので顔を覗き込むようなことはしない。
 ちら、と目を向けると、母は頑ななほどまっすぐに窓の外を見つめていた。銀色の格子が光る窓。

(……)

 多分もともと頑丈な人でもないのだろうけれど、この人が病んでいるのは主に心だ。
 細く小さな果物ナイフさえ持ち込みを許されない室内。ゼリー用のスプーンや、林檎用のフォークでさえ薄く柔らかいプラスチック製だ。爪楊枝は却下された。個人的には果物には姫フォークを使いたいところである。

「…………」

 何年も正面からは見ていない顔を、じっと見る。
 きれいな人だ、多分。お姉ちゃんやお兄ちゃんたちや焦凍の前では穏やかな母親らしい顔をしていた覚えがあるけれど――多分、私にもその表情は向けられていたはずなのだけれど――青褪めたような横顔は冷たく、それこそ氷のような美貌だ。焦凍によく似ている。お姉ちゃんも綺麗な顔をしているけれど、表情はお父さん寄りだ。お兄ちゃんたちも、それぞれ夫婦のどちらかに似た特徴があったと思う。
 私は、たぶん、どちらにもあまり似ていない。
 前世持ちだからかなあ、という程度に受け入れているけれど、それ原因でも揉めていた覚えがある。本当に俺の子か。本当にお前の子か。取り違えたんじゃないのか。あれは他人に言われたことだったっけか。焦凍と双子で、赤ん坊のころの私達はくっついてるんじゃないのかってくらいに手をしっかり繋ぎ合っていたらしいので(写真を見ると確かに全部そんな姿で映っている)取り違えも何もないわけだが。
 お父さんにしたって、他人だったとしたって、お母さんだったとしたって。マジで取り違えを疑っていたわけじゃないだろう。……『そうだったらいいのにな』という気持ちが、形を変えて口から出ただけだ。『自分に責任がなければいい』という気持ちが、そこに在っただけだ。
 タッパーから出した林檎をひとつ齧る。変色防止のレモンをかけすぎただろうか、少し酸っぱい。けど爽やかな匂いがする、歯ごたえもいい。いい林檎だ。もう一口齧る。

「……ねーお母さん、一個食べない? お医者さんも心配してたよ。お姉ちゃんも」
「……冬美……」
「そう、冬美お姉ちゃんも。……焦凍もそうだよ」

 多分。

「焦凍」
「うん。そう。ね、焦凍が選んだんだよ、この林檎。むいたのは私だけど、ちゃんと食べてくれたよって焦凍に伝えるからさ、」
「…… っ!」

 タッパーを、差し出したのが悪かったんだろうか。それは意外なほど力強く弾かれた。

「…………あ…………」

 訂正。
 絶望顔なら正面から見てる。

「ご、め、ごめんなさい、ごめ」
「……大丈夫。大丈夫だよ、お母さん、大丈夫。怪我してない?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、」
「平気だよ」
「ごめん、なさい、……焦凍……」
「…………」

 ぽろぽろと涙を零し始めた、その背中を撫でようとして――前回、似たような展開でやはり振り払われたことを思い出して手を引っ込める。

「大丈夫だよ、お母さん」

 ゆっくり、ゆっくり、言葉を紡ぐ。ほんとうは何もしゃべらない方が彼女にはいいんじゃないかと思うけれど、私がそれに耐えられない気がする。
 ばらばらに飛び散った林檎を拾い集め、ウェットティッシュで床を拭く。そうしながらベッド脇の棚に置いた、黄色も鮮やかなバナナに視線を向ける。ぎっしり重く身の詰まった、たぶん明日あたり甘い芳香を放つようになるバナナ。前世のおかげか、果物の目利きにはそこそこ自信がある。少なくとも店先で発見できるうちで一番おいしいバナナと林檎のはずだ。
 だけど、この人の口に入ることは無いのだろう。

(……よかったのかもしれない。酸っぱいから、ね)

 言い訳めいたことを思い、酸っぱいぶどうの逆じゃないかと思い、笑いたかった――笑えなかった。ここが教室だったら笑えたんだろうか、そういう下らないことを言って、誰か一緒に笑ってくれるんだろうか。
 とても届かない場所にあるぶどうを食べたくて、採れなくて、食べられなくて。悔しい狐は負け惜しみを口にする。あんなぶどう、食べたくなんかないや。だってあれは酸っぱいぶどうなんだ。
 林檎を拾い終わって立ち上がると、不意に立ち眩みに襲われた。ぐらついた身体の動きに何か連想したらしいお母さんが、一層泣く。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい焦凍、冬美、ごめんなさい、あなた、ごめんなさい――。繰り返される謝罪。ここにはいない人と、ここには来ない人への謝罪。
 かわいそうに。
 他人事の温度で、そう思った。『誰が?』自分の声で聞こえる。『かわいそう?』『誰が?』あの日の記憶に囚われ続けている母が? 父を恨み憎むようになった、同じく囚われ続けている焦凍が? 父が? 姉が? ――私が?

「…………」

 言葉を。発するのにも疲れて、平たい椅子に再び座る。林檎のタッパーを閉め、鞄にしまう。バナナも持って帰りたいなあ、と一瞬思った。本気で思っているはずなのに、私はそれをしまおうとはしない。ここに置いといたら腐っちゃうよ。絶対おいしいやつなのに、誰の口にも入らないまま腐ってだめになってしまう。わかってるのに。知ってるのに。

(…………かわいそうに)

 先端にまだ少し緑を残した、黄色い皮を撫でる。張りがあってみずみずしく、そうして触れただけでもわかる。わかるのに、私はあなたを腐り落ちる運命に置いていくんだ。ごめんね。
 ……ごめんね。
 私の心は、この人をどうやったって満たせない。

 十月十日、腹の中で慈しみ守り続けた命が障害を抱えて産まれてきたとき、母はたぶん自身を責めたことだろう。
 あ、そちら、無個性は障害かどうかって話はとりあえず置いておこうね、気分というか表現としてって話だからね。皆が持ってるものを持ってなければそれは障害と呼んで差し支えないと私は思うよ。はい、ここまで。
 無個性と複数個性持ちの双子。焦凍の存在を待ち望んでいた父はともかく、母はその偏りに衝撃を受け、自分を責めたに違いない。そもそもが――その認識があったかどうかは知らないが――個性婚だ。優れた個性を残すための結婚で出産だ。上三人は『失敗作』、そして双子の片方は『劣等種(これ笑うところね)』『落ちこぼれ』『不良品』、最後の一人が『最高傑作』。個性を見込んでいたであろうお父さんはともかく、お母さん的にはどうなんですかねこの状況。私が妻で旦那にそんな評価を下されたら多分ぶん殴って子供を連れて逃げるけど。なんていうのは他人の台詞だよねえ知ってるよ。無神経だよね。時代も違うし性格も違うし状況も違う、家庭って枠に押し込められたら悪い意味での洗脳だってされちゃうだろう、これ遠回しに心操くんをディスるみたいであんまり言いたくないんだけど。ともかく、空気に侵されるってことはある。そこを考慮もせずに、私だったら~とか自分語りするのはかっこわるいし間違ってるよ。わかってる。
 わかってるけど娘なんだよ、私。
 直接的に被害を受けてるんだよ。文句のひとつふたつ吐いたって許されるだろ。え? だめ? 無個性だから人権なし? まーじでーざんねえん~。

(……私が、いっそ前世持ちじゃなくてただの無個性だったらよかったのかな)

 そうしたらこの状況を、普通のこととして受け入れられたんだろうか。
 私には前世の記憶があり、成人女性としての記憶があり、まともな男とまともな女の実例を知っている。強い人や弱い人や、戦おうとする人や守ろうとする人を知っている。知らなければ、このご家庭をもっと普通に受け入れられたんだろうか。それがいいことかどうかは別として。そうしたら、もうちょっと、生きやすかったのかなあ。
 そうだとしても先生のことを忘れるなんて絶対やだな。はい結論! 解散!!

(……せんせい)

 先生。せんせい。サイタマ先生。最強のヒーロー。私が、私達が、憧れたヒーロー。直接的に何かを教えてもらえたことは数少ない、基本的には『勝手に見て勝手に考えろ』タイプの人だ。だけど、私達、あなたのことを見るだけで希望を感じられたんですよ。未来を信じられたんですよ。安心、できたんですよ。先生。ヒーロー。

(先生……)

 この世界に、ヒーローは居ない。
 その現実が、年々つらくなっていく。近いうちに押し潰されるんじゃないかってくらいに、重く苦しくなっていく。

(……いつかその事実に押し潰される時が来たら、私は一体どうなるんだろう)

 どうなるにしろ、絶望の道だ。ハードモードだなマジで。クリア条件はなんだ死か。他に思い浮かばないなあ、自殺も怖いんだけど。早く上がりって言いたいな。すごろくみたいに、人生ゲームみたいに、駒をさっさとゴールにぶち込みたい。どんな結末だっていいから。……ああ、でも、もしも理想を、超絶前向きでご都合主義で現実を見えていないことを口走っていいなら、さあ。……夢でもいいから、会いたい、な。

 じん、と涙腺が熱を持ったのを感じて上を向く。
 希望を語るときの方がつらいってどういうことだよ、なあ。……なあ。

(早く……早く、クリアしたい……)

 そんでその先で、先生と弟弟子に会えたりしないか。よく頑張ったなって、言ってくれたり、しないのか。
 意味は違えど同じ部屋で、二人そろって顔を覆う。私は上向きで母は下向きで、だけど同じ仕草をして同じように絶望している。それでも私達、きっとちっとも似ていないんだろうね。そう言ってみたくなって、だけど結局、口を閉ざした。


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2019.07.11
2019.10.18(修正)