こんばんわ
持病の定期検診で病院に行きましたら、
見事に患者さんがいません。
熱のある人は車の中で看護師さんに呼ばれるまで待機だとか。
でも、それにしてもいない。
あのウイルスのせいで、うがいと手洗いを励行してるから、
インフルエンザの患者さんも激減したとか。
と、今日のうちのお客さまがおっしゃってました。
今のこの現状が物語として語られる日が来るのでしょうか。
人間は物語る動物であり、
生きる上で物語を必要とする動物だそうです。
物語は語り手の意志によって作られる。
だから、唯一の正しい形はないという。
千野帽子著『物語は人生を救うのか』から。
物語を合成する人間
「人間は物語を必要としている」。
人間は生きている限りストーリーを合成してしまうものなのだ。
二酸化炭素をつくらずに生きていくことはできない。
人は生きていく中で喜んだり楽しんだりするだけでなく、
悲しみや怒り、恨みや羨望に苦しめられ、生きづらさを感じることもある。
「あのときあのような選択をしたから、現在の自分があるのだろうか?」
「自分は何のために生きているのか?」と、
自分の現状の原因・理由を探したり、
人生の意味や目的への問いを立てたりしては、
答えを出せずに苦しむこともあるだろう。
人間は出来事を勝手につないで、
ありもしない因果関係をつくっては、
そのことで助けられたり苦しんだりする生き物なのだ。
人が犬を噛んだらニュースになるのはなぜか
「犬が人を噛んでもニュースにならないが、
人が犬を噛んだらニュースになる」という言葉がある。
要するに、犬が人を噛むストーリーよりも、
人が犬を噛むというストーリーのほうが語る価値があるということだ。
マリーロール・ライアンは、
「尋常ならざる出来事にこそ報告価値がある」と述べている。
たしかにワイドショーや週刊誌には、
起る確率の低い珍しい出来事や、
人のひんしゅくを買う出来事の話題がたくさん取り上げられている。
報告価値とはすなわち、
「つい自動的につづきを見届けてしまいそうになる」ということだろう。
道徳的に「けしからぬこと」も報告価値が高い。
その理由は、人類の進化の過程にあると考えられている。
群れの中で道徳感情に反する者がいたとき、
その事実を仲間にシェアし、処置を決定しようとしていたのだろう。
「ほんとうのこと」と「ほんとうらしいこと」
暴君として知られるネロは、配下の者に実母を殺させた。
真実である実話が「ひどい話」の場合、人の耳目を引くことにはなる。
ただしそれを劇にすると、観客は、
「ありうるはずがないから信じ難い」と感じる。
だから舞台には、真実らしさが求められるのだという。
「ほんとうのこと」と「ほんとうらしいこと」は違うということ。
そして、フィクションは、「ほんとうらしいこと」を必要とするが、
ノンフィクションは「ほんとうのこと」の報告はそれを必ずしも必要としない。
「ほんとうらしいこと」とは、
それが「必然的な仕方で起こる可能性があること」。
「その成り行きは高い頻度で起こることかどうか」や、
「それが必然的に起こるだろうと思わせる条件が揃っているかどうか」などで、
納得できるかが決まる。
フィクションにおける必然性
人はフィクションのなかの出来事に対して、
必然性を求める傾向がある。
必然性が感じられないと「ご都合主義だ」と考えてしまうのだ。
その一方で、
現実で起きた意外な出来事に対しては、
「事実は小説より奇なり」と言って受け入れる。
つまり、フィクションとノンフィクションに対して、
それぞれ別のことを期待しているのだ。
このことから大事なことが3つわかる。
①フィクションの対義語は現実(リアリティ)ではなく、ノンフィクション。
現実の対義語はフィクションではなく表象。
②フィクションとノンフィクションの最大の違いは、
作品自体の性質にあるのではなく、
作品が発信され受信される際の社会的な約束ごとにあるということ。
③フィクションとノンフィクションの違いは、
現実と照合して決めることはできないということ。
現実とウソの見分けがつかないことはよくあるが、
現実とフィクションの違いはすぐにわかる。
人間は自分の人生に対しても、
必然性から生じる意味を見出すことがある。
自分の人生を物語として把握する際、
必然性という単一のコースを走るレースとして、
途中の出来事すべてをゴールへのステップの1つだとみなしてしまうのだ。
自分の人生の物語
私たちは日常的に、発話の「本筋」と「脇道」、
「幹」と「枝」、「図」と「地」を区別している。
しかし、「本筋」だと思ったものは、本当は「本筋」ではなかったかもしれない。
また「脇道」だと思ったものが本当は「本筋」かもしれない。
人生を俯瞰するとき、
私たちはをれを「ライフストーリー」としてとらえてしまう。
だがそうすることで、記憶から特定の要素を選択して、
それ以外の要素を捨ててしまっているのではないだろうか。
本筋からこぼれたしまい、なかったことにされる無数の要素の中に、
ステキな光景や音がいくらでもあるはず。
なぜ、そのことを忘れてしまうのだろう。
他人の人生や自分の人生を要約したり、
そこから教訓を引き出したりすることに、
「たった一つの正解」などあるのだろうか。
「今日、こういうことが起った」
「このことから、こういう知見を得た」と考えるとき、
それえは可能な複数の解釈と意味づけのひとつにすぎないのだ。
私たちが自分の行動の動機を理解していると感じているとき、
その背後には一般論が控えている。
一般論とは、
私たちが特定の状況に置かれたときにどのように考え、
行動するかを示す世界観、人間観である。
自分の行動の動機は自分自身がいちばん理解していると思うだろう。
だが実際には、
自分でもよくわかってないことが多い。
動機を語ろうとすると、
かなりの確率で「どこかで見たような話」になってしまうが、
これは大なり小なり、
聞いたことのある話や読んだことのある話をつぎはぎしているからだ。
あるときになされた説明は、
いかに説得力のあるものであっても、常に「暫定的なストーリー」となる。
それが今後撤回されたり、改訂されたりする可能性はいくらでもあるだろう。
ライフストーリーは自分で選べる
一般論と食い違うような出来事が自分の身に降りかかってきたとき、
「何が起こっているか」をうまく理解できず、
自分がどう動くべきなのかもよくわからなくなってしまう。
(著者が受けた近親者による性暴力のお話がこの章に書かれています)
その苦しみから抜け出せたのは、
その人が亡くなるまで会いに行かなかったことの説明がつき、
自分の認識していたストーリーが変わったから。
自分の苦しみを「だれか」や「なにか」のせいにしたほうが
納得できるのであれば、
そちらのストーリーを選んでもいいのだ。
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毎日毎日ニュースを見るとどんよりします。
増えた数から治った数を引いて報道して欲しい。
「ほんとうのこと」は知りたいけれど、
もっと知りたいのは未来への物語を書き続けられる一筋の希望。
コロナウイルスに感染する可能性は、0.0000017482%、
死亡する可能性は、0.0000001137%、・・・らしい。
今日は満月なんですけど雨だったから今のところ見えてません。
明日は3月11日、多くの魂が雲の上で待機中。
では、また明日^^
物語は人生を救うのか (ちくまプリマー新書)
924円
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人生はままならないもの。
それを引き受けるには人は弱い生きものだ。
困難を乗り越えるためには物語が必要だ。
それは私たちを救ってくれるのだろうか?