【読谷】沖縄本島に米軍が上陸し、地上戦が始まる直前の1945年3月末、ひそかに米兵が読谷村に上陸し、住民の女性を射殺していたことが30日、村座喜味の当山正雄さん(85)の証言で明らかとなった。4月1日の上陸前に米軍の水中爆破隊や偵察隊が渡具知海岸を偵察していた事実は米陸軍省編「沖縄 日米最後の戦闘」に記されており、読谷村史でも触れているが、住民犠牲の具体的証言は初めて。
30日に当山さんの体験を聞き取りした読谷村史編集室の豊田純志さん(59)は「4月1日以前の米軍上陸や、女性が撃たれる瞬間を見たという証言は初めて。史実を継承する上で貴重な証言」と述べた。
当時10歳で、座喜味集落に住んでいた当山さんは祖父母、母、6歳の弟、1歳の妹と、知人2家族と行動を共にしていた。空襲が始まった3月23日頃から集落近くの山中に掘った壕に身を潜めた。艦砲射撃が激化すると山奥の壕へ移った。
30日の明け方、山中から長浜川方面を見下ろすと、銃を持った複数の米兵があぜ道を歩いていた。「ついにアメリカーが迫ってきた」。恐怖に膝が震えた。
長浜港を経由して本島北部を目指そうとしたが、既に大勢の米兵が上陸していたといい、山中に引き返した。30日夜、再び北部を目指す道中、村親志に張られたテントを見つけた。
日本兵だと思い、声を掛けたところ軍用犬の鳴き声が響いた。「その瞬間、米兵が私たちに向け銃弾を1発打ち込んだ」。弾は一緒に避難していた女性の体を貫通し、その後ろにいた女性の15、16歳になる娘に命中した。その後、娘が亡くなったと祖父から聞いた。当山さんは「女性たちが大声を出したので、その後の攻撃はなかった。米兵は私たちを日本兵と勘違いしたのだろう」と語った。
当山さんは防衛隊として戦場に動員された父も亡くした。「つらい記憶」は戦後75年間、胸の内に秘めてきた。「人の命を奪い、人生をめちゃくちゃにする戦争は二度と起こしてはいけない」。声を震わせながら言葉を紡いだ。(当銘千絵)
米兵偵察中か 貴重な新証言
吉浜忍沖縄国際大元教授(沖縄近現代史)の話 1945年4月1日の地上戦開始前に、海岸の機雷除去などをする米軍の水中爆破隊や偵察隊が読谷に入っていたことは分かっていたが、住民の女性を銃殺する事件があったことは初めて聞いた。3月末に村親志に米軍のテントが張ってあったという情報も聞いたことがない。貴重な証言だ。
上陸時は最も危険を伴うため、米軍は事前に沖縄本島の状況や住民の様子を把握するため偵察隊を送り込んでいた。恐らく偵察隊が下調べをしている中で起こった事件だろう。