苗木誠、人生最悪の日③
男は、赤福寿太郎という自分の名前が好きではなかった。
名乗る度に、幸せそうな名前だと毎回のように言われて、それがあまりによく言われるので、最近は初対面の相手に本名を名乗らないようにしていた。
とは言え、名は体を表すとはよく言ったもので、赤福は生まれてから三十二年間、今まで一度も自分が不運だと思ったことがない。彼はそれほど驚異的な幸運の持ち主だった。
仕事柄、過去に幾度となく危機的状況に陥ったが、その度に色んな幸運が重なって、なんとかなってきた。その運の強さは彼の強みとも言えたが、彼自身はそれを認めるのを嫌がった。そもそも、彼は運に左右されるような状況自体が許せなかったのだ。一度のミスが身の破滅を招く彼の仕事において、それがどれだけ危険なことか熟知していたからだ。
ちなみに、その赤福の仕事とは――強盗である。
彼が仕事をする上で一番気を付けていたのは、運や他人といった自分ではどうにもならない要素をできるだけ排除することだった。
彼は、何よりも計画性を重んじた。
だから、彼は今まですべての仕事を一人で計画し、一人で実行してきた。
逆に言えば、それができない仕事には決して手を付けなかった。金に欲がくらんだ仲間同士の裏切り合いほど厄介なものはないし、仲間に足を引っ張られるのもゴメンだった。もちろん、神頼みや運頼りなんてもってのほかだ。
当然、今回の仕事もそうだった。
赤福はたった一人でそれを計画し、たった一人でそれを実行した。
今回狙ったのは、商店街にある小さな宝石店だった。しょぼくれた外観に似合わず、かなり値の張る宝石類を隠し持っているとの情報を得ていた。さらに、金をケチって警備が疎かになっているらしいという、滅多にない好物件だった。
赤福は綿密かつ大胆な計画を立て、それを一人で実行した。
結果、その計画は成功すべくして成功した。
赤福にしてみれば、それは当然の結果だ。
彼の計画は、他の要因などに付けいる隙を与えない、完璧な計画だったからだ。
そうやって計画通りに事を進めた赤福は、これまた計画通りに、戦利品を詰め込んだバッグを手に悠々とバスに乗り込んだ。仕事の際になるべく公共の交通機関を使うのも、彼なりのこだわりだった。繁華街ではバイクや車よりも公共の交通機関を使った方が、簡単に人ごみに紛れられるし、いつものように営業中のサラリーマンを装えば、その姿は一瞬にして街中に溶け込んでしまう。
実際、バスの最前列に腰を下ろした赤福を怪しむ者なんていなかったはずだ。
そこで仕事の成功を確信した赤福は、ようやく安堵の息を吐いた。
今回の仕事もうまくいった――と、バスに揺られながら満足感に浸っていたその時だった。
その計画のすべてを台無しにするほどの不運が、彼を襲った。
だが、その不運は彼自身のものではない。むしろ彼は巻き込まれただけだ。たまたまその場に居合わせた少年の不運に巻き込まれてしまっただけだ。
それは、今まであらゆる不運を跳ねのけてきた赤福でさえ抗えないほどの、とんでもない不運だった。
赤福は、自分をそんな不運に巻き込んだ張本人――床に倒れ込んでいる少年を見下ろしながら、音もなくすっと立ち上がると、
「あ、動かないでください。みなさんじっとして」
と、落ち着いた口調で言いながら、懐から取り出した大振りのアーミーナイフを乗客全員に見せつけた。
そして、自分を落ち着かせるように心の中で呟いた。
――まだ大丈夫だ。
――まだ計画を立て直せる余地は残っている。
◆
訳がわからなかった。
思考の糸がグチャグチャに絡み合い、大きな毛玉のように固まっている。
なんだこれ。
なんだこれ。
なんだこれ。
苗木は必死に状況を整理した。オーバーヒートしかけている思考力と記憶力を総動員させて、ここに至る経緯を振り返ってみた。
今日は久しぶりの快晴で、気分も良かったので、いつもとは違うルートを散歩することにしたら、たまたま通り掛かった公園でクラスメイトと出会い、そこで誘われるままジャンケン大会に参加したら、不運にも一発で負けてしまい、その罰ゲームとして買い出しに行った帰りに買い物をぶちまけてしまい、それがきっかけで老人に話し掛けられ、その彼の忘れ物を届ける為にこのバスに乗り込んだところで、運悪く足をもつれさせてしまって、とっさに手を伸ばして何かを掴んだせいで――こうなった。
「………………」
振り返ってみたところで、やはり訳がわからなかった。
倒れ込んだ苗木の周辺には宝石類が散らばっていて、さらにその頭上にはアーミーナイフが光っている。
アーミーナイフを持っている男は、どう見てもそんな物騒な物など似つかわしくない、至って普通の真面目そうなサラリーマンだった。
「大丈夫だ……まだ問題ない……」
そのサラリーマン風の男――赤福寿太郎がボソリと呟いた。
「ここからまた計画を立てればいい……その計画通りにやれば問題ない」
そう呟きながら、彼は必死に何かを考えている様子だった。
「あ、あの…」
と、苗木は恐る恐る声を掛けた。頭上の男に謝ろうとしたのだ。果たしてその行為が正しいのかわからなかったが、苗木にはその判断力すらなかった。
すると次の瞬間――ギロリと男の鋭い眼光が苗木を射抜いた。
「!」
苗木は思わず声を失った。
その視線には、自分の為なら平気で他人を傷付けられる冷酷さと残酷さがあった。とても真面目なサラリーマンの目ではなかった。
「えっと……とりあえず立ってくれますか?」
赤福はそんな鋭い眼光の持ち主とは思えない、穏やかな口調で言った。
「……え?」
「とりあえず立ってくれますか……って言ったんですけど」
「――ッ!」
それは一瞬だった。
赤福の体が傾いた――と思った次の瞬間には、アーミーナイフの切っ先が苗木の額の数センチ前まで迫っていた。
「……立てますよね?」
赤福がアーミーナイフの切っ先をゆっくり上げていく。苗木はその動きに合わせるようにして、その場に立ち上がった。
ガタガタと奥歯が音を立てて鳴っている。
苗木は助けを求めるように、眼球の動きだけで車内の乗客を見渡した。彼らは真っ青の顔のまま固まっている。たとえ声に出して助けを求めたところで、誰も動かないであろうことは明らかだった。
――あるがままを受け入れろ。
また、その言葉が苗木の脳裏をよぎった。
だが、さすがに今回は無理だ。この異常すぎる事態をどうやって受け入れればいいのか、苗木にはまったくわからなかった。
そして、そう言っていた老人も、苗木を助けようとする気配を見せなかった。
それどころか、彼は目を閉じたまま頭を垂れていた。
――寝たふり?
余計に性質が悪かった。
そもそも、この状況で寝たふりが通用すると本気で思っているのだろうか?
などと、苗木が余計なことに頭を回していると――
「ほら、こっちですよ……」
と、赤福が苗木の背中をドンと押した。
「わ…」
ヨタヨタと運転席の前まで歩いていく苗木。
次に、赤福はそこに座る運転手にアーミーナイフを突き付けると、
「えっと……ゆっくり立って、運転席から離れてくれますか?」
それを聞いた運転手は、抵抗の意を示すようにキッと唇を強く噛んだ。
すると、赤福はふぅと大きな息を吐き出し、
「僕はね……あなたに運転席から離れて欲しいって言ったんですよ」
相変わらずの平坦な声だが――そこには確かな威圧感があった。
「お願いですから、余計な真似はしないでくださいよ。ほら、バスには外に緊急事態を知らせるボタンがあるんでしょ? それくらいは知ってるんですよ。もし、あなたが妙な正義感でそのボタンを押したりしたら……」
苗木の喉元にアーミーナイフが突き付けられる。
「――ッ!」
「多分……この少年の命はありませんよ」
一瞬にして苗木の顔から血の気が失せていった。その真っ青な顔は、びっしょりと水浴びでもしたみたいに濡れている。
「で、どうしますか?」
赤福は再度、運転手に問い掛けた。
「……わ、わかった!」
運転手は慌てて立ち上がると、運転席のバーを上げ、バスの通路へと降りてきた。
赤福はそれを見届けると、今度は苗木に向かって言った。
「じゃあ……キミは運転席に座ってください」
「え?」
「キミには人質になってもらいます」
そう言って、運転席に苗木を突き飛ばした。
「……うわっ」
倒れ込むようにして運転席に腰を落とした苗木の横で、赤福は通路と運転席を遮るバーをガシャンと下げた。
それは牢屋の代わりだった。人質である苗木を閉じ込めておく為の牢屋だ。
だが、苗木にはそんな赤福の考えなど理解できなかった。
――バスの運転席なんて特別な場所にボクが座っていいのか?
などと、まるで場違いなことを考えていた。
その一方で、赤福はこのやりとりの間に考えた計画を実行に移そうとしていた。即興で練った簡単な計画ではあったが、トラブルの時ほどシンプルな計画に限る。
彼はまず、この場で最も警戒すべき運転手に床に散らばった宝石類を拾い集めさせた。乗客の一人が抱えていたリュックサックを奪うと、その中に宝石類を詰め込むよう、運転手に命じたのだ。
それが行われている間、赤福はバスの乗客が妙な行動を取らないか、注意深く監視し続けた。だが、それは杞憂だったようだ。乗客の誰もが青い顔のまま固まっていた。携帯で助けを呼んだり、車外にサインを送ろうとする人間もいないようだった。
それでも、赤福はダメ押しのように言った。
「あの……ヒーローになろうなんて考えない方がいいですよ」
それは乗客全員に向けられた言葉だった。
「別に、僕はあなたたちの物を盗んだ訳じゃない……だから、これはあなたたちとはまるで関係のない出来事なんです。関係ないことだと黙って見過ごせば、そのまま関係ないこととして終わる……それだけのことなんですよ」
わざわざ言われるまでもなく、バスの乗客たちはとにかく事態が収束するのを震えながら待っているだけだった――ただ一人を除いては。
「………………」
その人物は薄目を開けてじっと状況を窺っていた。
目の前のバスジャック犯の気が緩む瞬間を、虎視眈々と狙っていた。
あの、あごひげの老人である。
おそらく、あの宝石類を拾い集め終わった時こそがチャンスだと、彼は考えていた。
敵は注意深く周囲に気を配っているが、それでも目的の物を手にする瞬間は、そちらに意識が向けられるはずだ――老人にはそんな確信があった。
直後、床に這いつくばっていた運転手がボソリと呟くように言った。
「あの……集め終わりましたけど……」
それを聞いた赤福は小さく口角を上げると、運転手が手にしていたリュックをひったくるようにして奪った。
ズッシリと重量感のあるリュックが赤福の手に握られた。
――今だ!
老人はカッと目を見開くと、年寄りとは思えない俊敏さで赤福に飛び掛かった。
「……なッ!」
赤福の体が大きくバランスを崩す。
その背に、老人が覆い被さっていた。
「ワシに背を見せるとは愚かなヤツめ。ワシは剣道五段だぞ!」
それでも、赤福はなんとか踏み止まると、
「ふ、ふざけんなッ!」
と、それまでの落ち着いた口調とは打って変わった怒声を上げた。
「何が剣道だッ! 組みついてたら剣道関係ねーじゃねーか!」
確かにその通りではあるが、老人の踏み込みの早さと、怯まない思い切りの良さは、まさにその武道で培ったものでもあった。
背中の老人は、アーミーナイフが握られた赤福の右手を、両手でガッシリと掴んでいた。さすがの赤福もなかなか振り解けないようだ。
「クソがあああああっ! 離しやがれぇ!」
赤福はなりふり構わず暴れた。それだけ彼が追い詰められているということだった。
そんな叫び声を――苗木は運転席に座ったままの状態で聞いた。
と同時に、その体がビクッと大きく震えた。
恐怖で震えた訳ではない――その逆だった。
――助けなきゃ!
――あのおじいさんを助けなきゃ!
瞬間、苗木の目付きが変わった。
そこには、ちょっと気弱な普通の少年という誰もが彼に抱く印象とはまるでかけ離れた芯の通った力強さがあった。どんな苦境であろうと、どんな強敵であろうと、決して諦めない意志の強さがあった。
そして彼は、何かを考えるより先に動き出していた。
それは、ほとんど本能的な行動――苗木の本質的な行動だった。
つまり、苗木誠はこういう時にこそ立ち上がる人間ということだ。
そして彼は、運転席の脇に手をつき、両足を踏ん張って立ち上がった。
だが――その手と足の両方に、違和感があった。
次の瞬間、苗木の視界が大きく揺れた。
バスが猛スピードで急発進したせいだった。
「――ッ!?」
苗木が夢中で席から立とうと手をついた場所にはバスのギアがあり、そして足を踏ん張った場所にはアクセルペダルがあった。その結果――バスのギアがドライブに入り、さらにアクセルを踏んだことによって、バスが急発進してしまったのだ。
「うわああああっ!」
苗木は、思わず声を上げた。
それは他の乗客たちも一緒だった。悲鳴にも似た声が、バスのあちらこちらから上がっている。
猛スピードで走るバスの中、赤福はなんとかバランスを取ろうと粘っていたが、それも一瞬だけだった。すぐに堪えきれなくなって尻もちをつくと、その背に負ぶさっていた老人も、同じようにバスの床に投げ出された。
「な、何しとるんだ、少年っ!」
と、老人は床に倒れたまま叫んだ。
「ボ、ボクも……何が何だか……っ!」
確かに、傍から見ればそれは苗木の失態なのだろうが、彼からしてみれば、これもまた不運としか言いようのない出来事だった。車を運転したことがない苗木にとっては、たまたま手をついた場所に、なぜかバスのギアがあり、たまたま足を踏ん張った場所には、なぜかアクセルペダルがあったような感覚だった。
そもそも、普段であればバスが停車する際には、必ずサイドブレーキが掛けられているはずだった。だが、それはあくまで普段の話だ。この突然の緊急事態に、運転手はサイドブレーキを忘れたまま運転席から降りてしまっていた。
その結果が、さらなる不運として苗木に襲い掛かったのだった。
その不運は、苗木の決意をいとも簡単に吹き飛ばすと、彼を他の乗客たちごとまとめて飲み込んでしまった。
そしてバスが疾走する。
窓から見える景色が猛スピードで流れていく。
唸るようなエンジン音と、風を切る音が、車内の悲鳴と混じり合って聞こえてくる。
そんな中に――響く声があった。
「と、とりあえずブレーキだ! ブレーキを踏めっ!」
力の限りそう叫んだのは、あの老人だった。
「ブ、ブレーキ!」
ハッと我に返った苗木は、ペダルを踏んでいた足を上げると、その隣にあるブレーキペダルを思いっ切り踏み込んだ。
すると、バスは前のめりに急停止した。
「わああっ!」
バスは大きく揺れ、苗木の体は運転席から通路側へと投げ出された。
と、その拍子に彼の手が何かに当たった。どうやら、運転席の横にあるパネルの何かのスイッチを押してしまったようだ。
そう思った直後――柔らかな女性の声が車内に響いた。
「扉が開きます。ご注意ください」
そのアナウンスの後、バスの扉がゆっくりと開いていった。
「――ッ!」
最初に動いたのは赤福だった。
彼の判断は早かった。宝石を詰め込んだリュックを手に取ると、一目散にバスの外へと飛び出していった。
「な、何しとるんだ……追えっ!」
と、老人は床に倒れ込んだまま言った。彼は苦痛に顔を歪めていて、すぐには立ち上がれないようだった。おそらく倒れた時にどこか痛めたのだろう。
その声を苗木は運転席の下でひっくり返ったまま聞いた。運転席のバーの下から体半分を通路に投げ出した状態だったので、老人が自分を見ながら言ったのはわかったが――それでも、その言葉が自分に向けられたものだとは、すぐには気付かなかった。
「は、早くせんか、少年っ!」
と言われたところで、ようやくハッとした。
「……えっ? ボクが?」
「あ、当たり前だ! 誰のせいで逃げられたと思っとる!」
誰のせいって――え? ボクのせいなのか?
と困惑する苗木に、車内の乗客たちの何かを期待するような視線が一斉に向けられた。
「――ッ!」
苗木は絶句した。
――まさか、本当にボクに追えって?
苗木は慌てて車内を見回した。バスの運転手の姿を探そうとしたのだ。さすがに運転手なら止めてくれるはずだ。そう思ったのだが――運転手はさっきの急停車の際に転んで頭を打ったのだろう、後方の座席にもたれかかったまま気を失っていた。
やはり、この日の苗木はとことんツイてなかった。
「そ、そんな……」
と、顔を引きつらせる苗木に、老人は言った。
「大丈夫だ、向こうはもはや丸腰だ!」
老人はすぐ傍の座席の下に転がっているアーミーナイフを指差していた。確かに、それはさっきまで赤福が持っていた物だ。ということは、赤福が丸腰だというのも間違っていないのだろう。
だが、それがどうしたというのか。
そもそも、向こうが丸腰でこっちも丸腰だから大丈夫という考え方からしておかしい。同じ丸腰同士なら、むしろ苗木は圧倒的に不利だ。揉み合いになった時に彼に勝てる体力など彼は持ち合わせていないのだ。それは苗木自身が一番よく理解している。
――大丈夫って、何が大丈夫なんだよ。
苗木は心の中でそう毒づきながら、それでも、その体はバスの出入口へと向かっていた。
ほとんどヤケクソだった。と言うより、ヤケクソにでもならなければ、この常軌を逸した不運をあるがまま受け入れることなんてできっこなかった。
――もう、なるようになれっ!
苗木は勢い良くバスから飛び出した。
と同時に、誰かとぶつかって、その勢いのまま跳ね返された。
「うわっ!」
苗木はバスのステップに、勢い良く尻もちをついた。
「いて……ててて……」
何が起こったのか、と視線を正面に戻すと――バスの扉の外で、ガードレールに寄り掛かるようにして尻もちをついている白いヘルメット姿の男性が目に入った。
その男性は白いヘルメットの下に、上下紺で揃えたユニフォームを着ていた。
苗木は、その格好に見覚えがあった。
そうだ、その格好は――郵便配達員だ。
その郵便配達員は、急発進と急停車を繰り返すバスの異常に気が付き、様子を見ようと中に乗り込んだのだが――そこで運悪く飛び出してきた苗木と、正面衝突してしまったのだった。
「な、なんか……様子がおかしいからどうしたのかと思って……」
と、彼はしきりに首を気にする素振りを見せながら言った。どうやら、苗木とぶつかって転倒した際にガードレールに頭をぶつけたようだ。ヘルメットのお陰で、頭のケガ自体は心配はなさそうだが、どうやら首を痛めてしまったらしい。
「そ、それで……何かあったんですか?」
「あ、えっと……」
苗木が事情を説明すべきか、それとも相手の体を心配すべきか迷っていると、
「やっぱ……ツイてるんだな……」
別の所から、別の人物の声が上がった。
苗木はとっさにそちらに視線を移した。
そこには、ガードレール沿いに停車したバイクに跨がっている赤福の姿があった。
「運に左右されるのが嫌だから慎重に計画してるってのに……最終的には運に頼る羽目になっちゃうんだよな……」
赤福は真っ赤な郵便バイクのハンドルを握ったまま、穏やかな口調で言った。
「ま、だけど……ツイてるだけまだマシか」
確かにその通りだった。郵便配達員がバスの異変に気付いてくれたお陰で――その郵便配達員が苗木とぶつかってくれたお陰で――赤福はこの逃走手段を手に入れることができたのだから。
「あ、ただこれってボクだけの話じゃなくて……キミの話でもあるんですよ」
赤福は苗木に向かってそう言った。
「えっ?」
「だって……もし僕がキミのせいで捕まっていたら、僕は一生キミのことを恨んでたところですから……」
その自嘲気味な口調とは裏腹に、彼の顔付きは忌々しげに歪んでいた。まるで獲物を前にした飢えた野犬のような、見る者を震え上がらせる表情だった。
その目に睨まれた苗木は、微動だにできなくなってしまった。
逃げることも抵抗することもできず、その場でただ硬直しているだけの、襲われる直前の獲物になっていた。
その反応を見た赤福は――内心でほくそ笑んでいた。
赤福にしてみれば、それはちょっとした仕返しだった。
そもそも、自分の計画に影響しそうな要因をできるだけ排除しようとする赤福が、今のような脅し文句を言うこと自体がイレギュラーだった。
だが、どうしても言わずにはいられなかった。それだけ、目の前の少年が疎ましかったのだ。
自分の計画を次から次へとひっくり返し――しかも、この少年はそれを狙った訳ではなく、ただの偶然でやってしまっていた。
そんなただの運が、赤福はどうしても許せなかったのだ。
一泡吹かせたい――そんな想いから出た一言だった。
とは言え、それもただの脅しだ。
自分はもう二度とこの少年と会うことはないだろう。いや、むしろ自分が強盗犯だと彼に知られた以上は、そうでなければ困る。
もう、こんな運任せはゴメンだ。
今回は自分の運が勝ったから良かったようなものの――もう二度とこんな経験はしたくなない。
それは裏を返せば、彼が苗木の持つ運を恐れているということなのだが――赤福はそれには気付いていなかった。
いや、気付かないようにしていただけなのかもしれないが。
ギャルルルルルルル。
直後、締めの一言もないまま、赤福はバイクを急発進させた。
今まで色んなバイクに乗ってきたが、郵便バイクに乗るのはもちろん初めてだった。だが、なんてことはない。乗ってしまえば他のバイクとほとんど一緒だった。
唯一の難点は、このバイクがやたらと目立つということだった。そこでうずくまっている郵便配達員の服を奪うという手もあるが――いや、そんな時間は掛けられない。とりあえず、ここから離れるのが最優先だ。その後で目立たない別の移動手段に変えるのがいいだろう――そんな計画を頭の中で立てながら、赤福はバイクを走らせた。
「あっ! ちょ、ちょっと!」
郵便配達員は走り出したバイクを慌てて追った。さっきまで気にしていた首の痛みは、すっかりどこかに消えてしまったようだ。
そんな光景を目の当たりにしながら――苗木はバスのステップから降りただけで、そこから一歩も動けなかった。
「………………」
もうこれ以上関わるのは嫌だ――そんな諦めが苗木の思考を支配していた。
別に、赤福が逃げるのを望んでいる訳ではない。ただ、これ以上自分が何かをする理由を見出せなかっただけだ。たとえ捕まえたところで自分が恨まれるくらいなら――むしろ関わらないでいる方がずっと良かった。
それが、普通の高校生である苗木誠が出した結論だった。
当たり前と言えば、当たり前すぎる思考だ。苗木はヒーローでもなんでもない。彼は一般的なごく普通の高校生でしかないのだ――少なくともこの時点では。
そして、苗木はこのまま自分とは関係のないところですべてが終わることを望んだ。
だから、苗木はもう動かなかった。
――これで終わり。
――いつもの普通に戻れる。
――平和で退屈な日常に帰れる。
そう思いながら遠ざかっていくバイクを見つめていると、苗木の口から自然と大きなため息が漏れ出してきた。と同時に、緊張で強張っていた全身の筋肉がゆっくりとほぐれていくようだった。
だが、その直後――苗木は信じられない光景を目の当たりにした。
突然、赤福の乗った郵便バイクが横転したのだ。
――え?
横転したバイクは乗っていた赤福を投げ出した後も、回転しながら路面を滑っていき――電柱にぶつかったところでようやく止まった。
――え? え?
そして、苗木がその状況を理解するより先に――周囲に轟音が響き渡った。
ドオオオオオオオオオオオオオオオンッ!
身を震わすような激しい爆発音。
苗木は思わず身構えた。
とっさに両手で覆った視線の先では――横倒しになったバイクが、どす黒い煙に包まれて炎上している。
――え? え? え?
ますます理解が困難になっていった。
苗木は、しばらく呆然としたまま、炎上するバイクを見つめていた。
「……た、大変だッ!」
という郵便配達員の声で、苗木はようやく我に返った。
郵便配達員は大慌てで、炎上する郵便バイクに向かって駆けていった。
その現実離れした光景が現実のものだとやっと理解した苗木は、ゴクリと乾いた唾を飲み込むと、
「なんだよ……これ……?」
と、言葉にならない言葉を吐き出した。
そして、フラフラと覚束ない足取りで、炎に吸い寄せられるように車道を歩いていく。
すると、しばらく歩いたところで――
その足が何かを蹴った。
カランコロンと――破裂したジュースの缶が転がった。
「?」
その缶は何か激しい力で踏み潰されたようないびつな形に歪んでいた。さらに、その缶があった周辺には、ハッキリとバイクのタイヤ痕が残されている。
「……あ」
不意に、苗木の記憶がフラッシュバックを起こした。
――底の抜けたビニール袋。
――散乱した買い物の荷物。
――転がっていくジュースの缶。
――拾い集めたが明らかに少なくなっていた。
それらの記憶と共に、苗木はようやく理解した。
あの時、自分が散乱させてしまったジュースの缶は、車道を転がったままずっと放置されていて、それを踏んでしまったせいで赤福の乗った郵便バイクはスリップし――そして転倒したのだ。
つまり、目の前のこの惨状もまた、彼の不運が引き寄せた結果ということだった。
苗木はさっき、自分とは関係のないところですべてが終わることを望んだ。
苗木がそう望んだからこそ――起きたことだったのかもしれない。
それは、偶然に偶然が重なった、まるでリアリティーの欠片もない偶然。
にもかかわらず、それは起こった。
起こった以上はそれが真実だ。リアリティーがあろうがなかろうが、そんなことは関係ない。苗木誠の不運には、それを引き寄せるほどの力があったということだ。
「………………」
呆然とする苗木の視線の先には、車道に倒れたままの赤福の姿があった。
彼は気を失っているようだが、見る限りでは大きな怪我はなさそうだった。
だが、それは身体的なことであって、内面的には別だ。
おそらく、彼は致命傷に近い大きな傷を負ったはずだ。
赤福は今回の件で思い知ることになった。
いくら綿密に計画を立てようとも結局は運には敵わないのだ、と。
今回の失敗の原因はただ一つ――赤福の運を苗木の不運が上回ったということだ。
苗木のとてつもない不運の前では、赤福の計画なんてまるで役に立たなかった。彼がいくら運を排除しようとしたところで、それはまったく無意味だった。圧倒的な運の力の前では、どんな努力や才能も、それに蹂躙されるしか術がないのだ。
実感として、その事実に辿り着いてしまった赤福は、それまでのすべてを全否定されたような気分だったはずだ。今まで培ってきた人生観を粉々に粉砕されたような気分だ。
おそらく、彼は目を覚ました後で、改めて運を恐怖するはずだ。
今後、彼は強盗という仕事はおろか、日常生活においても、今までとはまるで違った接し方をしていかなければならないだろう。
今回の一件は、そういう意味での致命傷だった。
そして、赤福にそんな致命傷を与えた最悪の不運の持ち主は――
「はぁ……」
と、ガックリと肩を落とした。
――とんでもないことしちゃったな。
苗木は申し訳ない気持ちになっていた。
その視線の先では、今もまだ郵便バイクが真っ赤な炎を上げて燃え続けている。
さらに、その炎の周辺では、バイクが積んでいたと思われる大量の郵便物が、同じように真っ赤な炎に包まれていた。
郵便配達員は、その炎を前にオロオロと右往左往するばかりだった。
「な、なんてこった。大変だ……」
苗木はそんな彼の様子を見て、ますます申し訳ない気持ちになっていった。
その直後、ようやく遠くから薄らとサイレンの音が聞こえてきた。
徐々に近付いてくるサイレンの音を聞きながら、苗木は再びため息を吐き出した。
――この後も大変そうだな。
それは容易に想像できる未来であり――そして、実際その通りになる未来であった。
「本当に……最悪の日だよ……」
と、苗木は最後に改めてそう呟いた。
その日。
その嫌みなまでに晴れ渡った青空の日。
その日は紛れもなく、苗木誠にとって人生最悪の日であった。
しかし、実は――
この時の苗木はまだ、その日が《苗木誠にとって人生最悪の日》と呼ばれる本当の理由に気付いていなかった。
なぜなら、彼を襲うその日一番の不運は、この時点ではまだ起きていなかったからだ。
それは、この時ちょうど始まったばかりだった。
苗木が今も目にしているあの炎から――始まったばかりだった。
あの郵便バイクが積んでいた郵便の荷――その炎上から始まっていた。