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あの人に迫る

神山清子 女性陶芸家の草分け

写真・横田信哉

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◆いかに育てるか 私だけの価値を

 二十八日で放送が終了するNHK連続テレビ小説「スカーレット」。そのヒロイン・川原喜美子は、信楽焼の女性陶芸家の草分け、神山清子さん(83)を参考に描かれてきた。穴窯を二週間たき続けるバイタリティー、白血病で夭折(ようせつ)した長男賢一さんと取り組んだ骨髄バンク設立運動。想像を絶する数々の苦難を乗り越えてきた半生を振り返り、自立して生きる大切さを訴える。

 -信楽に来た経緯を教えてください。

 父は炭鉱の工場長で、九州を転々としていました。私が小学生のころ、軍艦島の北にある孤島の高島炭鉱(長崎県)に、一家で強制的に行かされることになった。そこへ行ったら生きて帰ってこられない、地獄のような所っていううわさが広がっていました。

 ある日、学校に父が来て、先生にわけも言わんと私を連れて帰り、そのまま一家で逃げた。荷車に妹を乗せ、弟はおんぶされて。私ははだしで歩いて血だらけですよ。眠りながらも歩いたし、おなかすいたも何もない。追っ手が来てないか後ろばっかり見ながら。

 父方の祖母の家に泊まり、滋賀県の日野町まで逃げてきた。二年半後、信楽に移り住んだ時には戦争は終わってました。

 -朝ドラ「スカーレット」では、破天荒なお父ちゃんの姿が印象的でした。

 実際の父もすごくお酒好きで、飲むと私たち説教されんねん。二時間も三時間も座らされて。逆らったらボーンとどつかれます。「すいませんでした」って土下座せなあかん。親に口答えしたとか、言われたことをちゃんとできなかったとか、教育的な内容でいろいろ怒られましたね。自分はお酒飲むのにね。

 お金ないのに、毎年正月になったらお茶碗(ぢゃわん)買うんですよ。自分の好きな日本中のやきものそろえて説明する。父は備前とか唐津とか、渋いのが好き。母は反対に、九谷とか有田とかきれいな色のが好きで、いつももめてました。

 父がお酒やら賭け事やらで金遣いが荒く、一文無しになる。三日も四日もご飯ないねん。私は五歳のころから、近所に「ご飯食べてへん」って泣きついて、お米もらってくる役でした。

 信楽で隣の家のお父さんが服役した時は、帰ってくるまで一家を泊めてあげるなど、他人の面倒はよく見た。それで私たちのご飯は減らすけど、自分はお酒飲むんですよね。犠牲になるのは私たちやってん。

 私は自分の身と家を守るため、信楽のお巡りさんから柔道を習ってた。父があんまり酒飲んで暴れるし、好きなことばっかりして母とけんかする。私が止めに入ると、両方からたたかれるねん。もうほんま頭に来て、あかんけど父を投げ飛ばした。後ろ手につかんで背中に足載せて、こう言うた。「心中しよう」って。

 情けないのは母。さんざん夫婦げんかしてるの止めた私に、オンオン泣いて「清子、許してやって」やて。その時に、自分は自立心のある母親にならなあかん、って思いましたよ。

 -陶芸を始めたきっかけは。

 手先を使うことが好きで絵は小さい頃から描いてました。父もやきもの好きだったし、私の通学路にも信楽焼があり、自然に興味が湧いたと思います。生活のために陶器会社で絵付けを覚えて、二十七歳で独立しました。何の気なしに展覧会に出したら、とんとん拍子に売れた。百貨店でも売り上げナンバーワンやったと思いますよ。ほかに女性陶芸家もいたけど、みんなアートみたいな感じで、私みたいに穴窯を自分でたくなんて人はいなかった。

 -なぜ釉薬(ゆうやく)を使わず、穴窯で焼き締める「信楽自然釉」に取り組んだのですか。

 古代の窯跡で室町期のつぼのかけらを見つけたから。その中に、何種類も色が残ってた。当時は登り窯から、灯油、ガス、電気の窯が主流になってきて、みんな釉薬掛けてたけど、見つけた「古(こ)信楽」の色を出したいって思ったんやね。

 世界じゅうで一つとして同じ物、同じ形、同じ色がない、ということにこだわった。神山清子の価値をいかに育てるか。外国もほうぼう歩いて色を調べ、どこにもない色やと確信した。必ず誰かがまねをする。まねできない形と色を見つけ出さないと、同じような物が出てきたら、私が死んで消えちゃうじゃないですか。誰が見ても「あ、清子さんやな」って分かるインパクトが欲しかってん。

 -長男の賢一さんは、どんな方でしたか。

 高校卒業してから信楽窯業技術試験場に行って、本当は二年間のところ、白血病が判明するまで十年余り通ってた。曜変天目茶碗一つに絞って、私の自然釉に対抗しました。亡くなる時、第一人者の先生方が「もったいない、日本の損失だ」と言ってくれました。あの子がもし今も生きてたら、天目で世界的に有名になってたと思いますよ。

 二十九歳の時、家の仕事場でつぼを作ってた時、ろくろの横で、バターンってあおむけに倒れた。立ち上がれなくて、抱えて病院に連れて行きました。二年半の命やと言われた。

 その頃、当時の厚生省の関係者がたまたま信楽に来て、私の作品を買ってくれてん。それで話が伝わったけど、省からは「骨髄バンクをつくる話はあるが、早くて十年後、もしかしたら二十年後」って言われた。でも「民間が声を上げたらもっと早くできるかもしれない」ということで、賢一の名前を冠した団体を立ち上げ、設立運動を始めた。

 日本じゅうのお医者さんや患者さんの家族がたくさん協力してくれたけど、地元でも「病気がうつる」とか「自分の息子のためにお金を使おうとしてる」とか言う心ない人がいた。でも、余命二年半の賢一には骨髄移植は間に合わん、って分かっててん。血液検査のための募金しても額は知れてるから、私も自分の作品売って捻出しました。

 目立つことをすると、前をふさごうとする者が必ず出てくる。私みたいに自立して、一人で立ち上がれたらいいけど、よほど頑固で力のある人じゃないと立ち上がれへん。人のやることを応援しないまでも、立ちふさがるような世の中になったらあかん。人間的な団結が欲しいと思いますね。

 -なぜ賢一さんが助からないと分かっていて運動を続けたのですか。

 病気が分かってから、あの子と約束した。泣かないこと、私も涙を落とさないこと。笑って死ぬんだと。

 何もなく、泣きながら死ぬんやなくて、笑顔で「ありがとう」って言われながら死んだ方がいいじゃないですか。最後の贈り物として、みんなからの「ありがとう」という言葉をあの子にあげたかった。

 早く死ぬということは親不孝であり、みんなに恩返しせずに逝くのは、人間としてずるい、ってあの子を責めた。二年間、にこやかに笑って「ありがとう」をいっぱいもらって、いいことをしたな、って思える最期の方が楽だろうと。

 私も日本じゅうの患者さんたちのお見舞いに行った。みんなから手を握られ、早く骨髄バンクができたらみんな助かる、という希望の的やったんです。

 国の動きもものすごく早くなった。二年くらいでできたからね。奇跡です。私と賢一が立ち上がらなかったら、骨髄バンクはできなかった。誰にもできない仕事した。親子でやったこと、誇りに思ってますよ。

 <こうやま・きよこ> 1936年、長崎県佐世保市生まれ。44年に滋賀県日野町に一家で移り47年に雲井村勅旨(現在の滋賀県甲賀市信楽町)へ。陶器製造会社に就職して絵付けを担当後、27歳で独立。女性陶芸家の草分け的存在に。自宅に穴窯を築き、土の中の鉄分が酸化して発色する鮮やかな「火色」や、薪の灰が溶けてできる深緑の「ビードロ」が特徴の「信楽自然釉」が注目を集めた。同じく陶芸家になり、曜変天目茶碗の作陶に打ち込んだ長男の賢一さんは、29歳の時に慢性骨髄性白血病が判明。92年に31歳の若さで他界するまで、親子で骨髄バンク設立運動に奔走する姿は、田中裕子さん主演の映画「火火(ひび)」(2005年公開、高橋伴明監督)にも描かれた。

◆あなたに伝えたい

 同じような物が出てきたら、私が死んで消えちゃうじゃないですか。誰が見ても「あ、清子さんやな」って分かるインパクトが欲しかってん。

◆インタビューを終えて

 訪ねたのは「寸越窯(ずんごえがま)」の看板が掛かった自宅。築いて半世紀近くの穴窯に面した古民家で、話を聞いた。縁側にちょこんと座るひょうひょうとした姿からは想像もつかないエピソードの数々に、しっかりと折れない芯を持ちながらも、しなやかに生きる強さが感じ取れた。

 畳の上や棚に並ぶ壺(つぼ)や器は、「スカーレット」でヒロインの作品として登場した。視聴者に強烈な印象を与えた質実剛健な風合いは、もはや「ザ・信楽焼」。火鉢、たぬきの置物、ポップな絵付けの食器と多様化が進む信楽焼にあって、戦後の混乱期に一人の女性が正面から土と炎に向き合い、築き上げた力強さに驚嘆せざるを得ない。

 (築山栄太郎)

 

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