吹き抜ける風に梢が揺れ、それに合わせて木漏れ日が不規則な模様を肌に浮ばせる。
葉がこすれ合うザワザワという音と自分が下生えを踏む音に包まれながら、山道から離れた細道を進む。
いくらか進むと突然視界が開け、林の中の薄暗さに慣れた目を沈みかけた西日が差す。
そして、オレンジ色に染まった視界の中に伸びる一つの黒い影。
下生えを踏む音に気付いたのか、影の主はこちらを振り向いた。
それは、年の頃十歳前後の少年だった。半分だけ日に照らされもう半分が影に沈んだ顔は、可愛らしいというよりどこか妖しかった。
無邪気な笑顔を浮かべた少年は口を開く。
「こんにちは」
しかし、直後に首をかしげる。
「あれ? こんばんは、の方が良いのかな? 夕方ってどっちの方が正しいんですかね」
急に声をかけられ少し驚いたが、そういう子なんだろうと理解し、こちらも笑顔で答える。
「どっちでも良いと思うよ」
「じゃあ、こんにちは、で」
「はい、こんにちは」
挨拶を交わすと少年は再び前を向いた。
こんな所で会うのも何かの縁だと思い、少年の隣まで進んで、古い木の柵に寄りかかりながら夕焼けに染まる街を見下ろす。
建物の色に夕日の色が合わさり昼間とはまるで違うカラフルな街。流れる川が光を反射してキラキラと輝いている。そして、夜の気配と共に夕闇が合わさり広がっていく。
二人ともただ黙ってその景色に見入っていた。
しばらくして少年が話し掛けてきた。
「それにしても、珍しいですね。ここ、誰も来ない穴場なんですけど」
こちらを見ながら不思議そうに言った少年は更に続けた。
「ここに何か思い入れでもあるんですか?」
少年の質問には答えず、子供特有の中性的な顔を正面から見据える。
「ここってそんなに誰も来ないのか? なかなかの眺めだと思うけど」
質問に質問で返す形になったが、少年は気にした様子もなく答えた。
「この辺出るらしいんです」
そう言って力を抜いた両手を胸元から垂らす。
恐ろしいというより微笑ましい行動に自然と笑顔になる。
「何かそういう噂でもあるの?」
すると少年は後ろを指差した。
小さな指が差す先に視線を向けると、古びた看板が一つ立てられている。
それほど離れているわけではないが、パソコン作業で酷使してきた目ではかすれた文字はよく見えない。
何度か目を細めたりしていると、それに気付いた少年が教えてくれた。
「もし、山で見知らぬ人に話しかけられたら、返事をしないですぐに山を下りてください、って書いてあるんです」
「へぇー。ああいう看板って初めて見たな」
そう言った時、不意に形容しがたい違和感を覚えた。
しかし、少年が話し出すと違和感はは風に吹かれたように一瞬で消えて無くなった。まるで、そんなものが初めから無かったように。
「元々この山で自殺する人が結構居たらしいです。綺麗な景色に惹かれて、日頃の苦しさや辛さが出てきちゃって……ショードーテキ、って言うんですかね」
先程までと違ってどこか悲しげな声に視線を戻すと、少年の目は真っ直ぐ正面に向けられていた。しかし、その目が見ているのは街の景色でも夕焼けでもない。
もっと別の、普段人の目には映らない何か。
「僕みたいな子供が言うのも変ですけど。死んだって何かが変わるわけでもない。ただ、そこで終わりって、だけじゃないですか。なのに、どうして……」
少年の言葉から逃げるように夕日に背を向ける。
東の空は段々と薄暗く夜の色に染まりつつあった。
「それでも、普通の人はおかしいって思うだろうけど。その時、その人には他の選択肢が浮ばなかったんだ。自分を終わりにして逃げるって選択肢しか、な」
そちらを見なくても少年の目がこちらに向けられているのは分かった。
だから、その目を正面から見つめた、吸い込まれそうな澄んだ目を。
「そう、ですよね」
それだけ言って少年は柵に両手をかけながら夕焼けの空に目を向けた。
その隣で同じように夕日を見る。
再び見た夕日は更に沈んでいて、西の空も段々とその色を変えつつあった。
「僕は、くもなんです」
「くも?」
呟くような声に聞き返すと少年はそっと頷いた。
そして、徐に真上を見上げた少年の視線を追う。
そこには夕焼けのオレンジと、薄暗い青が混ざり合った空に浮ぶ無数の鱗雲。
「お日様が出ているときしか見えなくて、お日様が照らしているものしか見ようとしない、あなたみたいにお日様の当たらない、影の中で消えていく人に見向きもしない。卑怯なくもです」
視線を下ろすと少年は手が白く変色するほど強く柵を握りしめていた。
その小さな手にそっと自分の手を重ねる。
すると、少年は力を抜きこちらに初めて会った時と同じ笑顔を向けた。
「あなたの手はやっぱり僕のより断然大きいですね。大きくて、暖かくて」
そこで一旦区切ると少年は重ねた手に目を落とす。
「僕の手が透けて見えます」
笑顔を浮かべながら、少年の前にしゃがんで目線を合わせる。
少年は消えかかった右手をその小さな両手で包んでくれた。
「やっぱり、あなたも、なんですね」
「うん」
悲しげな表情を浮かべた少年の頬に空いた左手を添える。
「僕は結局、あなたにも、何もしてあげられなかった」
少年の目を見据えながらはっきりと首を横に振った。
「人にとって一番辛いのは、苦しい時や悲しい時に頼れる人が一人も居ないことだと、俺は思う。だから、俺みたいな奴にとって最後に君みたいな子に会えたのは、これ以上ない程幸せな事だ」
少年は涙を流しながら、何度も何度も首を横に振る。
「でも……それでも、死んでからじゃ、なんの意味も無いよ」
「そんな事ない。一人ぼっちで死んで、そのまま消えていくはずだった俺にとって、君と一緒に夕日を見た時間は最高の贈り物だった」
日が沈むにつれ、身体はどんどん透けていく。触れる手の感覚がゆっくりと薄れ、それに合わせて意識もどこか遠い場所に引っ張られる。
「時間、ですか?」
「みたいだね」
「ごめんなさい。僕……」
俯いて涙をこぼす少年の顔を消えかかった左手で持ち上げ、涙を湛えた瞳を見つめながら言う。
「それじゃあ、最後に笑顔で俺を見送ってくれないか? どうせなら笑顔で見送られたいんだ」
すると少年は何度も頷きながら、強く、強く腕で顔を拭った。
そして、顔を上げると、少し泣き笑いの様ではあるが、きっと少年の中では一番なのだろう笑顔を見せた。
「ありがとう。さよなら」
そっと目を閉じ、引かれるままに意識を手放す。
肉体の感覚が消えゆく中で少年の「ごめんなさい」という声が響いた。
日が沈み、山全体が黒く染まった頃、林の中を二つの光があの広場に向けて進んできた。
「ねぇマイ、本当にここにユウタが居るの?」
「分かんないよ。お店の人が山の方に行くのを見たってだけなんだから。それに取り敢えず行ってみよう、って言ったのはアミでしょ」
それは二人組の女性だった。
一方は動きやすそうな服装だが、もう一方はいわゆるおしゃれな服装だ。
「もう、虫多いし、歩きにくいし最悪なんだけど」
「そんな格好で来るからよ」
二人は広場に出ると辺りを懐中電灯で照らした。広場には隅に立てられた看板と所々朽ちたボロボロの柵のほか、人の影も形もない。
「誰も居ないじゃん」
「だね」
そこでアミがこれ見よがしに大きなため息を吐いた。
「もーここまで来て無駄足とかマジでないわー。マイー、もう暗いしさっさと帰ろう」
「はいはい、分かったわよ。じゃあ、車に戻ろう」
「どうして居なくなったのか知っていて目を背ける者と、知っているからこそ探す者。相手が死ぬ前と後で結びつきの強さが変わってしまうのは何とも皮肉なものです」
林の中を進む光を見送る二つの澄んだ瞳。
それは木々の枝と同じ高さに合った。もし、この光景を見れる者が居たなら、まるで純白の糸の上に立つ少年の姿が見えたことだろう。
「あなたには悪いと思います。でも、僕たちはより縁の結びつきが強い方を求めてしまうんです。だって、そうすれば、少しだけ寂しさが紛れるから」
暗闇の中、少年はその小さな手をマイに向けると何度も手招きする。
「こんな事しちゃいけないって分かってるんです。それでも、どうしようもないんです。だって、寂しくて苦しくて、他にどうすることも出来ないんだから」
そして、少年は語りかけ始める。
「だから、だから、だからね、おいでおいで、こっちにおいで。僕らの所に、僕らとずっとずっとずっとずっとずっとずっと、一緒一緒一緒ににに、居よ、居て、居ろ、居なよ」
少年の、少女の、老人の、男の、女の。
無数の声は風となり木々を揺らす。
まるで、どこかへ誘おうとするように。