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中世の制札

 中世の制札*は、筆者が原本、複製、写真などから確認した限りでは、写しを含めて90点余りを数え、これについては確認することのできたデータを別表にまとめた。結果としては、近江大島奥津島文書の二点を除いてすべて武家領主の発給したものであり、中世社会の中で機能していた制札全体について検討するには不十分だが、遺漏は多いとしても今日に伝存した中世制札の全体的な傾向は、この表からうかがい知ることができる。
  *「制札」の語は文書の様式としても使用されるが、ここでは木札のもののみを指し、文書様式の場合は「禁制」などとする。時期は便宜上、最古とされる文治元年(1185)から、慶長6年(1601)までを対象とした。丹後金剛心院に慶長6年まで一連の制札があることなどによる。これ以降は近世制札の範疇で扱うのが妥当であろう。

1 内容
 最も多いのは軍勢の狼藉行為を禁じたもので、これは戦乱の際に、進駐してきた軍勢から安全の保障のために発給してもらったもの、ないしは軍勢の側が保護下においた対象に発給したものである。安全保障の根拠となる制札が多く伝存しているのは理解しやすい。また、宛所ないし所蔵者は大部分が寺社だが、戦乱などの際に被害を被りやすく、軍勢とも比較的制札を受け取りやすい関係にあったと思われ、さらに文書自体が残存しやすい寺社に制札が多く残されているのも自然であろう。
 唯一民間の制札と言える大島奥津島文書の二点(10・12)は、神社の座における酒配分の定めや徳政の規定に関するもので、この他、事実かはともかく、狂言にも婿取りのために高札を掲げる曲があるなど、多様な内容の制札が、権力者からばかりでなく出されていたであろうことは十分考慮する必要がある。
 16世紀後半ころからは、47・58など武家領主から戦後の村への還住の奨励が見られ、また一方で市場や都市の秩序維持や特権付与による市立て、集住などを図るものも見られるようになる。信長の楽市場宛て46、秀吉の三木宛て57などは戦後処理の側面が強いが、後北条氏の荻野新宿宛て77などは新たな市立ての際に出されたものであろう。さらに80・81等の大津船仲間の特権付与など、領主の様々な面での積極的な関与に制札が用いられるようになっていることがうかがえる。

2 形状
 武家制札に限られるが、かなりはっきりした時代的な変遷がうかがえる。まず鎌倉期のものは概してかなり縦長で、縦横比では1,8~1,9台のものがあり、またかなり大きなものがあるが、室町期には縦が短くなって縦横比1,5程度のものが多く、大きさも縦40センチ程度になって定型化してくる。そして織豊期ころにはさらに縦が短くなり、縦横比は1,1~1,2程度になる。いずれにしても、いくつかの例外を除けば、板を縦方向に使った縦長の形状であることは一致している。
 また、条数を見ると、文明14年(1482)の細川政元17以降は三ヶ条のものが多く、特に軍勢の狼藉停止を命じたものは、大部分が三ヶ条で出されている。木札の制札のみでなく、紙に書かれたものも同様の傾向を示すことから、この時期に、室町幕府の書札礼(しょさつれい)として、禁制の書き方が、そして禁制を主要な内容とする制札についても、「縦長・三ヶ条」という規範が成立したのだと思われる。20・21の山名氏の制札が三ヶ条様式になっていないのは、山名氏が西軍すなわち反幕府方の武将であったため、この規範に従わなかったためだと思われる。使用した板も、幕府系では正目のものを使う傾向があるが、山名氏のものは板目である。
 この縦長・三ヶ条という室町幕府の書札礼は、かなり強い影響力を持っていたようで、信長や秀吉などもかなり従っている。
 しかし、板を縦位置で使う縦長の様式は、大きさに限界があり、多くの条数ないし行数を盛り込むことができない。特に幅が30センチ程度に限定される正目板の場合制約が大きい。しかるに、前述のように制札の内容は、織豊期ころには狼藉停止を中心とする内容から、都市法など多様なものになり、条数・行数も三条・三行では済まないケースが多くなってくる。
 行数を増やすためには、1)板を継ぎ足して幅を広くする、2)板自体を大きくする、3)板を横位置で用いて横長にする、の三つの方法があり、1)伝統的な縦位置と正目板にこだわって板を継いだのが岐阜楽市場宛の信長46、2)正目にはこだわらず、板目板を使って大きな制札を作ったのが三木宛ての秀吉57など、そして3)室町幕府系の板の使い方を全く無視して、横位置・横長の制札を作ったのが、後北条氏の35、77であり、一点づつしか確認できないが、武田(56)・徳川(41)も横長であることから、室町幕府の権威が直接及ばない東国に普遍的な現象だったと考えることができる。今川氏は原本で確認できるものがないが、36が原本の様式を伝えているとすれば横長の可能性もあり、「縦」と「横」の地域がどこで分かれるのかは興味がもたれる。
 条数・行数を増やすために最も合理的なのは3)の横位置・横長化で、これならほとんど際限なく多くの内容を盛り込むことができる。江戸時代の幕府系制札は一般的にこの横位置・横長の形態をとっており、これは東国流の様式を受け継いだものとも言えるが、豊臣政権下でも80・81など条数が多いために横長化しているものが見られることからすれば、領主の関与する事項が増大し、いわばおせっかいになって盛り込む内容が増えたために、必然的に横位置・横長になったと考えた方がよいかもしれない。中世的な権力から近世的な権力への変化とも言えよう。
 ただ、寺社関係のものには、近世でも縦長、また三ヶ条といった伝統的な形式で出されているものがある。これは、中世以来の故実に則ったもの、という意識によるものであろう。

織田信長岐阜楽市場宛制札(制札一覧No.46)復原複製
 (国立歴史民俗博物館製作。原品は岐阜市神田町円徳寺所蔵。)
3 掲示方法
 最後に中世の制札がどのように用いられていたかだが、まずすべての制札が実際に掲示されていたわけではなく、対象の保護ないし特権認可のために渡された後は、一種の証拠書類として必要に応じて見せるのみで、普段は室内のしかるべき場所に保管されていた場合もかなりあったと思われる。例えば、岐阜加納(楽市場)に出された一連の制札46・50・73・75は、最初の信長46のみ屋外に掲示された明瞭な痕跡(変色・釘穴)があるが、後の三枚にはその形跡がない。和田寺所蔵の17・31などは、制札の原本は保管して、写しの方を掲示している。一般に禁制類の場合は、紙に書かれた文書を受給者が板に写して掲示する場合がむしろ普通だったようで、この「証拠書類」の意味では、木札の制札は紙の文書と本質的な差はない。どのような場合に木の板に書かれて発給されるのかは、必ずしも明らかでないが、何らかの理由で受給者が特に要求した場合、前例を踏襲した場合、寺社等への尊崇を示す場合、市立てなど文書の受け取り手がおらず領主自らが制札を掲示する必要があった場合、などが考えられよう。戦時などには、発給者が最初から掲示の便を考えて木札を用意していたのかもしれない。
 では、掲示の方法にはどのようなものがあっただろうか。いくつかの制札にはその手がかりとなる痕跡が残っている。大福光寺宛ての9には、中央部に三ヶ所の釘穴、また裏には風化の異なる部分と朱の付着が見られ、山門などの朱塗りの建物に直接打ち付けられていたと推定されている。寺社における掲示の一つのあり方だろう。
 柱に付けて立てる方式は、いくつかの制札で痕跡を確認できる。和田寺の18・19および32・33は、先述の写しの方を掲示した例だが、裏に二本の横木を付け、その中に柱を通していたと推定されている。後北条氏の35は裏に竪溝、信長の46は柱に直接釘付け、秀吉の57は柱を支える横木を下部に付けている、などである。
 問題は柱の高さで、これによってイメージがかなり変わると思われるのだが、残念ながら今のところ具体的なデータはない。ただ、「高札(たかふだ)」の語が中世からあり、領主発給のものの場合は権威を示す必要もあったであろうから、人間の背よりもある程度高い、見上げる位置にあったと考えてみたい。信長制札46の復原では、最大限のつもりで上まで210センチ(約7尺)で製作してみたのだが、少し高すぎるだろうか。
 なお、以上の柱付けの例には、いずれも屋根ないしその痕跡(天部の釘穴など)が認められる。近世以降、現在に至るまで駒形の木札にはつきものの屋根だが、古い時期の制札には確認されておらず、本来の形では付属していなかったものが、柱による掲示の際に天部を保護する目的から、次第に一般化したのではないかと思われる。
 柱付けではない掲示方法を取っているのが後北条氏の77で、変色などから屋外に掲示されていたことは確実だが、柱や屋根の痕跡はなく、底部には二本の釘痕がある。どのような方法かは正確には分からないが、雨ざらしではないと思われることも考慮すれば、あるいは江戸期の高札場のような、制札を掲示するための、屋根を持った独立の施設が作られていたことを想像してもよいのかもしれない。

  中世制札一覧(2001年1月12日更新)

(「中世の制札―現存資料の検討から―」大阪人権博物館特別展図録『高札―支配と自治の最前線―』1998年4月を改訂。)
*「中世制札一覧」は随時更新します。情報をお寄せください。



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