「ワンダーフォーゲル-山の杉尾-」冒頭サンプル

@yama_fantasy
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2019-11-13 10:48:20

11/17発行の杉尾の新刊です

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「遭対協隊員の杉元です」

若い男はその声がどこから聞こえたのか探すように左右に首を振り、最後に自分の頭上を見た。真上に姿を見つけて目を見張る。
「救助要請してきた○○さん?」
上から杉元が訊ねると、男は「そうです」と弱々しく返事をして、汚れた顔に泣きそうな表情を浮かべた。岩壁を懸垂下降してきた杉元は相手を安心させるように笑う。ガラ、と杉元の横の岩が剥がれ、軽い音を立てながら白くけぶる谷底まで落ちていく。
「見つかってよかった。頭、ちょっと血が出てるね。今手当するから」
ロープを掴み、壁に突っ張っていた足をリズムよく蹴って二メートルほど下降した。そのまま岩壁をトラバースすると、男が腰を下ろしていた小さなテラスに杉元は足を置く。テラスの下は百メートルほど切り立っている。杉元はハーネスに下げていたカラビナを使い手早く壁にビレイを取ると、男に近寄って膝をつき、その傷を見た。
額からはじわりと血が滲んでいる。全身を注意深く眺めると、右脛の真ん中からその先が不自然に外側を向いている。杉元は背負っていたザックを下ろした。
「痛いよな、これ」
止血用のタオルと固定用の副木を出すと、「ちょっとごめん」と言って男の折れていた足に副木を添え、テーピングで巻き始めた。男の顔が余計に歪んでぐっと唇を噛みしめる。
「頑張れ」
短く言うと、杉元はテーピングの端をビッと切った。タオルを男の額にゆっくりと押し当て、一度離して傷口を見た。
「擦りむいちゃっただけに見えるけど……念の為頭あんま動かさないようにしよう」
男の目を見つめ言い聞かせるように言う。男は弱く頷き、歩いてたら強風が、こらえきれなくて、と切々と訴えた。杉元は頷きながら言った。
「うん、ここのコルは時々すごい風が吹くんだ。でもこれぐらいで済んでよかった。運が良かったよ」
ザックの肩紐につけていたトランシーバーを外し、つまみを操作して口に当てる。
「現場の杉元です。要救(=要救助者)と接触しました。どうぞ」
無線の向こうからガーガーという音と人の声が響く。杉元は男を横目で見ながら交信を続ける。
「……うん、そう。通報通りB沢のコルから二十メートルぐらい下のところ。彼、頭に傷はあるけど意識はしっかりしてる。体力も大丈夫そうだ。でも右足折ってます。県警の救助隊とヘリは?」
杉元の背後には薄く霧が広がり、山の姿が見えなくなっていた。今にも雨が降り出しそうだ。無線からは『県警の救助隊は三時間後に現場到着予定。ガスのためヘリは飛行不能』という途切れがちな声が聞こえる。杉元は軽く口を結ぶと、首だけ振り返って空を見上げた。
「……時々ガスが切れて槍(=槍ヶ岳)が見えてる。いけるよ。日が落ちる前に一発飛ばせないかな? 俺が上からヘリの誘導する」
無線から『確認する。待ってろ』という声が響く。杉元は一度トランシーバーを顔から離すと、キャップのツバの下の目を細めて男に声をかけた。
「若いね。いくつ?」
男は弱々しく、十八ですと答えた。そっか、と杉元は頷く。
「高校生? 夏休みとか」
はい、と男は答え、ニキビ痕の浮いた頬をどこか悲壮に強張らせる。学生が単独で山に来て事故に遭った。それを非難されるのが恐ろしいような顔をしている。杉元は何も言わずにただ「強いな」と言った。
「家族は? ……いる?」
両親と妹が。訊かれるままに男は答える。杉元がまた目を細めて「じゃあ帰ってあげないとな」、そう言ったとき、無線から音がした。口を当てて応答する。
「杉元です。ヘリどう?」
やっぱり無理だとよ、と無線の向こうが答える。杉元は眉を寄せて空を見た。白くけぶったガスの中でどんどん太陽の光が失われていく。日没が近い。
「そっか……よし、そしたら俺、彼担いで尾根まで上げるよ。その方が県警の人にも引き継ぎやすいし」
無線から『サイチ、無理すんな』という低い声が響く。杉元は挑むように口元を上げると、チラリと横目で男を見て答える。
「大丈夫だよオーナー。俺は不死身だから」
そう言うと、『お前はそうでもヨーキュウはそうじゃねえだろ』と呆れたような声が聞こえた。杉元は眉を寄せて笑う。
「充分気をつける。でも彼強いよ。自分で正確な場所通報してきて動かずに待ってたんだから。上げたらまた連絡します」
無線をザックにしまう。男に向かい、申しわけなさそうに言葉をかけた。
「ごめん。ガスのせいでヘリは飛べない。ここにいても救助が難しくなるから、俺が尾根まで担ぎ上げるね」
どこか不安げな男が、幼さの残る目で、「スギモトさんは警察の人とかではないんですか」と訊いてくる。杉元は朗らかに答えた。
「俺はね、民間の救助隊員。いわゆるボランティア。いつもはここから一番近い山小屋でバイトしてるよ」
喋りながら、背負い式のレスキューハーネスを男につけさせ、自分の身体の前に回したストラップを留める。「立つよ」。そう言って男を背負い、ぐっと膝に力を入れた。わずかによろめいたが何でもないように踏ん張る。大丈夫ですか、と背中の男の心配そうな声に「大丈夫、慣れてるから」、と笑って答える。
杉元はスリングで男とロープを連結し、トランシーバーだけハーネスに括りつけた。頭上を見て、下降してくるのに使ったロープにテンションをかけて支点の強度を確認する。テーピングを巻いていた指先を擦り合わせ、フッと息を吐いた。
「なるべく揺らさないようにする」
男に約束すると、岩に指をかけ、足をぐぐっと持ち上げた。指をかけたホールドの強度を確かめながら、細かく息を吐いて登って行く。ゆっくりだが着実に高度を上げる。先ほどまでいた岩のテラスがガスの中に隠れると背中の男が、本当にすみません、とか細く泣きそうに囁いた。額に汗を浮かべながら杉元は笑う。
「なんで謝んの? 生きててくれてよかった」
フーッを息を吐き、次に指をかける場所を探しながら杉元は続ける。
「単独で北アルプスの奥まで来るぐらいなんだから、相当山好きなんだろ?」
背中の男が、「好きです」と返事をする。その答えの確かさに、杉元はさらに目を細めて言った。
「俺も山が好きなんだ。独りで登るのも」
四十分ほどかけて尾根に辿り着くと、周囲は暗くなり始めていた。杉元は男をゆっくりと下ろすと、ハーネスに提げていたヘッドライトを頭につけてスイッチを入れた。「ザック、取って来るね」と言い残し、また降りて行く。二十分後に戻ってくると、ザックの中から保温シートを出して男の身体に巻いてやった。テルモスも出し、湯気の立つ液体を蓋に注ぎ、男に差し出す。
「あったかいレモンティーだよ」
男はおそるおそる受け取る。口をつけて啜り、ハアと深いため息をつくのを見て、杉元は微笑んだ。
「腹はどう? 減ってるかい」
ぼんやりと首を振る男を見て、そっかと杉元は答える。日が落ちて視界はほぼなくなっていた。ヘッドライトが、山の上にぽつりと存在する人間ふたりを照らし出している。無線機を取ると、杉元は闇の中を見つめながら交信する。
「現場の杉元。要救を尾根に上げました」
ガガと音が響く。『ご苦労さん』と低い声が届いた。
「県警の人は?」
杉元が訊くと、『まさかの多発遭難だ。向こうのほうが大変そうなんでそっち行ってもらってる』と状況を伝える声が響く。杉元は頷いた。
「うん、こっちは大丈夫だよ。彼、頭打ってるだろうから、動かさず今晩はここで一緒にビバークします。ヘリも明日なら飛ばせるだろうし……」
杉元は無線機をザックにしまうと、ハーネスから外したロープを巻き上げて畳んだ。男の隣に腰を下ろすと、ザックからツェルトシートを取り出して広げ、自分と男の頭の上からかぶせた。シートの裾を足とザックで押さえる。ランプの光を弱くした。
「ビバークは初めて?」
そう訊くと、男は頷く。
「そっか。狭いけど、少しでも休んだ方がいい」
笑って自分の肩口をとんとんと叩く。男は疲れたように杉元の肩に寄りかかり、目を閉じた。苦しげな息遣いが狭いツェルトの中に響く。杉元はヘッドランプの灯りを静かに落とす。途端に闇に包まれた。指さえも見えない。肩口の頭の温かさを感じながら目を開けていると、どこか遠くでガラガラという落石の音が聞こえてきた。だがそれ以外は何も聞こえない。
薄いツェルトの向こうは途方もない山の夜が広がっていて、ちっぽけな自分の輪郭は闇に溶けていきそうだ。杉元は思う。
無事でいてくれてよかった。以前このコルで同じように風に押されて滑落した登山者のことを思い出す。
あの時は逆側の谷で、ワンピッチ(ロープ一本の長さ)を下りても見つけることが出来なかった。ただ、途中の小さなテラスにザックを見つけた。確かに居たのだ。勝手に動いてさらに滑落してしまったのかもしれない。案の定、谷底で頭がぱっくりと割れた初老の男の死体が、その後の捜索で見つかった。
ふと、肩口の男がブルリと震えたのに気づいて、杉元は静かに声を掛けた。
「……寒い?」
七月とはいえ山の夜は冷える。保温シートを巻き付けてやっているが尻から昇ってくる冷気はどうしようもないのだろう。
杉元はヘッドライトを再びつけると、自分のザックを男の尻の下に敷いてやった。着ていたジャケットを脱ぎ、その身体の上に被せてやる。男は安心したように目を細めて杉元のジャケットの襟に顔を埋める。それでも折れた右足が傷むのか、時折顔を歪めて低く声を漏らしている。テルモスの飲み物を渡しながら、「気が紛れるように、少し話そうか」と杉元は言った。
「俺、十四ぐらいで山登り始めてさ、他の人が怖がること、あんま怖がらなくて、始めは近所の石垣から登って、どんどん高いところ目指して……そんで高校卒業してすぐ海外の山に行ったんだ」
相手はテルモスの蓋を持ちながら、どこの山ですか、と小さく訊いてきた。杉元は懐かしむように答える。
「最初はアメリカのヨセミテ。そこでクライミングの技術を見よう見まねで覚えて……毎日夢中で登った。それからもっとデカい山に登りたいって思ってパタゴニアに行って、アラスカに行って、その後ヒマラヤにも行った。そこで雪崩に遭った……」
どこか自分に言い聞かせるような声だ。人に話すのは久しぶりだった。
山ではあまり昔のことは訊かれない。どの山に登ったかというのは訊かれるが、そこで何があったとは訊いてはこない。山ではただ、山の話だけをするのが常だった。
その傷はその雪崩の時ですか、と男が訊ねてくる。言ってから気まずそうに、すみません、と謝ってきた。純粋な好奇心からきたその言葉に、杉元は気を悪くした様子も見せず、ただ指先で自分の顔をなぞった。
初対面の人間をいつも驚かせてしまう。顔の真ん中を横切るように走った一本の皮膚の引き攣れ。縦にも二本、同じような傷がある。その内の一本は唇を越え、そのすぐ下で止まっていた。
「ヒマラヤの……ブロード・ピークって分かる?」
問いかけに、男は首を横に振る。
「八〇〇〇メートル越えの山なんだ。そこの南壁を登ってるとき、落石に当たったザイルパートナーが滑落した。助けようとしたんだけど、相手が持ってたアイスアックスがちょうど顔に刺さってさ……」
岩に頭を打ちつけた相手はブルブルと痙攣していた。手当てをしようとした瞬間、相手が持っていたアックスをめちゃくちゃに振り回した。痛みと錯乱から、そうしてしまったのだろう。アックスの刃をかわし無理やり手足を押さえつけたが、顔には大仰な傷がついた。それはどうでもいい。手当ての機会をうかがっている内に、相手の痙攣は小さくなり、やがて動かなくなった。
あれだけ山に登っていたのに、人が死ぬのを見たのはその時が初めてだった。ましてや自分の腕の中で。
悲しいとは思わなかった。ただ、相手をどうやってここから降ろしてベースキャンプまで運ぼうかと、そればかりを考えていた。冷たくなった身体を背負いながら、生き残ってしまったと思った。まただ。また生き残った。
静かな雨音に気付く。水滴がパタパタとツェルトを叩いていた。どうせ通り雨だ。杉元は隣の相手を安心させるように言う。
「大丈夫。明日はきっとヘリが飛ぶよ……」
梅雨の終わりから一週間は高い確率で晴れが続く。相手はまた杉元の肩に頭を寄せ目をつぶった。その横顔を眺めながら杉元も目をつむる。ツェルトを叩く雨の音は、いつの間にか岩と地面に吸い込まれていくように消えていた。
ジャケットを貸してやったせいで身体が冷える。それでもヒマラヤの壁に取りついた時の、あのマイナス三十度の中でビバークするのに比べたらよほど暖かい。アラスカのヒドゥンクレバスに怯えながら氷河を行くこと、頭上のセラックがいつ崩壊するか考えながら壁を登ること、車の大きさの岩が横を落ちていくことに比べたら、日本の山はひどく優しかった。
海外の大きな山にまた戻りたいのだろうかと考えて、杉元は無意識に頭を振った。たった数年前のことがどこか遠くに感じる。以前は好きだった山の夜も、今では小さな苦痛だ。寝付けない長い夜は、思い出すことが多すぎる。

ツェルトの裾を捲り上げると、頬にひんやりした風がぶつかった。鼻の奥がツンとするような澄んだ空気を吸い込みながら腕時計を見る。朝四時半。
見上げた空が深い黒から群青色に変わっていく。瞬いていた星の数が少なくなり、東の空が仄かに色づいてきた。どこまでも続く山稜が空のなかに浮かび上がってくる。山の朝だ。
それらをジッと見つめてから、杉元は首を鳴らした。肩口に頭を乗せていた相手は杉元のその動作に目を覚ましたのか身じろぎをする。足の痛みを思い出したように、ビクリと震えて顔を引きつらせる。
「眠れた?」
身体を覆っていたツェルトを外しながら杉元が声を掛けると、相手は「はい」と返事をした。杉元は笑い「今日は家に帰れるよ」と言う。そのまま屈むと、男の右足の状態を調べた。固定した足首はそこまで腫れてはいない。安堵のため息をつくと、上から小さな声が降ってきた。
「綺麗だ」
男がぽつりと呟いていた。杉元が振り返れば、正面に見える山の先端を朝焼けが真っ赤に照らしていた。輝く光は舐めるように山肌を伝っていく。
「モルゲンロートだね」
そう言って杉元は微笑む。途端にザックに入れておいた無線機がガーガーと音を立てる。慌てて取り出しつまみをひねると、「現場の杉元です」と応答した。昨日とは違う低い声が『救助隊の○○です』と告げる。知り合いの山岳救助隊隊長の名前を訊き、杉元は眉を上げる。『要救助者の様子は?』、そう訊かれ、男のほうをチラリと見て、杉元は悪戯っぽく答えた。
「元気です。まさか今日はヘリ飛べますよね」
無線の向こうから、もう向かってる、という答えがあった。自分たちも後二十分程度で現場に着く、そう続けるので、杉元は「よかった」と答えた。
テルモスに入った飲み物を男に飲ませ、会話を交わしている最中、ヘルメットをかぶり、赤と黄色のシャツを着た県警の救助隊の姿が尾根筋に見えてきた。平素は派手すぎるように見える制服も、現場で見ると頼もしく思うから不思議だ。救助隊は速やかに近づいてきて、やがて杉元たちに接触した。
「一晩、ご苦労さまでした」
隊長から労われてはにかむように微笑むと、杉元は状況を手短に報告する。その間に別の隊員が男を取り囲み、傷の具合を調べている。ヘリで吊られるため救助用のハーネスを付けられている男が、急に「スギモトさん」と大きな声を上げた。
「何?」
近づいて行くと、男は疲労の浮いた顔で、それでも真っ直ぐに杉元を見つめ「ありがとうございます」と頭を下げた。杉元は一瞬目を丸くして笑った。
「怪我が治ったら、またおいでよ」
そう言うと、どこか潤んだ目をして男は言葉を続けようとする。
遠くからかすかにヘリのエンジン音が聞こえきた。東の空に青い点が見える。朝陽を浴びながら次第に近づいてきた。メタリックブルーの機体にオレンジの線。
大きくなる音の中で、杉元は男に「目、あんま大きく開けないで! 砂飛んでくるから!」と言うと、自分も手で庇をつくり頭上を見上げた。
ローターの回転とエンジンの激しい音と共に、周囲に風が巻き起こる。ホバリングを開始したヘリの機体からホイストワイヤーが垂れさがってきた。救助用の巻き上げウィンチだ。県警の隊員がワイヤーの先のフックを掴むと、男を抱いて確保用のカラビナを素早くフックに掛けた。上空のヘリに向かい隊員がぐるぐると腕を回す。途端にテンションが掛かり、ふたつの身体が地面から浮く。上空に引き上げられていく男に向かって、杉元は声を上げた。
「頑張れよ!」
やがて救助隊員と男は機内に収容された。ヘリはそのまま、東の空へ飛んで消えて行く。
隊長に挨拶をして自分のザックを担ぎ上げると、杉元は灰色の岩と緑のハイマツの間を縫うようにして山小屋へと急いだ。
小屋ではもう、泊まり客への朝食配膳が終わった頃だろうか。
満室ではかったが、働ける人間がひとり減った中で三十人分を一気に提供するのは大変だ。それでも自分がこうして救助へ行くことに対し、山小屋のオーナーを始め他のスタッフも嫌な顔ひとつしない。山で生活する者にとって、救助は当たり前の行為だった。ふと、ヘリの飛んで行った先に視線をやる。
自分が救助の仕事をするのは罪滅ぼしだ。要救のためではなく、生き残ってしまった自分のためだ。もちろん助けたいと思う。でも、助けられない時もある。所詮どんなに頑張っても、自然の中で人間の存在などちっぽけだ。
おそらく自分もいつか山で死ぬのだろう。死にたくはない。だが登り続けている限り危険をゼロには出来ないし、危険がなければ山に登る意味などない。
山が好きだった。
畏怖という感情ではない。自分は傲慢にも山を征服したいと思っている。理想の登頂ラインを山に描きたい。より高い山を、より複雑なルートで、そして難しい方法で。すべてのクライマーが夢見るように考えていることだ。
登ることが好きだった。
いつだったか、技術と力の持てる限りを使って登った岩壁の、あともうすぐで最終ポイントという場所で泣いてしまった。もっと登りたかったのだ。この時間が永遠に続けばいいと思っていた。
それでも立ち止まる時がある。自分はどれだけのものを山に置いてきてしまったのだろうと。
長い間ずっと独りで生きていた。家族は、自分が山を始めて少し経った頃、事故で全員死んだ。あの時から心のどこかで『生き残ってしまった』と感じるようになった。
雪崩に巻き込まれたこともある。壁を登っている最中グラウンドフォールしたこともある。それでも自分は生きていた。自分以外の死を何度も山で見た。それどころか自分はその死に関わったことがある。
あの出来事があって──何かの糸が切れたように、日本に帰ろうと決めた。
それなりに高い静かな山で、好きな壁に登りながら自由に暮らしたい。結局自分は独りが好きなのだ。それとも、守りたい人間が出来れば何か変わるのだろうか。人を好きになるとはどういうことなのか。
自分にはもう、山さえあればいい。
視線の先には光る山稜が広がっていた。


1.

もう二度と登らない。何が山だ。

朝から何度思ったか分からなかった。息が苦しい。肩で呼吸をしながら、唾を飲み込む。こんなことなら、前泊した麓の温泉地から動かなければよかった。
二時間ほどの急坂を登りきり、ようやく開けた場所に出た。
思わず足を止めてハアと大きく息を吐く。灰色と茶色の山並みどこまでも連なっている。東京よりも空が近い。山の上はすでに秋が深いのか、十月半ばだと言うのに空気が乾いて冷えていた。街を出た時にはまだまだ日中暑かったが、標高が違うだけでこんなにも感じる風の冷たさが違う。火照った頬に風が当たり気持ちがいい。しかしそれ以外に自分を慰めてくれるものは何もない。
後ろから歩いてきた若い女の登山客が、口ぐちに綺麗、来てよかったなどと言ってスマホで写真を撮り始めた。尾形は景色を漫然と見つめる。
綺麗──なのだろうか。
こういった景色を見て、他の人間は感動するらしい。現に後ろの二人組はそうだ。自分の足でここまで苦労して登ってきたのだから余計にそう感じるのだろう。分からなかった。
空っぽに晴れた空に広がる稜線を見つめ、ここで標高何メートルなのかと考える。
トレッキングパンツのポケットからスマホを取り出し、地図アプリを開く。どうやら標高二八〇〇メートルらしい。確かめてはみたもののどうも漠然としていた。東京ドーム何個分の広さと言われた時のような感覚だ。富士山の標高さえ自分は知らない。
アプリを見ると、あと二時間ほど歩けば分岐点らしい。そこから目的の山頂までは一時間程度とあるので、暗くなるまでに何とか用事を済ませて麓に戻りたいと考えた。もう、明日の夕方に仕事を入れてしまった。
ザックのサイドポケットからペットボトルを取り出し、水をひと口飲む。残りが心許ない。息を吐くと、澱んだ街の空気が肺から抜けて澄んだ空気が入ってくる。かすかに岩と土の匂いがした。
目の前の景色から視線を逸らし、右手に山並みを臨みながらひたすら登山道を進む。
歩く度、新品のザックに詰めた荷物がガサガサと鳴った。
詰め方が甘かっただろうか。ネットの山登りの記事を読み、そこに書いてあるものを一揃い購入しザックに入れてきたが、本当のところ何が必要で何が不要なのかは分からない。本格的な山登りは初めてだ。大体、目的がなければこんな場所には来ない。
ザックの一番上にはファスナー付のプラスチックケースが入っていた。
そのケースには、小さな骨の欠片が入っている。腹違いの弟の。
どの部分の骨なのかは分からない。父の代理人と名乗る男が半年前いきなり職場にやって来て、置いて行ったのだ。
男は、弟が死んだこと、その弟の遺言書に、骨を自分に形見分けするようにと記されていたこと、それらを矢継ぎ早に説明して去ってしまった。質問をする暇さえなかった。手元の白い器を見ながら考える。
骨を持ってきたということは、葬式は終わってしまったのだろう。出られるものなら出たかった。死を悼むのではない。父に会いたかったのだ。どんな顔をして自分に対応するのか──それが見たかった。
母は父に捨てられ、鬱病を患い自殺した。その事にもう特別な感慨はない。
幼い頃は母の肩を持ち、父を恨んでいた事もあったが、今では母も父もどちらも立派な人でなしだと考えるようになっていた。子どもは親を選べない。自分は最低の親を引いた。それだけの話だ。
死んで軽い骨になった弟のことを思う。
訃報を聞いた時、ああ、ついにと思った。不思議な喪失感があった。
相手がどのように互いの血縁関係を知ったのかは分からない。これまで三度、向こうに乞われる形で短い時間面会した。
一度目は互いが大学生の時。二度目は自分が卒業してすぐ。互いに父の話は持ち出さなかった。弟はただ穏やかに、『ひとりっ子育ちでずっと兄弟が欲しかった』と、そう言って、自分の近況を訥々と話していた。小児科医を目指すのだと言う。本当に、自分と種が一緒なのかと思うほどに素直で高潔な男だった。
期間が空いて面会した三度目が、生きている最後になった。一年前だった。
勤め先の大学病院のベッドに横たわり、弟自身が静かに語る病状。膵臓ガンだと言っていた。若くして罹るほど進行が早いのだと言う。医者の弟ですら気づくことが出来なかったそれは、見つかった時にはもう別の内臓に転移して手遅れだったらしい。
点滴のチューブ。薬品の匂い。痩せましたね、と正直に言えば、やつれた青白い顔で弟は笑っていた。
その時他に何を話したのかはもう記憶から失せてしまったが、窓の外を見ながら弟がぽつりと『今年は登りに行けません』と寂しそうに呟いたのを覚えている。過去にも時々語っていた山の話。学生時代から登山が趣味なのだと言っていた。
骨と一緒に、一枚の絵ハガキも渡された。
山の写真だ。灰色の岩と、斜面の所々を覆う緑。山の名前はどこにも印字されていない。
ひっくり返すと、メッセージ欄に掠れたような字で『ここに骨を捨ててください』と書いてあった。不思議な頼みだ。自然葬を望んでいるのだろうか。しばらく眺めて絵ハガキを会社のデスクにしまい、骨は部屋に持ち帰って、クローゼットの中にしまっていた。
後日、元山岳部だという取引先がたまたまやって来たので、絵ハガキの写真を見せると、北アルプスの山だと教えてくれた。そこまで有名な山ではなく、少し奥まった場所にあるマイナーな山なのだと言う。弟はこの山が好きだったのだろうか。

ザック同様、新品の登山靴は重く無骨で、足になかなか馴染まない。ただ登るだけの単調な動作にすでに飽きがきている。
弟は本当にこんな行為が好きだったのだろうか。なぜわざわざ自分に骨を捨てるように託したのか。尾形は皮肉のように胸の内で問いかけてみる。
勇作さん、どうなんですか。
骨は答えない。どこか遠く、ピョーという鳥の声が聞こえた。
この先もずっと順風満帆の人生を謳歌するように見えた弟の、病床で見た姿は──美しかった。そんな弟が行きたいと願っていた場所は、一体どんなものなのだろう。弟が弱々しく微笑む姿が、今も脳にべったりと貼りついていた。
尾形はただ爪先だけを見て歩く。周囲の景色は目に入らない。
うっすらと喉の渇きを覚えた頃に分岐点に着いた。
二股に分かれた道の真ん中に道標が立っている。白く色褪せた木の板に、赤いペンキでふたつの山の名前と矢印が書いてあった。
ネットで調べた知識によると、その内ひとつは人気の高い山らしい。紹介記事には花畑だのカールだのという文言が躍っていたが、殊更興味はなかった。
道標を眺めていると、突然背後から「こんにちは」と声を掛けられた。
首だけで振り向くと、先ほど後ろで写真を撮っていた二人組の登山客が迫っていた。なぜ山を登る人間は、皆わざわざご丁寧に挨拶をしてくるのだろう。
尾形の横を二人組は通り過ぎ、人気が高いと言われる山へ向かって行く。それとは反対の道を歩き始めた。
しばらく歩いてからスマホを取り出す。道を確認するために地図アプリをタップしたが開かない。オフライン表示になるので通信状況を確かめてみると、まるで電波が届いていなかった。ぎょっとして画面から目を離し、現実の道の先を眺めても、絵ハガキで見た山の頂は見えない。
すぐ手前に見える山は、ごつごつとした岩が目立ち、明らかに絵ハガキのそれではなかった。この山の向こうなのだろうか。
しばらく歩いて行くと、突然赤茶けたトタンの屋根が道の脇に見えてきた。
記憶の地図に、小屋の存在はなかった。見落としていたのだろうか。目をこらすと、小屋の入口の上に『○○ロッヂ』と書かれた木の看板が掛かっていた。
水を、買えるだろうか。道も訊きたい。
無意識に足早になり、低い灌木の中を縫うように近づいて行く。わずかに開けた台地に、小屋は低く張りつくようにして建っていた。
新しいとも大きいとも言えない、所々赤錆びた茶色い窓サッシに、屋根と同じトタンの張られた壁。昭和の匂いのする建物だ。小屋の横にはネットを掛けられた木材が置いてあり、入口の脇にはおもちゃのように小さな、自家風力発電用のタービンが回っていた。
ぐるぐると回る白い羽を横目に歩きながら、尾形は玄関の前に立つ。白木で造られた引き戸に手を掛けて、ゴトリと引いた。
中は薄暗く、窓から鈍い光が差し込んでいる。
その光の中で白い埃が静かに舞っていた。部屋の奥には木で作られたテーブルと椅子が並んでいて、天井からはランプ風の電灯がいくつも吊り下がっている。壁際に据えられた本棚には洋書も見える。外見の古臭さに反して、中はどこか外国を思わせる瀟洒な造りになっていた。一歩中に踏み込んで立ち止まる。正面の窓に目を奪われた。
窓枠が額縁のように景色を切り取り、薄暗さのなかで浮かび上がっている。
青い山並み。建物の向こう側はどうやら谷になっているらしい。遮るものなく見渡せる山稜の真ん中には、ひと際ツンと尖った特徴的な山頂が見えていた。あれは何という山なのだろう。
ぼうっと眺めていた尾形は、はっと我に返り声を出した。
「すみません」
返事はない。誰もいないわけはないだろうと思い、もう一度大きく声を掛けると、どこからか「はーい」という男の声が聞こえてきた。怪訝に思い建物の外に出た途端、上から大きな声が降ってきた。
「すみません気づかなくて! 宿泊の人?」
屋根の庇の端からこちらを覗く顔がある。逆光になっていて表情がよく分からない。眉を寄せ眺めていると、キャップを被ったその顔は朗らかに言った。
「布団取り込んで、すぐ行きますねー」
顔は引っ込み、やがてバサバサという音が響く。屋根に干していたのだろうか。
建物から少し離れて屋根を見上げてみるが、向こう側で作業をしているのか姿が見えない。それでも物音だけはする。やがて建物の西側から回り込むようにして、若い男が現れた。
似合い過ぎていると唐突に思った。山という環境に男の存在が馴染み過ぎていた。
「待たせてすみません。ちょうど他のスタッフも休憩に出ちゃってて」
男は青いフリースを着て、ツバの擦り切れたキャップを被っていた。背は尾形よりやや高く、上半身はがっしりとしている。日に焼けた顔に大きく特徴的な傷があった。人のことは言えないがすごい傷だ。そう思って見ていると、男はそんな視線には慣れているかのように愛想よく言った。
「チェックインは中ですけど」
「いや…泊まりじゃない」
「あ、そうなの? じゃあ食堂利用?」
「……水を」
どこか雰囲気に飲まれながら尾形は答える。男の瞳は陽の当たり加減で時折黄味がかったように薄く見えた。見たことのない色だ。
「売店利用かな。こっちへどうぞ」
気安く言うと玄関の戸に手を掛ける。男の背中と履き込んだ登山靴の踵が見えた。
戸をガラリと開けると、男はすぐ左手のカウンターの中に回って行く。つやつやと光る素朴な木のカウンターには『受付』と書かれたプラスチックのフロントサインが置いてあった。
『テント泊の方へ』などと書かれた注意書きの横には、ホテル風に立派なペン立てがあり、宿帳のような紙も揃えられている。
カウンターの脇には、色染の手ぬぐいやピンバッジなどの土産品もごちゃごちゃと置いてあった。個包装のパンや菓子もある。売店も兼ねているらしい。男は後ろの棚からミネラルウォーターのペットボトルを取って、カウンターに置いた。
「三百円です」
「……高いな」
何気なく声に出すと、男はどこかムッとしたように「安いほうだよ」と答えた。今度は茶目っ気を含ませて続ける。
「俺が頑張って下から運んできたんだから、その運び賃だと思ってよ」
砕けた相手の態度がそれほど気にならないのは、ここが山だからだろうか。ザックから財布を取り出しながら疑問を口にする。
「……水を背負ってここまで登るのか?」
「いや、生活用水は近くの沢から引いてくるし、大抵の荷物はヘリで運ぶよ。でも時々は俺が水や野菜を背負って運ぶ」
時代錯誤の物言いに戸惑いつつ、相手に硬貨を渡す。古いレジに金をしまいながら、男は急に客商売を思い出したように「ありがとうございます」と丁寧に言った。そうしていきなり目を細くさせ、「コーヒー飲んでく?」と誘ってくる。
男は顎で建物の奥をしゃくった。その先にはあの額縁のような窓がある。青い山並みが変わらずに広がっていた。
「綺麗だろ? ここの自慢なんだ」
自慢はもうひとつあってさ、と言ってカウンターから出てきた男は、部屋の奥へ行く。窓のある部屋はカフェスペース兼食堂のようだった。壁にそって真っ直ぐ長いカウンターがあり、その上にはマグカップなどの食器類とサイフォンが置かれている。そちらのカウンターに入ると、男はコーヒー缶らしき蓋を開けて準備をし始める。
「この景色を眺めながら飲むコーヒーがもうひとつの自慢。湧き水で淹れてるから美味いと思うよ」
視線でこちらに来るように促してくる。ペットボトルを手にした尾形は「いや、」と首を振った。ゆっくりしている暇などない。これから山頂に行って骨を捨て、麓まで戻らなければならないのだ。
「もう行く。その……ありがとう」
それらしく礼を言って出て行こうとすると、男はジッと尾形を見つめて問いかけてくる。
「どこまで行くの?」
そうだ、と尾形は思い出した。当初は道を訊ねる予定だったのだ。
ザックを肩から下ろして絵ハガキを取り出すと、男に近づいてそれを突き出した。無言のままハガキを受け取ると、男は尾形の顔と絵ハガキとを交互に眺め、やがて、「ここに行きたいの?」と訊いた。
「遠いのか」
「近いよ。山頂まで往復で三時間ぐらい」
「……近いって言うのかそれは。地図にはもっと短い時間が書いてあったが」
「夏はね。今は途中にベルグラが付いちゃったから」
「……ベルグラ?」
「薄い氷のこと。お客さん、あんま山やんないでしょ」
一瞬馬鹿にされたのかと思ったが、見つめてくる男の目にはその気配がない。淡々と言葉を続ける。
「気を悪くしたならごめん。登山者へのアドバイスも仕事のひとつだからさ。この山、初心者にはちょっと難しいよ」
「……そうは言っても、登れないわけじゃないだろ」
「もちろん。装備がちゃんとしてればね。戻って来る頃には夜だ。ヘッドライトは持ってる? グローブは? 夜は冷えるよ」
尾形は首を振った。ネットの記事にはどちらも装備品としてリストアップされていたが、日が暮れてから行動することなどないだろうと思い、買わなかった。ましてやグローブなど、冬ではないのだから余計必要がないと最初から切り捨てていた。
どちらも持っていないと正直に言うと、男は強い目をしてきっぱりと言った。
「じゃあ、今日はやめといた方がいい」
「……明日の夕方に仕事が入ってる」
憮然として尾形が言うと、男は腰に手を当て困ったように眉を下げた。
「どこから来たの?」
「……東京だ」
男はハアとため息をついた。
「なんでそんな無茶な予定立てんのかなあ。ヘッドライトも手袋も、俺のを貸してあげられるけど、それでも日が落ちてから行動するのは危険だよ。人の都合に山は合わせてくれないから」
それでも何が面白いのか、男は言い終わると急に口角を上げて手元のサイフォンを見つめた。
「……とは言っても、ここ出たらそのまま山に向かいそうな顔してるね」
そう言いながら、サイフォンの下のアルコールランプに火を点けた。軽量カップで計ったコーヒーの粉をボウルに入れながら、尾形に言う。
「まあ、とりあえず一杯飲んでってよ。サービスする」
飄々とした相手の物言いに力が抜けたようになって、尾形は無言のまま近くの椅子に腰を下ろした。男はどこか機嫌がよさそうに、サイフォンの前でコーヒーの番をしている。何となくザックを足元に引き寄せて、尾形は横目で男を見つめた。
自分と同じか、あるいは年下のように見えた。
日焼けや傷によってきつく見える顔は、笑った途端に幼く見える。元より目鼻立ちが整っているのだ。それ以上に何かを思おうとしたが、それだけだった。景色もそうだが、人の美醜が分からない。
客観的な評価は予想がつくが、自分が好きか嫌いかというと途端に曖昧になってしまう。他の人間との区別がつかない。弟も整った顔をしていたようだが、思い出すのはなぜか、通った鼻筋と口元ばかりだった。
「もう少しで出来るよ」
静かだがよく通る声だ。どこか素朴で、山の緑と岩を思い起こさせる。辺りにコポコポという湯の沸く音と、コーヒーの匂いが漂っていた。窓の外の景色を眺めながら、思い出したように訊ねる。
「……ここはスマホが通じないんだな。どのキャリアだったら通じる?」
男は小さな木べらでコーヒーの粉を均しながら答える。
「どれもダメ。お客さんもスタッフも全部繋がんないって言ってる。でも稜線に出ればちょっとは繋がるよ。フロントに衛星電話があるから、何かあればそれ使って」
「いや、今じゃなくてもいいんだが……不便じゃないのか」
「俺は別に。連絡取り合うような人はいないし」
至極当たり前のように男は言うと、「出来た」と嬉しそうにひとりごちて、手元にカップを引き寄せる。コーヒーの溜まったボウルを外し、飴色の陶器のカップに注ぐ。湯気と共に一層コーヒーの豊かな匂いが立つ。男はカウンターから出ると、尾形の前にカップをコトリと置いた。
「どうぞ」
ああ、と小さく言って、カップの縁に口をつけた。顔をしかめる。熱くて飲めない。フウ、フウと二三度息を吹いてからわずかに啜ると、舌の上に苦みと香りが広がった。
「……美味い?」
男の問いかけに無言のまま頷く。景色を眺めながら少しずつ中身を啜る。
男は尾形から離れると、カウンターの下から私物らしい保温式の水筒を取り出してサイフォンに余っていたコーヒーを移し始めた。作業をしながら「そう言えばさ、」と続ける。
「あの絵ハガキ、ウチで売ってるやつだね」
わずかに目を大きくして男を見つめた。カップを置くと、「本当か?」と抑えた声で訊ねる。
水筒の蓋を閉めた男は、先ほどのフロント兼売店の方へ行き、その上を探っていた。やがて一枚のハガキを手にして戻ってくると、尾形の前にそれを差し出す。おそるおそる受け取って眺めると、確かに同じ写真が使われた絵ハガキだった。
「ウチのオーナーが撮った写真で作ったやつなんだ。多分ここでしか売ってない」
尾形を見下ろしながら男は言う。口から言葉が漏れそうになったが、言っても仕方がないと思い慌てて閉じた。
『弟を知らないか?』
本当は、そう訊きたかった。だがきっと覚えてはいないだろう。第一、相手がいつからこの小屋にいるのかも知らないのだ。思いあぐねる尾形に向かって、男は諭すように言った。
「何か事情があるみたいだけどさ、今日はここに泊まって明日早くに山頂を目指した方がいい」
尾形は足元のザックを見つめる。
にわかに目的への現実味が増したような気がした。弟はここに寄ったのか。ザックの中の骨が透けて見えたような気がして唇を引き結ぶ。やがて小さく呟いた。
「いや……今から行く」
立ち上がると、ザックを背負って足早に玄関へと向かう。一歩外へ出たところで、ぐい、と腕を引かれた。首だけで振り向けば男が腕を掴んで立っている。困ったように尾形を見つめていた。
「やめとけって。何かあったら助けに行くのは俺なんだぞ」
どういう意味だと思いながらも、「離せ」と言ってその腕を振り払う。ぼやぼやしていたせいで空にはすっかり薄い雲がかかり、午後の寂しさになっていた。風は先ほどよりも冷たい。急ぐ背中に男の声がぶつかる。
「なあ、ちょっと待っててよ!」
やはり意味が分からない。無視をして、低い灌木の中を伸びる道をひたすら進んで行く。そこを抜けるとすぐに稜線に出た。猫の耳のような山頂が近くに見えている。この向こうにあの山があるのだろうか。結局きちんとした案内を聞くことが出来なかった。
足元の地面が砂利と白い石に変わる。不安定な中を歩くと、石がカラカラと後ろに崩れていった。道の脇の岩に手を付いて、膝を引き上げるようにして登って行く。すぐに息は切れた。立ち止まりハアハアと息を吐いていると、ふいに背後から「おーい」という声が聞こえた。
振り向けば。先ほどの男が駆けるように近づいてきている。引き止めに来たのだろうか。逃げるように歩き出すが、足音と共にジャラジャラと金属の擦れるような音が迫ってくる。やがてあっという間にザックを叩かれた。
「待てってば!」
「……何だ」
肩で息をしながら相手を睨む。男は気にしないようにニッと笑って、「俺も行くよ」と言った。眩しそうに目を細めながら続ける。
「オーナーに了承取ってきた。登山道の点検も兼ねてガイドしてやるから」
呆気に取られたように、尾形は男を見つめた。
ザックの肩紐にはトランシーバーが括りつけられている。腰に黒いハーネスをつけ、そこに幾つかの金属製の輪が下がっていた。名前は知らないが、どこかで見たような輪の形状だ。動くとシャラと軽い音を立てる。
いかにも山慣れした男の様子に安心感が湧いたが、どこか同情されているような気配も感じ眉を寄せた。
「別にいい」
「駄目だ。ほんとは殴ってでも止めたいけど、止められなさそうだから俺も行く。俺がいれば大丈夫だから」
尊大な物言いが疎ましいと思ったが、引き返さない限り相手はきっとどこまでも付いてくるのだろう。そんな雰囲気がある。早々にあきらめて息を吐いた。
「……ガイド料はいくらだ?」
「は? いらないよ」
間髪を入れずに男は言うと、尾形の前に立って歩き出す。
ガレた岩場も気にせずに小股でぐいぐいと登って行く。男が通った後をトレースしながら歩いて行った。ペースを合わせてくれているのかそこまで歩く速度は早くない。男は時折振り返り、キャップのツバを持ち上げ尾形の様子を確かめていた。
「そこ、石浮いてるから気をつけて。足置いたら転ぶよ」
そう注意されて足元に目を落とした。言われるがまま石を避けて脇を登る。
ハッハッと息を吐く尾形とは対照的に、男は息ひとつ乱してはいなかった。大きなザックを背負い、平地を歩くように登って行く。ふいに振り向いた。
「ちょっと休憩しようか」
男はザックを下ろし、水の入ったナロゲンボトルをすっと差し出してくる。それを視線で断り、尾形は小屋で買ったペットボトルをザックのポケットから引き出した。飲み込むと、火照った身体に染み渡る。近くの岩に浅く座って振り向けば、随分高い所まで来たのが分かった。
小屋の赤いトタン屋根が、小さく下に見えている。男は腰に手を当て空模様を見ていた。視線の先には薄く曇った空がある。
「そう言えば、名前訊いてなかったな」
視線を戻した男が、だしぬけに言った。ツバをちょっと持ち上げてニッと笑う。
「俺、スギモトです。スギモトサイチ」
次はお前だと視線で促してくるので、渋々「尾形だ」と苗字を告げた。
「そっか、オガタさんか」
自分に覚え込ませるように、「オガタさん、オガタさん」とスギモトは繰り返す。その横顔を見つめながら尾形は訊ねた。
「結構……山に登るのか?」
「うん、まあまあだね」
「ガイドの仕事は多いのか」
「いや、俺は別にガイドの仕事はしてないよ。ただの山小屋従業員。オーナーに頼まれた時にだけお客さんのガイドすることはあるけど」
「……そうか」
「オガタさんは? 仕事」
唐突に振られ、当たり障りのない返事をした。
「アパレル業界」
「……アパレル」
「服を扱ってる。インテリアとか日用品も少し」
「店で売ってんの?」
「接客じゃない。ブランドとか製造工場とか、企業相手の営業だ」
「……営業」
「興味がないならもう訊かないでくれ」
突き放すように言うと、スギモトは当たり前のように「俺、山しか知らなくてさ」とからりと言った。
「そろそろ行こうか」
スギモトの声に、尾形は岩から腰を上げザックを背負い直す。先に立つスギモトの後に続いて行く。先ほどよりは息が切れない。相手のように小股で登ればいいと気付いてからは登るのがだいぶ楽になった。
互いに無言のまま三十分ほど登ると、やがて目の前にずっと見えていたピークに辿り着いた。その向こうを見ると、奥にもうひとつのピークが見える。
距離感が掴めず高さなど分からないが、ここよりも上なのだろうか。山頂直下にはごつごつとした岩が目立っていた。
「あの山だよ」
隣のスギモトが言う。絵ハガキのそれとは違うような気がしたが、山などどれも似たり寄ったりだ。撮る角度によってはどうとでも見えるのだろう。目を凝らして眺めていると、スギモトはさっさと先に行ってしまう。
ピークを下るとなだらかな道になった。歩くのに充分な幅はあるが、両脇が切れ落ちて谷になっている。高い所に苦手意識はなかったが、それよりもすぐ先に見えるもうひとつのピークが気になった。
どうせまたきつい登りが始まるに違いないのだ。ここまで下りた分の労力がもったいない。そう思っていると、先を歩いていたスギモトが立ち止まった。「どうした」と訊ねると、「風が気になって」とスギモトは小さく答える。
「このコル、時々強い風が吹くんだ」
スギモトはザックを下ろすと、腰につけている物と同じハーネスを取り出して、尾形に差し出した。
「これ履いて」
言われるがまま、ハーネスのループに足を通す。ウエストベルトが緩いと思っていると、スギモトが「ちょっとごめん」と言いながら身体を寄せてきた。相手の匂いが鼻をくすぐる。スギモトはバックルをぐっと締めて、緩みを調整した。ねじれがないかをベルトを指で探りながら調べている。
唐突な距離の近さに背筋がゾワリとした。
スギモトは身体を離し、ザックからロープを取り出す。そんなものまで入っていたのかと思っていると、ロープの中間を独特な方法で結び、その端を尾形のハーネスに通した。
相手の無骨な指が器用な動きをするのが不思議でジッと見つめていると、スギモトは手元で作業しながらちょっと笑って「こういうの興味ある?」と静かに訊ねてきた。無言のままでいると、もう一方のロープの端を、自身のハーネスに同じように繋ぐ。そうして互いの間に余った分のロープを、袈裟懸けのようにくるくると自分の身体に巻きつけた。
「少しの間繋がって歩こう。先に行って」
手綱を握られているようであまりいい気はしない。それに気づいたのかスギモトは「ただの保険だよ」と言った。
「……これ、もし落ちたらお前も一緒に落ちるんじゃないか?」
背後から、「ちゃんと止めるから大丈夫」と答えにならない答えを返してくる。何か気に食わないと思いながら歩き出すと、突然横から強い風が吹いてきた。
倒れそうになって思わず地面に膝をつく。
「大丈夫?」
肩越しに振り向くと、スギモトが腰を落としてこちらを見つめていた。手元を見れば、互いを繋ぐロープを手繰り寄せビンと張らせている。「大丈夫だ」と返すと、スギモトは腰を上げてロープを手繰っていた手を離した。
「横風に気をつけて」
先ほど体験したのだからそんなことは分かっている。それにしてもまるで、リードを付けられた犬のようだ。なだらかな道は終わってまたピークへ向かう登りになった。
まさか垂直とは言わないが、初心者の目にはかなりの傾斜だ。目印なのか、岩のあちこちに白いペンキで「○」が書いてある。頂上へ向かう途中には鎖も見える。それでもロープで確保してくれているのだから心配は少ない。登ろうとすると、背後から声が掛かった。
「あ、もうハーネス外しちゃっていいよ」
「……は?」
振り向いて相手を見つめる。スギモトは互いを繋いでいたロープを手際よく外していく。尾形は相手の手元を見つめながら訊ねた。
「ここが一番必要なんじゃないのか?」
「いや、アンザイレンのままだと油断するからさ。ホールドもステップもしっかりしてるから全然登れるよ。ずっと見てたけどオガタさん、高いとこ怖くないだろ? ベルグラ張ってるとこだけ充分注意してもらってさ」
ハーネスを外し軽くなった身体を意識していると、グローブを差し出された。
「手のサイズは大丈夫かな」
受け取ってはめる。少し大きいと思ったが、伸縮性がある生地なのでそこまで気にはならなかった。
「慣れてきたら素手のほうが感覚掴めるけど、最初はグローブあった方が登りやすいと思うんだ」
かいがいしく世話をしてくれる相手が疎ましい。
振り向いて目の前の傾斜を見つめる。フウと息を吐くと、岩に手を掛けて登って行く。そのすぐ後からスギモトが付いてくる。気配を感じながら、息を短く吐いて慎重に手がかり足がかりを見つけ、鎖を掴み進んで行った。
最初に感じた厳つさに比べ、登っている最中はそれほど恐怖も高度も感じなかった。
途中、スギモトの言う通り薄い氷が張っている場所があったが、背後から杉元に手がかりを教えてもらいながら問題なく通過した。最後の鎖場を越え、二三度足を引き上げると頂上に着いた。
耳の横でひゅうひゅうと風が鳴っている。オレンジ色の山稜が広がっていた。
「北アルプスへ、ようこそ」
背後からスギモトが言う。登りきった先は五六人ほどが立てるような台地になっていた。白い石に埋もれるように小さな祠が置かれ、その横には山名と標高が書かれた細長い標識が立っている。空はもう暮れかけて、街よりも大きな夕陽が辺り一面オレンジ色に染めていた。ぼうっと眺める。
山稜の真ん中に、ひと際尖ったピークを持つ山があった。小屋の窓から見たそれだ。やはり名前が分からない。
「写真撮ろうか?」
スギモトの声に静かに首を振る。
ザックを下ろすと、尾形は中のプラスチックケースを取り出した。地面に直に置いて近くの石を手に取ると、その上に振り下ろす。ゴツ、ゴツと二三度繰り返すと、袋の中身が荒い粉になった。ペリペリとケースのファスナーを開けながら台地のなるべく端の方へ歩いて行く。ジャリ、と足元の砂が鳴った。
グローブを脱ぐと、袋の中に手を突っ込み、粉を指先でつまんだ。そのまま手を出してそっと開く。風に乗って流れて行く。指についたそれを振って落とすと、面倒になって、今度は袋を逆さにしてザカザカと空中で振った。
オレンジ色に淡く染まった粉が遠くへ消えていくのを見つめながら、尾形は小さく笑って呟いた。
「勇作さん……ここまで来ましたよ」
呟いた声は、乾いた風に乗ってどこかへ流れて行く。
袋を片手にジッと景色を眺めていると、ふいに「誰の?」と静かに問いかけられた。景色を眺めながら「弟のだ」、と答える。
「そっか。よかったね」
何がよかったのかは分からないが、確かに安堵はしていた。おもむろに振り向く。スギモトが陽に照らされて立っていた。
「戻るか」
そう言うと、スギモトはわずかな角度に首を傾げて言う。
「もうちょっとここに居ていいけど……」
「いや…暗くなるんだろ?」
スギモトは頷き「じゃあ行こうか」と言うと、思い出したように肩紐のトランシーバーを取ってどこかと交信し始めた。やがてザアザアという音と、低い声が聴こえてきた。その声に「今から戻ります」と告げ、スギモトはトランシーバーをしまった。
「お待たせ」
登りとは逆に、スギモトが先に立って下り始める。
下りのほうが、落ちていく先が見える分余程緊張感があったが、それでも何とかスギモトに足がかりを教えてもらいながらピークを下りた。
背負ったザックがひどく軽くなった気がするのは、ここまで来られた安堵感からだろうか。頭はもう、今日中に麓まで戻れるだろうかという心配だけだった。
コルにさしかかり、行きと同じようにロープで繋ぎ合って通過する。そのままもう一つのピークを登り返したところで、オレンジだった空が群青に変わり始めた。
徐々に手元が見えなくなってくる。防寒用にレインウェアを着込み、渡されたヘッドライトを頭に付けてスイッチを入れた。陽の光には遠く及ばない、小さな灯りが足元を照らす。
スギモトを先頭に、ゆらゆらとライトを揺らしながらしばらく進むと、闇の中にぽつんと灯りが見えてきた。小屋だ。大きすぎる自然の中で灯り続けるそれが、今はひどく心強く感じる。無意識に進む足が早くなる。次の一歩を下ろした時、ふいに身体がぐらりと揺れた。あっという声が漏れる。視界が下がって、大きな衝撃がある。地面に尻をついていた。
「大丈夫か!」
先に歩いていたスギモトが引き返してくるのが分かった。屈みこむと、足に触れてくる。
「ゆっくり伸ばしてみて」
相手に言われるがまま膝を伸ばすと、ズキッという痛みが左足首に走った。
「浮石踏んじゃったか?」
多分な、と尾形が答えれば、スギモトはそれ以上何も言わず、素早く尾形の登山靴を脱がしていく。ザックを探って何かを取り出す。赤い生地の上に、白い十字が染め抜かれたポーチだ。それを開けてスギモトはテーピングテープを取り出す。さらに固定用の副木も出し、足を固定していく。
「……ずいぶん手際がいいんだな」
感心したように言うと、処置をしながら「仕事のひとつだから」と杉元は答えた。テープの端を切り、「立ってみて」と尾形に言う。
登山靴を履き直し、おそるおそる立ち上がると、しっかりと固定されているお陰で痛みは少ない。
「歩ける?」
「ああ」
相手の後に続きゆっくりと歩いてみるが、三分もしない内にまた痛みが走り立ち止まってしまった。小屋はもうすぐそこだと言うのに厄介なことになった。ライトの先を見つめる。スギモトも立ち止まり、こちらの様子をうかがっていた。
「大丈夫だ。先に行っててくれ」
道は分かっている。時間はかかるが少しずつでも歩いて行けばその内着くだろう。だがライトの中でスギモトは困ったように口を結んでいた。やがて近づいてくると、背中を向けて屈んで「乗れ」と言った。
意味が分からずに相手を見下ろしていると、「早く」と促してくる。
「……背負うのか?」
「それ以外に何するんだよ」
「……重いぞ」
「知ってるよ」
考える力が失われたのか、言われるがままスギモトの背中に寄りかかった。ぐいっと身体が持ち上がる。小さく声を上げると、太腿の裏をしっかりと支えてきた。スギモトはそのまま一歩一歩ジグザグに下りていく。
身体が強張っていた。背負われるのは子どもの時以来で、体重を分散させる身体の使い方が分からない。おまけに、相手の鼓動が背中を通して伝わってくるようで嫌だった。はっはっと短く吐く相手の息の音。その距離感と温かさに戸惑ってしまう。
「スギモト…さん」
「スギモトでいいよ」
「スギモト…自分で歩ける」
「いいから。こっちの方が早い。俺も早く帰りたいんだ」
「……悪い」
「別にいいよ」
何でもないように相手は言った。おそるおそる力を抜いてスギモトの背中に体重を預ける。相手が地面を踏みしめる度、肩甲骨がぐっと動く。こちらを支える腕は安定していた。ふいに声を掛けられる。
「なあ、仕事は諦めろよ」
どういうことだと思っていると、スギモトは額に汗を浮かべながら笑って続ける。
「無茶な予定立てるからこういう事になんだよ。下界の人間はせっかちで嫌だ」
ハーとわざとらしくため息を吐いている。下界とはなんだと思いながら、これまでの相手に珍しく、皮肉を言っていると気づいた。自分がどれほど無茶なことをしていたのかを何となく理解する。だが素直に受け入れたくはなかった。意趣返しのようにスギモトの頭に顔を近づけ、スンと鼻を鳴らす。そうしてははッと笑って言った。
「お前、ちゃんと風呂入ってるか?」
「…は? 入ってるよ!」
「風呂なんかあるのかよ」
「あるよ! 従業員用のが。そんな水使えないけどさ……え…あの……もしかして俺、臭い?」
相手の耳が赤くなるのが薄暗さの中でも分かった。このままからかうのも面白いが、背負ってもらっている手前そう強くは出られない。
小屋の灯りがだいぶ近くに見えるようになると、スギモトの呼吸も上がってきた。大の大人を背負っているのだからさすがに息も切れるのだろう。もう下りる、と言おうとすると、スギモトが先に声を掛けてきた。
「なあ、上見て」
怪訝に思いながら視線を上げる。薄く口が開いた。
闇の中に無数の光の点が浮かんでいる。星だと理解するのにわずかな時間が掛かった。標高二八〇〇メートルから見る星空。鼻の奥が痛くなるほど澄んだ空気の中に広がるそれは、街では到底見られない光景だった。黒々とした山の影が下に続いている。
現実感がない。綺麗だとは思わない。どこか恐ろしかった。それでも眺め続けていると、息を切らしながら相手が言った。
「街も…いいかもしれないけど…、山も、いいだろ?」
尾形が無言のままでいると、相手はさらに言葉を続ける。
「小屋で…会った時…、山なんか嫌いだって…そんな顔…してたから」
女の子じゃないから、星なんか興味ないかな。そう言って歩き続ける。
体温が上がり立ちのぼってくる相手の体臭を鼻に感じながら、そうだな、と小さく囁いた。そうして、「下ろしてくれ」と言う。小屋はもう目の前だ。
もう山など懲り懲りだった。

翌朝、スギモトはわざわざ一緒に登山口まで下りてきた。心配だからと言う。
ひと晩小屋でゆっくり休んだお陰で足の痛みはだいぶマシになり、歩けないほどではなかった。それでも、登山道の整備も兼ねてるんだ、などと言ってスギモトはバス停まで付いてきた。
別れ際、小さな紙袋を渡された。
「お土産」
そうはにかむように言って、唐突に、「手紙、送っていいかな」と続ける。どういうことだと思っていると、宿帳に書いてもらった住所に手紙を送ってもいいかなと、さらに畳みかけるように訊いてきた。
小屋の営業メールでも送ってくるのだろうか。商売熱心なことだと思いながら渋々頷くと、キャップのツバの下の目を細くさせて眩しそうに笑った。
スギモトと別れ、バスの中で紙袋を開けてみる。
昨日登った山の名前と、山の姿が彫られたピンバッジが入っていた。手に取り、車窓から入ってくる明かりに照らす。銀色に鈍く光っていた。
その向こうの山と緑が遠ざかって行く。

街に戻ってから、仕事の忙しさもあり山のことなど忘れていた。
そうして秋が過ぎ冬が過ぎ、年も明ける。
まだ寒さの残る四月、マンションの郵便受けに一通の絵ハガキが入っていた。
手に取って眺めてみる。弟の骨と一緒に受け取ったものと、同じ絵ハガキだった。ひっくり返してみると、上手いとも下手とも言えない、だが丁寧に書いたのだろうと思わせるような筆跡で、長野の住所と共に『杉元佐一』という名前が書かれている。ふいに記憶が甦った。秋の山。弟の骨。岩を登る。星空。スギモト。
『本』じゃなく『元』だったのか。てっきり『杉本』だと思っていた。
ハガキには一文だけが書かれていた。
『よかったらまたコーヒーを飲みに来てください』
杉元──。笑う顔をふと思い出した。


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