特集◎モンゴル―シャマニズムの世界から

ディスカッション

 

松枝(司会) どうもありがとうございました。皆さんから質問やご意見などを伺いたいと思います。

参会者 最初に松枝先生に伺います。シャマンの三つの型のうち、世襲型を説明されて、その世襲型の中に日本の天皇も含まれるのではないかという指摘があったと思います。日本では大嘗祭が天皇の引き継ぐ最大の儀式です。大嘗祭の中で何が行なわれているか一般には分かりませんが、まさにシャマニズム的な行事が行なわれているのであろうと。よって、日本民族は、北方民族あるいは騎馬民族の影響を受けた天皇が大嘗祭において何かを引き継いでいるのではないかという点、いかがでしょうか。

松枝 外からは分からないので、お答えできる点は当然少ないわけですが、大政奉還以前にはある程度知られていることがありました。例えば大嘗祭に関する本居宣長の記述や、その前後の何人かの証言が残っています。天皇家の統括する自然界は、農事、農耕に関わることですし、公でやっている儀礼も農耕的なもので、そうした儀礼がいくつか迂回をしてきました。有名な騎馬民族説がありますが、どういう人間が日本にやって来たかはともかく、天皇家もしくはその周辺にある日本風のスタイルをもっているシャマニズムは、大体が農業的な、極めて儀礼的なものが多くて、実際に憑依したり脱魂したりしているとは思えないですね。ただ、それをある種、形式化しているにしても、儀礼として行なっているらしい。これはおそらく代々の先祖の霊を肉体的に引きつけるようなものらしいと昔の人が推測していますので、たぶん今でもそうなのかなと思っているくらいです。朝鮮半島のいくつかの儀礼に類似したものがなきにしもあらずなので、一度でも中を見せてくれたらと思いますが、今はこれぐらいにしておいたほうが無難だと思います。

参会者 確かに中が分からないので断定はできないですが、今日シャマニズムのお話を伺うと、こういう影響を受けていたのではなかろうかという感を強くしたわけです。

 次に、ゲレルト先生に伺います。先生はいろいろな文章をお挙げになって、チンギス・ハーンはヨーロッパまで攻め込んで行ったと言われましたが、初期においては、モンゴル文字はまだできていなかった。それがチンギス・ハーンの後半にウイグル文字を中心にしながら、モンゴル文字をつくっていった。耶律楚材という方が出てきましたが、この方は中国語のベテランで、側近であった。そういう側近の人の中国文字からではなくて、ウイグル文字からモンゴル文字をつくっていったと思っています。現在使われているモンゴル文字は、この頃ウイグル文字からつくられたものがいまだに使われているのでしょうか。それとも相当変化した文字でしょうか。

ゲレルト 一般的にはチンギス・ハーンあたりで、モンゴル人はウイグルから文字を借りたと言われていますが、納得させるほどの証拠はありません。現在、モンゴル文字はチンギス・ハーン時代ではなくて、もっと前から使われていたのではなかろうかという推測もあります。

 ウイグル式モンゴル文字は、モンゴル国では公式に使われていませんが、内モンゴル自治区では昔から使われてきました。

参会者 現在、モンゴル文字は、ウイグル文字から発展した形で、漢字とは別な文字として使われているのですね。

ゲレルト そうですね。文字そのものが漢字と全く関係ありません。ウイグルから借りたと言われている文字にいくつかの子音をつけ加えた文字が、現在、内モンゴル自治区で使われているのです。

参会者 どなたでも結構ですが、青森県の恐山で、七月二〇日にイタコという女性があらわれますが、これはシャマニズムと関係があるものかどうか。もう一つは、シャマニズムを引き継ぐというか、シャマンになるのは女性なのか男性なのか。それは偏っているのか偏っていないのか、という質問です。

西村 イタコについてですが、その前に私が常日頃から思っている問題を一つ。

 預言者や霊媒者などを、何でもかんでもシャマニズム的という言葉でまとめる傾向がありますが、シャマンがいなかったりする場合もあるわけです。イタコがそうだというのではありませんが、普通の民間信仰的な、例えば日常的に何かをする行為、それがシャマニズム的行為なのか、というところは気をつけないといけないと思います。本来的にシャマンが行為しなければシャマニズム的ではないのですが、まとめてしまう傾向があります。昔はどこの民族にもシャマニズムがあったと言いますが、ではどんなシャマンがいたのかという問題は全く解決されないまま、そのシャマンは一体何者なのか、何をするのか、どのようなことをするのかという部分は未解決のまま、シャマニズムという言葉だけが一人で歩いていっているのではないかというおそれがあります。

 そこを踏まえた上でイタコの話をします。恐山のイタコには、イタコさんとカミさんという二種類の人がいます。イタコさんの方は死者の霊を呼ぶ方で、カミさんの方は神様を呼ぶという点において、非常に輻輳的です。

 例えばモンゴルのシャマンは神様は呼べません。オンゴットという精霊だけです。モンゴルに限定して、オンゴットという精霊とは何かというと、私の行ったダルハドでは死んだシャマンの霊の場合があります。死んだシャマンの霊が長い時代を経てその土地の守り神になったりする。守り神といっても、彼らの頭の中では祖先として扱われている、そういったものしか呼べないのです。

 ところが、イタコさんの中には非常に特殊な方もいて、カミさんとして仏さまや水神さま、龍神さまを呼ぶことができる。車力村の工藤タキさんは両方できるというので非常に有名な方ですが、この方は明らかにシャマンと言っていいと思います。先ほど私が言った「変性意識下における極度の集中状態において超自然的な存在と交流を直接に交わすことのできる職能者」という点において、この方は立派なシャマンだと思います。

 男か女かという点は、日本ではどうも女性の方が多いような印象を受けます。沖縄のユタとかカムカカリャは女性が大変多いです。これは社会問題と非常に密接に関わっているようで、社会的な弱者の中から、周縁の方に押しやられてしまってつらい生活をおくっている人たちがいる、その人たちが社会の中で存在場所を得るために職能を得る。これは一つの解釈ですが、そういうことがあるとも考えられますから、特に女性の側から出やすいという傾向はあるかもしれません。

 モンゴルの場合は、女性に限られていません。男性でも女性でもなりますし、なおかつ(先ほど押されて寄せられた弱い立場の人たちと言いましたが)、モンゴルの男のシャマンたちはすごく力の強いパワフルな人が少なくないので、一概に言いにくいと思います。

参会者 どうもありがとうございました。私は以上で終わります。

司会 では、どなたかいかがでしょうか。

参会者 きょうはとても勉強になりました。まず、松枝先生に質問です。レジュメに「この龍城という場で、シャマンは神々の住む『上界』、人間の住む『中界』、冥界の王の住む『下界』とを交通し」と書いてあります。これについて質問をしたいと思います。三つの界層に分けてありますが、今、私が確認できていないのは下界のことです。昔から世界観として下界があったのは間違いないと思いますが、この下界の内容をどう考えていたのかが分からないのです。そして、中界には人間が住むと言いますが、はたして人間だけなのかというのが私の今の考えです。

 ゲレルトさんの報告で、三つの世界に分けたところでも、同じく地上は人間界と言っていますが、モンゴルでは昔から自分の家の中にオンゴットをもっていました。そこに住んでいる霊たちはどこの界なのか。ゲレルトさんは、チンギス・ハーンの世界観で地下のところに入れていましたが、その時にエルリクという概念があったのか。エルリクはどういう内容があったのか。エルリクが登場したのはいつなのか。一番ありがたいと思ったのは、西村さんの見える世界と見えない世界という分け方で、すごく助かりました。私も地上界を人間界と言って、地上に存在すると言って、よく人に誤解されていましたが、今日は、あぁそうだと。見えないところと見えるところということがとても勉強になりました。どうもありがとうございました。

松枝 最初に私からお答えしますが、レジュメに引用したのは『史記』や『漢書』に書かれている匈奴の世界観の話です。中国はいろいろな形で情報を得ています。例えば長く匈奴に捕まっていた張騫とか、いろいろな人がいて、かなり正確な情報を取っている。それで中国の資料では人間のいるところを中界、神のいるところを上界、死者のいるところを下界という書き方をしている、という紹介としてここに載せました。

 ただ、私個人は自分のフィールドのことは全く言いませんでした。パキスタンなど遙か離れたところなので言わなかったのですが、私の個人的な感覚はむしろ西村さんの意見と近くて、人間が触れ得る世界と人間が触れ得ない世界、人間の五感ではとらえきれない世界とのつながりだと思います。だから、上から悪いものが来ることもあるし、下からいいものが来ることもあります。例えば、これも遙か彼方の別の世界ですが、蛇を神の使いだと見るところが随分あります。蛇は大体下降してきます。アメリカインディアンの一部では、上から雷が地上に降りてくるのを、蛇がやってきたと言います。地上にいる蛇が穴の中にスルスルッと入ると、ふるさとに帰っていったとか、どこかでつながってグルグル回っているようです。だから私個人は、見えるものと見えないものでもいいのですが、上とか下とかいうより、極めてスパイラルな、らせん的な形でグルグルとうねっているような、そういうイメージをもっています。

 イスラムの場合、もちろんシャマニスティックな世界があると言えるのですが、それを聞いてもだれも返事をしてくれないし、言うとやばいので……。ただ、イスラムの儀礼をやっている最中にトランス状態になって走り出す人はいます。棒を持って走り出してパシンと叩く、そういう人はたくさんいますが、その話は上とか下とかとは違う世界だという感じがします。

ゲレルト エルリクについて、これは言語の問題になってしまいますが、この言葉は九世紀頃もテュルク語文献にはあらわれます。当然、地下界の悪魔たちの一番上のものとしてあらわれます。

 地上界には人間だけが存在するのかという点ですが、もちろん動物も存在するし、草木も存在します。この問題を考える場合、現在のシャマニズムと文献に確認できるシャマニズを、はっきり分けないといけないと思います。モンゴルのシャマニズムも変わっているからです。現在のシャマニズムをもって昔のシャマニズムを見ると、いろいろ問題が起きます。注意しなければならないと思います。

 モンゴル族の中で、西村さんの研究されているダルハドのシャマニズムは、かなり典型的なものと言われますが、もう一つ、ダゴルのシャマニズムが非常に古いものを残しています。ダゴルがモンゴル民族であるか否かは別にして、彼らはシャマニズムを崇拝し、基本的に仏教を受け入れていない人びとです。ですから、彼らのシャマニズムを検討することによって、モンゴル帝国時代、あるいはその後のシャマニズムに関わるさまざまなことを確認できると思います。

 ダゴルのシャマニズムによると、霊がどこからやって来るかが、非常に大きな意義を持っています。偉い人は、天上界からやって来る霊の生まれ変わり、悪人は地下界からやって来る霊の生まれ変わりと考えられています。そして、霊の行き先に関しても、一般的に天上界から降って来た霊なら天に戻り、地下界から出て来た霊なら地下界に戻ると考えられています。人間の体内に宿る霊によって善人と悪人がはっきりと分かれると思われています。また、エヴェンキのシャマニズムとモンゴルのシャマニズムを比較することによってもいろいろなことがわかろうと思います。

西村 今、ブリヤートのシャマンが本当のシャマンかどうかわからない点と、現在のシャマニズムが昔のものと同じかどうか、もちろん問題があるわけで、それについて補足するとともに、一つおもしろい話をしておこうと思います。

 特にモンゴル国の話ですが、今まで社会主義で抑えられていた民族主義的な一つのアイデンティティの拠り所としてのシャマンがブームです。モンゴル人たちはかつてシャマニズムを信仰していたので、一つのアイデンティティの拠り所としてのシャマニズムの復活といいますか、ブリヤートでは、多数出てきています。

 ダルハドでは、残念ながら全然出てこないどころか、新しく名乗りを上げた人間たちが軒並みニセモノとばれるパターンが大変多いのです。あいつは市場主義経済のシャマンだという言われ方をされ、おもしろいからみんなで見に行こうといって見に行くだけで、信仰されていない。そういう状況にあります。

 ですから、今現在、シャマニズムの中に何がどのような形で残っているのか、文化人類学としては、ゲレルトさんとは、共時的に世界だけを見ている私とは視点も違いますが、どれが何の要素なのかを分けるのはもはや難しくなっています。

 先ほどの参会者の方のお話で、私の言った「見える、見えない」という考え方が非常にピッタリくるとおっしゃいましたが、それと同時に縦のつながりも否めない。飛ぶモチーフは上からものを見る形になりまして、オンゴットもその魂も飛んでいくわけで、先ほど出たテングリという概念は、すべてのものを統括して、上からダッと押さえてしまう。ドルジバンザロフさんが書いているように、運命、天運といいますか、人間側は何の力も及ぼすこともできず、お願いしかできない。それ以外の行動は一切許されない。すべての意思を司るものがあって、その下にシャマニズムとしてつくられるオンゴットと人間という組み合わせの軸は、やはり縦軸だと私は思っています。モンゴルにオボーというものがありますが、オボーはゲルのトーソと私は理解していますし、天とのつながりの場所でもある。そこを通って行き来している。

 先ほどのエルリクは、私も非常におもしろいと思っていまして、ゲレルトさんのお話の中では、天と地が善と悪としての対立項と描かれていましたが、私は、父と母というモンゴル人のイメージといいますか、それが何の影響によるものなのかわかりませんが、もしかすると仏教の何かかもしれないし、その逆かもしれませんが、非常に難しい問題をずっと抱えるのではないかと思います。

 「ロスィンハーン」がいまだにわからないです。ロスィンハーンというのは地下を司るハーン、王様だといいますが、一体これは何か。人によっては閻魔様と言います。そうすると完全に仏教化され、縦軸、地下は死者の世界になってきます。ここのところは私も実は分からなくて、ロスィンハーンについて何かわかったらぜひご教授いただければと思っております。

参会者 どうもありがとうございました。あともう一つ、ゲレルトさんに質問ですが、テングリは善、ではなくて、悪い神様もいい神様もいますね。

ゲレルト それは、モンゴルのシャマニズムに起きた一つの変化と言えます。昔は、テングリを善悪に分けていませんでした。西村さんの言われたように、モンゴル人は地面を象徴的に母と考えています。この考え方は、『モンゴル秘史』に記されています。でも地下はやはり地上界だったと思います。大地は、母と考えられていましたが、地下は、別の世界であって、母とは考えられていないと思います。地下から出てくるのはマンガスあるいはマンガトと称される悪魔だったと思われていました。例えば、ブリヤート人がロシア人のことをマンガトと呼んでいるのはそれと関係があるのではないかと思われます。

参会者 それは分かっていますが、マンガスという言葉を辞書で引くと、仏教から来た言葉とあります。モンゴル文字で書かれている辞書をいろいろ引いてみても、全部そうです。

ゲレルト その辞書をだれがいつ、どこでつくったかも問題ですね。

西村 その辺は仏教概念とかなり重なってきていますね。天も二つに分かれていて、いい天、悪い天という話がありましたが、先ほどの話にも、東の天、四四、五五ですか、西と東にそれぞれ古い天と新しい天がある。その二つの対立ですね。

 ブリヤートの場合、白いシャマンと黒いシャマンがいると言います(島村一平という人が調査で話を聞いたところ、いるらしいです)。そういう対立がありますが、九九天という、足したものを全部一覧に並べた本が内モンゴルにあります。それを見ると、中にはゾロアスター教の神様もチベット仏教の神様もいる、何が何だかさっぱりわからない状態です。ですから、現在のシャマニズムの研究として、何を見て、何をそこから得るかという部分で見方を変えないと、本当にパニック状態になってしまうと思います。

松枝 ついでに一つ言いますと、人間にとって宗教とは何かと言われると、すごくヴァーティカル、垂直的なものです。人間の持っている五感は極めて平面的なものですし、身体能力も平面的なものです。二メートルも飛び上がれない。ただ、意識そのものはいろいろなポイントポイントでヴァーティカルになって、それがいろいろな宗教的発想の源になっている。これは否定できないと思います。

参会者 先ほど、シャマニズムが今復活しつつある、盛んになりつつあると言われましたが、モンゴルではチベット密教を国教としていたと思います。したがって、現在、モンゴルでは、チベット仏教とシャマニズムとどっちが盛んなのか。お聞きしているとシャマニズムは自然発生的、土着的に出てきたように私には思えます。ところがチベット密教はまさしく輸入仏教で、それがチベットでは国教という形で決められたのですが、現在のモンゴルでは、宗教的にはシャマニズムとチベット密教はどういう関係にあるのでしょうか。

西村 国教といっても、政府が定めるのが国教なのか、その辺はわかりませんが、モンゴルの国教は仏教ではなくて、ただ仏教徒が多いのがモンゴル国の現実の話です。

 仏教との関係ですが、特にブリヤート人たちは非常に早い時期から仏教化を進めました。今現在、昔から活動してきたシャマンが六、七名ぐらい、新しい人も出てきていますが、その人たちに対して(九七年か九八年だったと思いますが)、ウランバートルのガンダン寺のお坊さんたちがシャマンのテストをした。そして、そのテストに受かった人間にシャマン証明書を発行するという、変わった動きが見られまして、これは明らかに、新しくあらわれてきた、新興宗教的になりかねないシャマニズムに対する、チベット仏教側の権威の振りかざしではないかと考えられます。

 一九三〇年代の後半、スターリン主義の頃にモンゴルでも宗教弾圧が激しく行なわれたために、チベット仏教とともにシャマニズムも弾圧を受けました。チベット仏教はすごく弾圧されましたが、同時に一部活動を認められるところが残りました。しかし、シャマニズムは完全に地下に潜るしかない状況になって、人びとはずっと社会主義や科学を学ばされてきた結果、仏教離れまではいかなくとも、シャマニズム離れをしてしまった部分が強いのです。

 個々人のレベルになりますと、その中で本人がどう対応してきたかという部分が強くなります。例えば中央から一、〇〇〇キロも遠く離れた、私が行っているダルハドのようなところに対しては、清朝時代に仏教勢力が非常に強硬にチベット仏教化を進めようとした結果、ものすごい戦いになって、シャマニズムが残ったわけです。ところが、社会主義時代になって、どちらもだめと言われたときに、彼らにとってより身近だったのはシャマニズムでした。言い方をかえると、これも島村さんが研究している内容ですが、そのときにチベット仏教やモンゴル社会主義による弾圧を受けて、不遇の死を遂げたシャマンたちが、恨みをもったオンゴットになったといいます。そして、そのオンゴットを自分たちのアイデンティティとして信仰しています。

参会者 関連して、西村さんの話で脱魂型について、非常に興味深く聞かせていただいたのですが、脱魂型というのはエリアーデの学説であって、最近の研究者たちは否定的な立場に立っています。いくつかの報告でも、独立した脱魂型というのはほとんどなくて、憑依があって、そこから副次的に脱魂していくという、憑依と脱魂が複合的にとらえられているのがむしろ一般的ではないでしょうか。

 それから、ゲレルトさんに質問です。神話の分析からモンゴルのハーンの世界観を抽出した、すばらしい研究でしたが、私の理解がちょっと不足しているのかもしれませんが、テングリとシャマニズムの関係をゲレルトさんはどのように考えていらっしゃるのか。一般的に言うと、テングリはシャマニズムの最高神として見られているわけで、チンギス・ハーンが自分たちを天の子と考えているとしたら、その間をどうつなげていくのか。あるいはチンギス・ハーンは自分たちをシャマンと思っていたのか。天の子と言った場合に、その他の外来宗教の神という意味が入っているのか。ゲレルトさんがまとめのときに、テングリの子という概念は世界制覇のために広く使われたと言われましたが、もしそれが固有のシャマニズムのテングリであった場合、世界制覇のためにチンギス・ハーンたちが人為的につくったように読み取れたのですが、ちょっと説明していただければと思います。

松枝 私は図式的に二つに分けましたが、大変混交しているのが実情です。佐々木宏幹先生の仕事は、奄美・沖縄のユタなどの調査がベースで、それをきれいな図にまとめておられます。補助霊の話が直接的に出てくる例としては、シベリア型の例が多いと思います。ウノ・ハルヴァの著作『シャマニズム』の翻訳がありますし、戦前には(共産主義ソヴィエトとの関係もありますが)、北方遊牧民の調査資料が精力的に日本語に翻訳された時期があります。その時に補助霊の話が随分日本に移入されて、それをよく知っていたということがあります。逆にそれを日本の満鉄やらが現地の民族政策に利用したこともありましたが、それはともかく、第三の類型として立てられるかどうかというのは難しいというか、むしろ大きないくつかのパターンの中でのプラスアルファ的な要素が強いのかなという気がしないでもありません。

 脱魂と憑依の区分については、エリアーデが『シャーマニズム』を書いた時に、「古代エクスタシー技術の展開」という副題を立てたことがあって、脱魂という要素を極めて強く打ち出した。それに対して多くの研究者からの反論がかなりあったのは事実です。そんなにきれいに分けられるものではないというのは、文化人類学の現場からの反論として強くあって、現場としてそれを実際にどうまとめていくかというところが、現在の問題だと思います。

 極めて地域差があって、先ほどの男性、女性についても、決まりのあるところもあればないところもあるし、昔は男ばかりだったのに今は女ばかりだとか、いろいろなパターンがあるので、何とも言いようがないです。東アジアは何となく女性が多いかな、でもシベリアの方は男性がほとんどかなと、なかなか断言しがたいんです。

西村 エクスタシーはあるのかですが、松枝先生がおっしゃったように、私も完全に分けていいものではないと思っています。ただ、図式にした時の明らかに大きな違いとして、オンゴットとシャマンの魂の位置関係に大きく類型ができて、玉虫色のものもいる、という形で使っているにすぎません。

 シャマニズムというのは、本来的にはもしかすると宗教や儀礼というより、一つのテクニックとしてあるもので、それ自体は一つの信仰ではないと思います。何か別の宗教の中で何かをするためのテクニック、何かの信仰基盤の中で問題を解決するためのテクニックとしてのシャマンがいて、シャマニズムがある。それを魂の位置関係として類型を無理に分けると、玉虫色の部分もあるが、分けるとこうなるかな、ぐらいのことと思います。

 先ほど動物霊のお話がありましたが、ウリヤンハイのお婆さんの話を聞くと実におもしろい。彼女が儀礼をやっていると、鳥が必ず飛んできます。鳥が飛んできてゲルのそばにとまる現象が見られて、お婆さんに聞くと、私が使うのは鳥の形をした精霊だと言うわけです。彼女は「使うのは」という言い方をするわけです。やってくるのが鳥であり、鳥の魂であり、自分もまたそこに入っていくといった、ゴチャゴチャした話になってくるので、三つ目のという言い方もあまり当たらないのではないかというのが、私の思うところです。

 ツァータンのシャマンが呼ぶ精霊は祖先霊が多いとはっきり言いましたが、祖先霊の形もいろいろあります。儀礼(皆さんに一部をビデオで見ていただいた、全部で二時間ある儀礼です)が終わってから聞きますと、あの儀礼の中で三つのオンゴットが来たと言うのです。一つは蛇、一つは鳥で、もう一つは怪獣が来たという。補助霊を使うのは、松枝先生がおっしゃったように、シベリア地域に広く出てきているもので、それについての細かいシャマンとの関係の調査は、フィールドでもあまり行なわれていないのが現状かと思います。

ゲレルト まずテングリとシャマンの関係ですが、どう答えればいいか考えていました。ダゴルのシャマンにはホジョル・シャマンというシャマンがいます。そのシャマンのホジョルというものは、多くの場合、雷に打たれて死んだ人の霊でした。そのホジョルに選ばれた人はホジョル・シャマンになると考えられていました。ホジョル・シャマンが死んだ場合、また新しいホジョル・シャマンを選ぶ必要があります。要するに、ホジョル・シャマンは、一氏族に一人しかいることが認められない氏族のシャマンを指しています。言い換えれば、ホジョル・シャマンは天神に選ばれたシャマンということです。もちろんホジョルを持たないシャマンもいますが、それは力の弱いシャマンと考えられているし、氏族シャマンになれないわけです。

 そしてもう一つ、ブリヤートのシャマニズムにもオトガタイ・シャマンというシャマンがいます。ブリヤートのオトガというものはどこから来るかというと、二つのところから来るのです。一つは天上界から鳥の形を取って降ってきます。その鳥がだれかの女と交わって生まれた子がシャマンになります。もう一つは、雷に打たれて死んだ人の霊がオトガになります。ですから、オトガタイ・シャマンは、天神に選ばれたシャマンを指すと思います。ですから、このようなシャマンは根源的に天上界から生まれた、あるいは天神に選ばれたシャマンと考えられます。

 また、霊が動物の形を取ってあらわれることについてウールトの一人の女性シャマンから聞いたことがあります。彼女の話によると、氏族によって降って来るオンゴットの形が変わるのです。つまり、氏族によって降って来る(憑依する)オンゴットの形が光や鳥、また、狼や白鳥になどに変わるということです。いずれにせよ、多くのモンゴル諸部族のシャマンは昔、天神の子あるいは天神の使者と考えられていた場合が多いと思われます。

 テングリとチンギス・ハーン一族との関係のことですが、先ほど話したように、チンギス・ハーン一族は系譜的に天神とつながっていると考えられています。もちろん我々の考え方から見ると、蒼き狼神話は明らかに作り話ですが、しかしこの神話は当時、実際に作られたということを考えると、この神話を「真話」として受け入れる人びとがいたから作られたのではないかと思われます。つまり、宇宙を天上界、地上界、地下界に分けて考える観念が当時の遊牧モンゴル社会に認められる世界観であったからこそ、チンギス・ハーン一族が自らを天神の子と称する土台になったのではないかと思います。ですから、チンギス・ハーン一族は世界を支配するため、自らを天の子すなわち天神の子と強調したのではないかという質問を、逆に考えるべきだと思います。

 それから、モンゴルのテングリすなわち天神に、外来宗教の神という意味が入っているのではないかという質問ですが、これも従来から議論されてきた問題ですが、先ほどの話で説明したと思います。一つだけ加えるとすれば、モンゴルのテングリを当時、異教徒たちが自分たちの宗教観念に照らし合わせて理解したことは否定できないということです。

 チンギス・ハーンはシャマンであったのかどうかという質問ですが、王はシャマン、シャマンは王という意見があります。チンギス・ハーン時代にはシャマンとハーンが全く別々な存在でありまして、チンギス・ハーンをシャマンと見なす根拠は、管見のかぎり見出されないのです。

 天上界と地下界に関して一言つけ加えると、天上界と地下界は善と悪を象徴する二極的な存在だと信じられています。ですから、天上界と地下界は互いに天上界があれば地下界もあり、地下界があれば天上界も欠かせないという関係で結ばれていると思われます。

参会者 善と悪とか地上と天とかがあるのは否定できませんが、その世界観でチンギス・ハーンの当時に、内容的に例えばどういうものがあったのか。例えば地下のところに悪魔が住んでいるとか、それはどういう意味に取られて、どういう意味で使われていたのでしょうか。

ゲレルト 正直に言って、当時の文献資料には地下界が確認されません。

参会者 問題はそこで、私はそれを知りたかったのですが。

ゲレルト 当時の文献資料に確認されないといって、地下界はなかったと言うこともできないですね。当時の文献資料は、宇宙三界観に基づくものでありまして、宇宙はどのようにして三つの世界に分けられたかを伝えるものではなかったからでしょう。

参会者 確かにそうですね。

司会 ほかにどなたか。

参会者 西村さんにお聞きしたいのですが、先ほど松枝先生がシャマンになるには大別して三つの道が、召命型、修行・学習型、世襲型があると言われましたが、モンゴルのシャマンにもそれは当てはまるのか。もし当てはまるなら、西村さんが今まで会ったシャマンは、その三つの中でどれに当てはまるのか。

 それから、松枝先生のレジュメの中にアメリカ・インディアンに近い民族であると書いてあって、ちょっと思い出したのですが、インディアンにメディスン・マンという、精霊が降りてきて病気を治したりする人がいます。先ほどのモンゴルのシャマンの写真で、太鼓の鹿の絵と鳥の衣装をみて思い出しましたが、メディスンマンはトランス状態に入るときに鹿の踊りを踊ったり、鷲の羽を使ったりするので、似ていると思いました。何か意見があったらぜひお聞きしたい。

西村 最初の、シャマンになるには三つの道があるという話ですが、実は私も二つ目の修行・学習型というのは、これしかないということで書かれているのではないだろうと思います。モンゴルにおいて、召命型にせよ、世襲型にせよ、必ず修行と学習を経験します。モンゴルにはどちらのタイプもあります。

 私が今回写真を載せた方々は基本的に世襲ですが、世襲と言っても、お父さんから子どもとか、お母さんから子どもというように、直接親子関係でいくものではなくて、先ほど氏族シャマンとして必ず氏族に一人出てくるという話がありましたが、それに非常に近い形です。例えば私のお父さんのお兄さんの子どもがシャマンだった、その人が亡くなったので私がシャマンになったとか。つまり親族でつながっていく形であって、世襲ともちょっと違う。血統性とでも言いましょうか、モンゴルの場合、血統という言い方をした場合、基本的には父系性を取りますので、男側の流れにしかシャマンの血統は認められないはずですが、例えば私のお母さんのお父さんがシャマンであった、だから私はシャマンになったという人も中にはいます。これは向こうの氏族関係の系譜をつくっていく上では普通は認められないことですが、その辺彼らは非常に緩やかに考えています。なお、これは断定できませんが、最近出てきているウソっぽいシャマンたちには、母型の血統を継いでくる者が多いと感じられます。自分の血のつながるどこかにシャマンがいたから、自分はその血統だと言って、それでOKを出してしまう場合があるようです。

 召命型は非常に少ない。私がダルハドで会ったことのある方ではたった一人でした。私がダルハド盆地全体で会ったシャマンの数は八人か九人だと思いますが、召命型は一人だけでした。それで、ご本人いわく、私こそが本物だみたいなことをおっしゃるんです。彼女の話ですと、突然めまいや吐き気がして、夢遊病のように走り回るようなことが起きて、シャマンのところに行ったところ、おまえはシャマンになるんだから私のところで修行をしろということで、修行してシャマンになったということです。

 私はネイティブ・アメリカンのシャマニズムにはあまり詳しくないので、きちんとしたお答えができませんが、動物霊との関係で、特にウリヤンハイのシャマンはカッコウの鳴き声をしきりにまねします。延々とやるのでつい笑ってしまいますが、そういう状況で鳥のまねをする。彼らは特に何か動物をまねた踊り、という言い方はしていなかったように記憶しています。アメリカのことはちょっとわかりません。

松枝 召命型、修行・学習型、世襲型と三つに分けたのは、神様に選ばれる、自分で立候補してなる、親がそうだから、血縁がそうだからなる、この三つという大雑把な言い方です。これはわざと百科事典的に書いているわけで、よくわからないこともあります。

 ただ、アメリカ・インディアンのメディスン・マンは、英語でシャマンの一つの表現としてよく使います。世界的に一般的な言い方をすると、ある生活グループの中で、病気だけに限らず(エリアーデ風に言うと呪的治療、スピリチュアル・ヒーリングみたいな言い方をしますが)、要するにシャマニズムの技術を使って悩みを解いたり、病気を治したり、災害を避けたり、そういう事柄が一般的に主要な仕事になるというか、外からはそう見えるわけです。それを総称して英語ではよくメディスン・マンという言い方をします。

 ショーン・コネリーが出ていた『メディスン・マン』という映画、あれは南アフリカの奥地かどこかで、ある部族社会を牛耳っている白人の話です。それはともかくとして、そういう一般的なイメージから出てきた、かなり新しい言葉です。

 一つつけ加えると、憑依、脱魂と、もう一つ違うタイプとして、南アフリカではしばしば薬を使うことがあります。薬を使って意識を飛ばす。特にペヨーテというサボテンからつくる一種の麻薬みたいなものを使う。それからよくある話は、タバコの交換みたいなことが、アメリカ・インディアンの教えのような本によく載っています。それも極めて象徴的なものとして考えられています。実際にそれで飛ぶかどうかは知らないですが、薬はかなり確実に飛ぶみたいです。あと、これは確認できませんが、古代ペルシアでは、儀礼のときに酒のたぐいを使う。これは北欧にもあって、ハオマとか、いろいろ古代の名前が残っていますが、そういうものもあったらしい。ただ原則的には、それはテクニックというより、外部からものを入れるわけですから、ちょっと一歩おいた感じでくくっています。そういう例もあります。

参会者 西村さんにツァータンという民族集団の民族意識について質問します。なぜこの質問をしたいかというと、西村さんが報告の冒頭で、社会主義時代にモンゴル民族の下部集団の一つとして、地位としてそう呼ばれるようになったというところから、民族の形成過程におけるグラデーションと言っておられましたが、どのような民族の形成過程における意識を持っているのか。

 もう一つは、今、モンゴル国内でシャマニズムがブームになっていて、民族主義的なアイデンティティの拠り所としてそのような状況が起こっている中で、ツァータンもしくはダルハドではまた別の現象が起こっている。そういうところ、民族的意識についてご質問したいと思います。

西村 質問がちょっとよくわからなかったのですが、ツァータンたちの民族意識ということですね。一つ目の質問をもう一度お願いします。

参会者 前半の質問は、民族的意識はどのようなものかという質問です。

西村 非常に答えにくい質問ですが、彼らは自分たちの記憶の中においてトバ人であって、モンゴルと一緒ではない。もっと時代をさかのぼると、いろいろな文献には、トバ人(つまりツァータンですが)、森の中に住む者たちが草原の者たちと結婚することは非常に屈辱的なことだと。あんなところで暮らすのはだめだ、森の中がいいという、別集団としての意識を非常に強く持っていたわけです。それが、国境線が制定されて、なおかつ社会主義の中で集団化が行なわれて、その中に組み込まれるようになります。そうすると生活地域とか行政区域において、モンゴルの影響を非常に受けるようになってしまった。

 言語においても、社会主義時代にはトバ語の授業はありませんでしたから、子どもたちはどんどんモンゴル化していきます。そして、モンゴル人たちの中で生活して、トナカイを持ち得ない人たち、もしくは、殺して失ってしまった人は、やむを得ず麓で暮らすようになるわけです。場合によっては工場労働者とか、細々と草原の家畜を飼うという形になってくると、生活習慣もどんどんモンゴル化していって、次第に自分たちがツァータンであったとか、(現地ではタイガの人という言い方をしますが)タイガの人であったということを忘れていってしまう。

 中にはそれを忘れたい人間もいるわけです。なぜならば、かつてモンゴルに統合され始めたころ、一九四〇年代ぐらいですが(五〇年代後半には集団化が終了します)、モンゴル人たちから非常にさげすまれた。いまだにモンゴル人側からツァータンたちを差別する言い方がたくさん残っています。こんなに生活しやすいモンゴルゲルを持たないで、あんな森の中で掘っ建て小屋に住んでと、いまだに差別も行なわれます。

 掘っ建て小屋というのは、円錐形のオルツというものですが、オルツはモンゴル人がつけた名前で、本来は丸太という意味です。家という意味ではない。モンゴルのゲルをゲルと呼ばずにテントというに等しい言い方をするわけです。それに対する抵抗というか、コンプレックスで、自分はツァータンであることを隠す若者も出てきています。今、彼らの意識はそういう状況下にあります。

 大人たちは自分たちの言語が失われることに対する非常な危機感を持っています。そうはいっても人数が元来少ないので、結婚相手も同じツァータンの間では見つからない。事実上、ほとんどないと言ってもいいと思います。そうなると麓の娘を嫁にもらいます。逆にツァータンの娘たちは、麓に嫁に行くしかないわけです。どんどんそういう状況になっています。経済状況も厳しくなっていますので、たくさんの子どもを産むこともできない。そうするとタイガの人口は減ってきます。それに対する非常な危機感を彼らは持っています。

 それと同時に、自分たちはツァータンだと言って、最近、麓から嫁をとったのが二家族いました。そして、タイガで暮らしています。非常にヤバイ状況になったら、それに対して何クソという反作用があるわけです。そういうことも一応観察されています。

 次に、国内でブームになっているシャマニズムが、なぜダルハドではなくなっているのか? 八九年、九〇年に社会主義が崩壊した頃まで生き残っていたシャマンは、一番若い人で三三歳でした。この方は間もなく死んでしまいました。残っているのは五〇歳以上で、六〇歳、八〇歳、九〇歳、この方々が九〇年代の半ばぐらいにバタバタッと天にお帰りになってしまって、昔のように弟子につくことができなくなりました。

 私がいる間に、女の子で一人、ノイローゼのひどい子がいて、シャマンの九〇過ぎのお婆さんのところに弟子入りしようとしました。この子はシャマンになるみたいだと太鼓を持たせたら、ノイローゼがピタッとまったのです。ところが、その後また悪くなってしまった。なぜ悪くなったかというと、その時にいろいろ揃えるべきものが揃わなかったからだ、と。その土地が経済的に非常に困難な状況にあって、彼ら自身の収入もない状況下において、彼らの説明では、シャマンに必要なものをすべて揃えられないわけです。

 シャマンの衣服は、悪いものが入ったり、攻撃してくることに対するよろいでもあるので、それが中途半端だと影響を受けてしまうということです。きちんと守れない、きちんと戦えない。そういう状況にあるから、彼女はまたおかしくなってしまったと解釈され、それで結局シャマンになることをやめたわけです。そういう社会条件と、実際に先生をやることのできるシャマンがいないことが、ダルハドの土地でシャマンがどんどん減っていく大きな原因ではないかと思います。

 それに対してブリヤートではいっぱい生まれています。状況としては同じはずですが、仏教徒が近くにいて、シャマンたちが私は坊主だと言いながら実はシャマンだったという例があります。そういう形で社会主義時代にも残っていたようです。比較的社会の表面に近いところにいたのではないでしょうか。

 ダルハドは、社会の表に出るには非常に深いところにいたし、年寄りたちばかりだったし、八〇歳、九〇歳のお婆さんに二時間踊らせるのもシンドイ話ですから、なかなか出てきにくかったことが要因ではないかと私は思っています。

司会 ほかにどなたかいらっしゃいませんか。そろそろ料理ができたようで、ワンタンも煮えたかなと思います。よろしければ、場所を移して、モンゴルの音楽を聞きながら、お一人お一人とお話しできる機会を設けたいと思います。

 それでは、シンポジウムは閉じさせていただきます。どうもありがとうございました。