更新日 2017年09月22日
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伊藤博文暗殺 安重根の暗殺の理由
【明治日本の対韓政策】(深谷博治著 友邦協会)
当時の伊藤博文は日韓関係について次のように語っています。
「日本は非文明的、非人道的な働きをしてまでも韓国を滅ぼさんと欲するものではない。韓国の進歩は多いに日本の望むところであって、韓国はその国力を発展せしむるため、自由の行動をしてよろしいけれども、ただ、ここにただ一つの条件がある。すなわち、韓国は日本と提携すべしということ、これである。日章旗と巴字旗(韓国旗)とが並び立てば日本は満足である。日本は何を苦しんで韓国を亡ぼすであろうか。自分は実に日韓の親睦を厚くするについては、自分の赤誠を貢献しようとしている。しかも、日清・日露の両大戦役の間、韓国は一体何をしたか。陰謀の外に何をしたか。戦争中は傍観しただけではないか。諸君は、日本が、にわかに来たって、韓国を亡ぼすならんと思うのは、果たして何に基づくのか聞きたいものである。
日本は韓国の陰謀を杜絶するため、韓国の外交権を日本に譲れというた。だが、日本は韓国を合併する必要はない。合併は甚だ厄介である。韓国は自治を要する。しかも、日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂げ難い。これが今回の新協約を結んだ所以なのである」
更に、1905年の伊藤のメモには、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、伊藤博文は保護国とするのは国力がつくまでの一時的なものと考えていたと思われる。
安重根が日本の検察官に語ったと言われている15の理由

【The Straits Times】1909年12月2日5面 シンガポールの英字新聞 安重根の15個の暗殺理由
予審において、検察官溝渕孝雄に動機を尋ねられた際に、安は下記のような伊藤博文を暗殺した15の理由を列挙した。
  • 1:今ヨリ十年バカリ前、伊藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ。
  • 2:今ヨリ五年前、伊藤サンハ兵力ヲ以ッテ五カ条ノ条約ヲ締結セラレマシタガ、ソレハミナ韓国ニトリテハ非常ナル不利益ノ箇条デアリマス。
  • 3:今ヨリ三年前、伊藤サンガ締結セラレマシタ十二ケ条ノ条約ハ、イズレモ韓国ニトリ軍隊上非常ナル不利益ノ事柄デアリマシタ。
  • 4:伊藤サンハ強イテ韓国皇帝ノ廃位ヲ図リマシタ。
  • 5:韓国ノ兵隊ハ伊藤サンノタメニ解散セシメラレマシタ。
  • 6:条約締結ニツキ、韓国民ガイキドオリ義兵ガ起リマシタガ、ソノ関係上、伊藤サンハ韓国ノ良民ヲ多数殺サセマシタ。
  • 7:韓国ノ政治、ソノ他ノ権利ヲ奪イマシタ。
  • 8:韓国ノ学校ニ用イタル良好ナル教科書ヲ伊藤サンノ指示ノモトニ焼却シマシタ。
  • 9:韓国人民ニ新聞ノ購読ヲ禁ジマシタ。
  • 10:ナンラアテルベキ金ナキニモカカワラズ、性質ノヨロシカラザル韓国官吏ニ金ヲ与ヘ、韓国民ニナンラノ事モ知ラシメズシテ終ニ第一銀行券ヲ発行シテオリマス。
  • 11:韓国民ノ負担ニ帰スベキ国債二千三百万円ヲ募リ、コレヲ韓国民ニ知ラシメズシテ、ソノ金ハ官吏間ニオイテ勝手ニ処分シタリトモ聞き、マタ土地ヲ奪リシタメナリトスト聞キマシタ。コレ韓国民ニトリテハ非常ナル不利益ノ事デアリマス。
  • 12:伊藤サンハ東洋ノ平和ヲ攪乱シマシタ。ソノ訳ト申スハ、日露戦争当時ヨリ、東洋平和維持ナリト言イツツ、韓皇帝ヲ廃シ、当初ノ宣言トハコトゴトク反対ノ結果ヲ見ルニ至リ、韓国民二千万ミナ憤慨シテオリマス。
  • 13:韓国ノ欲セザルニモカカワラズ、伊藤サンハ韓国保護ニ名ヲ借リ、韓国政府ノ一部ノ者ト意思ヲ通ジ、韓国ニ不利益ナル施設ヲ致シテオリマス。
  • 14:今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。
  • 15:伊藤サンハ、韓国民ガ憤慨シオルニモカカワラズ、日本皇帝ヤ、ソノ他世界各国ニ対シ、韓国ハ無事ナリト言ウテ欺イテオリマス。

新聞集成明治編年史. 第十四卷 108ページ
1:明成皇后を殺害した罪
閔妃殺害事件(1895年10月8日)のことですが、その時伊藤博文は総理大臣をしていたが、伊藤博文や日本政府が直接関与したという資料はありません。
事件直後に行われた朝鮮国内の裁判では、興宣大院君を事件の首謀者とする朝鮮王朝内の権力闘争としての判決が出ている。
朝鮮の裁判では、「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周会(前軍部協辨=次官)をはじめ、朴銑(日本公使館通訳)、尹錫禹(親衛隊副尉)の3人とその家族を同年10月19日に処刑した。
日本公使・三浦梧楼らの主導による親露派の閔妃を排除するためのクーデターとする説が日本における歴史研究のほとんどで採用されているとの見解があり、歴史事典の多くがこの説を明記している。三浦をはじめ事件に関与した容疑のある外交官、軍人らには帰朝命令が、日本人民間人には退韓が命ぜられた。軍人8人は第五師団の軍法会議にかけられ、三浦ら48名は謀殺罪等で起訴され、広島監獄未決に収監されたが、首謀と殺害に関して証拠不十分で免訴となり、釈放された。
2:1905年11月、韓国を日本の保護国にした罪[日韓保護条約(第2次日韓協約)]
日韓保護条約は、日露戦争の講和条約で「日本は朝鮮を指導、保護、監督する権利を有する」という条項が基になっています。
ポーツマス条約にこの項目を盛り込む切っ掛けは、朝鮮は1895年の下関条約で独立したが、1896年2月11日に露館播遷(ろかんはせ)・1896年6月3日に第一次露清密約などでロシアに擦り寄り、このような朝鮮の行動によって北東アジア情勢が混乱しており、東洋の治安と朝鮮の保全のために、この保護条約は必要なものでした。
3:1907年7月丁未七条約(第3次日韓協約)を強制的に結ぶようにした罪
高宗は2の日韓保護条約(第2次日韓協約)を無視し、1907年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り、日韓保護条約の無効を訴えた。
高宗の国際条約を無視し行為であり、締結国である日本の体面を傷つけた事になる。
これの事件で激怒した伊藤博文は、高宗に謁見し電報の写しを見せながら、『かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず。』と迫ったと言われている。
第3次日韓協約の第4条:高級官吏の任免権を韓国統監(当時は伊藤博文)が掌握すること。
第3次日韓協約の第5条:韓国政府の官吏に日本人を登用できること
国際ルールを守り、国家間のマナーに従い行動していたのは、日本国であり、伊藤博文である。
4:高宗皇帝を退位させた罪
1907年のハーグ密使事件の際には、朝鮮の農商工部大臣の宋秉畯が皇帝高宗の譲位運動を展開、結果的に高宗を退位に追い込んだ。
実は退位を最も強く迫ったのは宋秉畯で、皇帝である高宗を怒鳴りつけたといわれている。
5:軍隊を解散させた罪
詔書を出したのは、純宗皇帝(高宗の子)です。理由は、両班制度が残る軍隊は役立たずだった為と、後日に徴兵制を実施する為です。両班は本より重たい物を持とうとせず、汗をかく労働をしないと言われていて、軍隊の内部に古い身分制が残って居たため。
安重根も両班出身である。
6:罪のない人々を虐殺した罪
高宗の退位と軍隊解散に対して決起した「義兵」を、日本軍が殺した事について罪だと言っている。
しかし、その「義兵」は正規の条約に基づいた朝鮮駐留の日本軍を襲うなどしており、それを鎮圧するのは自衛権として当然の行為である。
それに、その「義兵」は理由もなく、朝鮮民衆、日本人、シナ人を襲い略奪を繰り返している。
罪のない人々を虐殺したのは、韓国の「義兵」である。
7:韓国人の権利を剥奪した罪
当時の韓国は自立した独立国家ではなかった(だから外交権を持たない保護国になってしまう)。世界の中でも最も遅れた後進国で、国民の生活を顧みないで権力闘争を繰り返し、自ら破滅に向かい進んでいた事にも気が付いていなかった。
李氏朝鮮は日本の強い後押しで、1894年(干支で甲午)から1895年にかけ甲午改革を行う。1895年から1896年にかけて行われた乙未改革も同様である。
18947月27日に改革の中心機関として軍国機務処が設置され、次のような改革が進められた。
  • 1:中国の年号の使用を止め、開国紀年に変更。
  • 2:宮内府と議政府の分離。
  • 3:六曹(吏曹、戸曹、礼曹、兵曹、刑曹、工曹)を八衙門(内務、外務、度支(財務)、軍務、法務、学務、工務、農商務)に再編。
  • 4:科挙の廃止。
  • 5:封建的身分制の廃止。
  • 6:奴婢の廃止。
  • 7:人身売買禁止。
  • 8:拷問廃止。
  • 9:罪人連座法廃止。
  • 10:早婚禁止。
  • 11:寡婦の再婚を許諾。
  • 12:財政改革。
  • 13:租税の金納化。
  • 14:通貨の銀本位制。
  • 15:度量衡の統一。
12月には軍国機務処が廃止され、甲申政変に失敗して日本に亡命していた朴泳孝が内務大臣となり、引き続き次のような改革が進められた。
  • 1:議政府を内閣とし、近代的な内閣制度を導入。
  • 2:洪範14条の発布。
  • 3:八道を二十三府制に変える地方制度改革。
  • 4:税制制度改革。
  • 5:近代的な警察・軍事制度の確立。
  • 6:司法制度の近代化。
ところが、1895年5月に政権内部の対立で、金弘集内閣が崩壊する。朴泳孝は次の朴定陽内閣でも内務大臣となるが、三国干渉の結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、王妃の閔妃を中心に親露派の力が強まった。朴泳孝は8月に謀反の疑いをかけられ、また日本に亡命する。その後は親露派の内閣が生まれ、改革は停滞することとなった。
封建的身分制の廃止・奴婢の廃止・人身売買禁止・拷問廃止・罪人連座法廃止・早婚禁止・寡婦の再婚を許諾・・・身本制度での下層階級の差別を無くしたことを[韓国人の権利を剥奪]と言っているのか!?
8:韓国の教科書を燃やした罪   9:韓国人たちが新聞に寄与しないようにした罪
日本の後押しで甲午改革を進めたが、改革で既得権益を失うのは支配者階級の[両班]である。
1~7の理由で保護国に成ってしまい[反日]活動で抵抗するのが両班である。彼らが「反日的排他的教科書」や「反日煽動新聞」で反日活動を行なっている。
それを取り締まり改革を進める事は当然であろう。
10:銀行紙幣(第一銀行券)を強制的に使用した罪
第一銀行券の使用は1905年で、伊藤統監の就任以前(1906~1909)に発行しています。
それに、それ以前の朝鮮は清国の属国だった為に通貨の発行権がなく、定額の銅銭しかないような有様で、紙幣どころか貨幣経済以前の状態でした。
11:韓国が300万ポンドの負債を抱えた罪
国債2300万円を募り、官吏の間で分配し、この時土地も奪ったと言っています。しかし根拠の無い言いがかりである。
露館播遷(ろかんはせ)で高宗がロシア公館で政務を行っていた時に、ロシアに売り払った鉱山採掘権・漁業権・森林伐採権・鉄道敷設権・慶南・馬山浦の栗九味租借などを買い戻したのは、日本国民の税金である。
12:東洋の平和を破った罪
大韓帝国皇帝を退位させる等の行為を言っています。
しかし、大韓帝国皇帝の高宗は、日露戦争中はロシアに通じ、外国人記者を買収し、日本軍の鉄道・電信の破壊を内密に命じる等しています。これらは明確な日本に対しての背信行為です。
それに、安重根は当時のイギリス、フランス等の植民地の国王が同じことをしたら、どうなるかを知らなかったのである。
13:韓国に対する日本の保護政策を糊塗した罪
韓国に対する日本の保護政策を糊塗した罪
親日派と協力して、保護の名目で大韓帝国に不利な施策を行った(と思っている)事についてです。
これも1~12までの事への誤解によるものです。
14:日本の天皇の父上である孝明天皇を殺した罪
孝明天皇の暗殺ですが、考明天皇の崩御は1866年12月25日で、当時の伊藤博文は長州の三田尻にいましたし、そもそも宮中に入れる身分ではありません。
15:日本と世界を欺いた罪
国際社会に「大韓帝国は無事です」と宣伝したことを指している。[ハーグ密使事件に対する日本が国際社会に行った説明]
当時は世界最貧国で、清国の属国で、権力闘争による王族の殺し合いや、それらの悪政による両班の横暴、賄賂、人身売買、盗賊の横行など、国とは言えない状態であった。
それを日本が保護国とすることで治安が確立し、朝鮮人の生活は改善されました。
この事を指して、日本国は国際社会に向かい、韓国は[無事]であると説明しているのである。
安重根は韓国では[英雄]とされている。
隣接する二国にはそれぞれ異なる[歴史認識]がある。
それぞれに認め合い尊重し合えばいい事であり、無理に統一することはない。
しかし、安重根が主張している伊藤博文暗殺の理由があまりにも無知で偏りすぎている。
明治維新の立役者で、明治天皇からも厚く信頼され、高齢ではあったが日本国の方向性を決める羅針盤の役割はまだまだ期待できたであろう。
国際社会でも東洋の[ビスマルク]と例えられた逸材である。武士社会の封建制度が終わり、民主主義の国家建設へと向かう時代の伊藤博文の功績はとても大きなものがあった。
鎖国から目覚めたばかりの日本に明治の産業革命をお越し、版籍奉還から廃藩置県を行い、憲法を作成し、議会民主主義を導き、日清・日露戦争後の条約締結、これらは彼一人の功績では無いが、伊藤博文の存在は大きかった。
日本国にとって功績ある重鎮を[無知な犯罪者]に暗殺されたことは非常に残念だ。
[無知な犯罪者]を英雄と讃えているのが、隣国の韓国である。
私(管理人)の歴史認識に対しての批判は控えてください。私は意見(歴史認識)の違い人も尊重します。