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 「大公報」は2月24日に発表した論評でこのような見方をうがったものとして批判している。大公報は香港の新聞で、北京に近い立場の報道で知られる。大公報の論評はとある大学教員がこの横断幕の件を利用して騒ぎ立てていると指摘した。名指しこそしていないものの、香港中文大学の沈旭暉准教授のことだと思われる。

 沈旭暉氏は2月20日、ソーシャルメディアにおいて、香港人が(広東語で)口にしないような「走,咱们回家!」という表現の利用は一国二制度の「二制度」の軽視ではないかと批判した。それに対し大公報は、香港の「憲法」に当たる香港基本法では、香港の外交を中央政府が担当すると規定されていることを知らないのかと批判した。さらに、この論説は香港基本法や法定語文条例が定める法定言語は「中国語」と「英語」でありそれ以上のルールは定められていないと指摘。「繁体字を利⽤すべきだ」という主張には法的根拠がないと反論した。

 同じく北京寄りの星島日報系列の海外華僑向けメディアである「星島環球網」は「(横断幕の文字は)香港で激しい議論を引き起こしただけではなく、多くの香港市民は国家だけが彼らの安全を守れると感じただろう」とまで書いている。これらの2つのメディアの意見は必ずしも香港で主流のものではないにせよ、彼らの意見を抗議者側と対比させると、香港の「高度な自治」については香港社会の中にも幅広い見方が存在することが分かる。

一国二制度の複雑さ

 横断幕に何が書かれているかなど、些末(さまつ)な話に見えるかもしれない。しかし、これは一国二制度の複雑さを象徴的に示すエピソードだ。香港政府は実務上海外での活動も容易にできるように体制を整えている。主要国には中国大使館とは別に独自の出先機関(香港経済貿易代表部)を設けており、東京にも事務所がある。⽇本国内で⾹港⼈による抗議活動が⾏われる際には、その代表部が香港政府の象徴として終着地点となることも多い。

 香港政府はチャーター機派遣の際に代表部で検討会議を行っている。代表部が出先機関として日本政府の機関や国会議員と連絡を取るという事例もある。そのため、実務上は香港政府側で大半のことができるはずだし、実際そうしている。しかし、一国二制度の中で、香港政府にどこまでの権限が与えられているかについてのボーダーラインは明確ではない。

 この話は「香港居民」とは誰かと考えたときにより複雑な話となる。香港居民は必ずしも中国国籍を有する者、すなわち香港特別行政区の発行するパスポートを持つ者とは限らない。香港政府が香港居民という用語を用いるとき、それは香港で合法的に在住している(訪問者は除く)全ての人を指す。永住権を有するかどうか、中国国籍を持っているかは関係ない。香港の居住者であれば国籍は日本でも空港で「香港居民」の列に並んで入国審査を受けることになる。合法的な在留許可が確認できる香港IDさえあれば、仮にパスポートの有効期限が切れていようと⾹港に⼊境することは実務上は可能だ。

 香港政府はダイヤモンド・プリンセス号に搭乗していた香港居民は360人ほどいて、そのうちおよそ100人が香港パスポート以外を持つ香港居民だったと発表している。彼らの中にはチャーター機に搭乗した人もいるだろう。香港政府が派遣した武漢へのチャーター機には、中国本土出身で香港の永住権を有しない米国籍学生も搭乗していることを私は確認している。中国大使館が保護すべきと考えている「自国民」と香港政府が保護すべきだと考えている「香港居民」にはズレがあるが、実務上は香港政府による「香港居民」の枠組みが用いられている。

 関与の度合いは分からないが、人民日報海外版の記事からも今回のチャーター機の派遣には中央政府側が関わっていることが確実だ。「二制度」の下、主権国家に近い実務を行いながらも、最後は「一国」の一部でなければならないという香港統治の複雑さが、緊急事態において浮き彫りになったと言えそうだ。