「いってらっしゃい」ではなく「ありがとう」
手記の文面から、最後に書き上げたのは死の当日の3月7日と見られる。改ざん発覚の5日後だ。この日、昌子さんが出勤する際、いつもはぐったりしている俊夫さんが玄関まで見送りに来て言った。「ありがとう」……「いってらっしゃい」ではなく「ありがとう」。あれは死ぬ決意の表れだったのだろうと、今、昌子さんは思う。
職場から昌子さんはショートメールを送った。最初は11時45分。「大丈夫かな?」というメッセージにすぐ「はい」という返事が返ってきた。ところが16時6分、「疲れるほど悩んでる? 悩んだらだめよ」というメッセージにはいつまでも返事が来ない。不安になった昌子さんは職場を早退し急いで自宅に戻った。すると……。
昌子さんは自宅の部屋の窓を指しながら語った。
「あそこの手すりにひもをかけて首をつっていたんです。普通ならまず119番しますよね。でも私は『財務局に殺された』って思いがあるから、つい110番に電話しちゃったんです」
俊夫さんの「手記」は次の言葉で締めくくられている。これは彼が命を絶つ直前に渾身の思いで書き残した“遺書”であり、不正の告発文書なのだ。
◇
《◯刑事罰、懲戒処分を受けるべき者
佐川理財局長、当時の理財局次長、中村総務課長、企画課長、田村国有財産審理室長ほか幹部
担当窓口の杉田補佐(悪い事をぬけぬけとやることができる役人失格の職員)
この事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任をどう取るか、ずっと考えてきました。
事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません。
今の健康状態と体力ではこの方法をとるしかありませんでした。(55歳の春を迎えることができない儚さと怖さ)
家族(もっとも大切な家内)を泣かせ、彼女の人生を破壊させたのは、本省理財局です。
私の大好きな義母さん、謝っても、気が狂うほどの怖さと、辛さこんな人生って何?
兄、甥っ子、そして実父、みんなに迷惑をおかけしました。
さようなら》
◇
これとは別に、妻に宛てた手書きの遺書もある。
《「昌子へ
これまで本当にありがとう
ゴメンなさい 恐いよ、
心身ともに滅いりました」》
俊夫さんは死の前日、仲が良かった昌子さんの母に「あすは検察なんです」と話していたという。しかし今となっては、それが事実だったのかどうかはわからない。
命日は3月7日。俊夫さんの誕生日は3週間後の3月28日。「手記」にある通り、彼が55歳の春を迎えることはなかった。
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