では、皆様終点に着くまでゆっくりおくつろぎください。
とはいえ、この路線には見ていて面白い物も有りませんかね。
宜しければ私が少々語り手の真似事でもさせて頂きましょう。
興味の無い方はそのまま外をご覧になっていてください。
ただ……くれぐれも引っ張られないでくださいね。
連れ戻す術は有りませんので
塾からの帰り道、いつもと同じ住宅地、いつもと同じ時間帯であるにも拘らず、言いようのない違和感を覚えた。
しばらく進むと、違和感がよりはっきりした形を持つようになる。
それは、足音だ。
時折、自分の足音が僅かにずれるのだ。ほんの一瞬だが、一瞬であるが故に目立って感じられる。
普通、他人とこんなに足音の鳴るタイミングが合うことはまず無い。
あり得るとしたら、後ろの人物は接近を気付かれたくないということ。
そこで、敢えて曲がり角を全て左方向に曲がるが、何度同じ道を通っても、僅かな足音のずれは消えない。
何度目かの左折の際に曲がり角のカーブミラーを窺うと、街灯に照らし出された黒い靴が見えた。
そして、次のカーブミラーでは膝上までが、さらにその次のカーブミラーでは腰が。
胸の辺りが見えた瞬間に歩調を一気に早めた。
ほぼ、駆け足の速度で歩きながら、この後の行動を必死に考えるが、残念ながらこの辺りは、コンビニもスーパーも無い閑静な住宅街で、この時間帯は人通りはおろか、車通りも無いに等しい。どこかの家に助けを求めようにも、誰かが出てくる前に追いつかれるのが関の山だろう。
そう考えていた時、ふと、どれぐらい距離を開けたのか気になり、後ろを振り向こうとした。
しかし、カーブミラーを見はしなかった。
何故なら、自分の足下が後ろから伸びてきた黒い影にすっぽりと覆われていたのだ。
振り返ると街灯の明かりを背負った人物が立っていた。
その人物は、目の辺りをメッシュ生地に覆われたマスクを被り、その手に刃渡り四十センチはあろうかというククリナイフを握っている。
あまりに異様な姿に呆気にとられていると、目の前の人物の口元が光った。
よく見るとそれは家から漏れる灯りを反射したファスナーの口だった。
そして、本来動かない筈の閉じたファスナーが僅かに歪む。
象るのは笑み。
イタズラを楽しむ、子供のようなそれ。
目元のメッシュ生地の奥から覗く瞳には敵意や、悪意といったマイナスの感情は見られない。
そんな物より遙かに原始的でおぞましく、受け入れ難い、暗い欲望を宿していた。
殺される。
理屈など一切無しに、ただ生き物としての本能がそう叫んだ。
咄嗟に脇目も振らず、走り出す。
曲がり角をでたらめに曲がり、無我夢中に走り続ける。
息が切れ、疲労が教科書や参考書を入れた鞄と共に重くのし掛かる。
こんな物さっさと投げ捨ててしまいたいが鞄の中には携帯が入っていて、無くしたら大変なのは勿論、万が一、奴に拾われるような事になれば、その結果は悲惨という言葉では語り尽くせないほどだろう。
住所がばれたら今回逃げおおせたとしても次は自分の家に直接やって来るかも知れない。
立ち止まって携帯だけ抜き取ろうにも、自分の荒い息に混じってこちらに早足程度の間隔で近づいてくる足音が聞こえるため、疲れた体に鞭打って走るしかない。
どれ程全速力で走っても、何度曲がり角を曲がっても、確実に追いかけてくる。
しばらくして、限界が近づき、息をするのも苦しくなってきた時、視界の中に公園を見つけた。
誰も居ない公園はひどく不気味な印象を抱かせるが、差し迫った危険を前に些細なことだ。
隠れられる場所を探すが、遊具は目立つし、茂みなども隠れるには小さすぎる。仕方なく公衆トイレの個室に隠れ、深呼吸をして息を整える。
少し余裕ができて、公衆トイレ特有の悪臭に辟易していると、ゆっくりと近づいてくる奴の足音が聞こえた。
気付かれないように、慌てて息を殺す。
床に敷かれたタイルを踏む音に続いて、隣の個室を開く音が聞こえる。
片方の手でリズムを刻みそうになる口を必死に抑え、もう片方の手で、少しでも自分を隠そうとするかのように、その身を抱きしめる。
その時、バイクか何かの爆音と共にひらめきが舞い降りた。
便器を足場にタンクの上に登り、壁を越えて隣の、既に一度、殺人鬼が確認した個室に移動し、開いたドアと壁の隙間に隠れる。
先程まで居た個室の扉が開く音が聞こえ、すぐに個室を後にする音が――聞こえない。
物音というものが一切聞こえてこない。
静寂の中、自分の心臓の音が、やけに耳に付く。
心音が奴に聞こえないよう、自分を強く、強く抱きしめる。
数秒が数十分にも感じられる時間の後、靴が床のタイルを叩く音が聞こえ、外の土を踏む音がだんだん遠ざかっていく。
再び静寂が訪れた事に、安堵の息をついた。
その時、鞄の中で、公園に入ってから存在そのものを完全に忘れていた物が突然、震える。
慌てて取りだした携帯の画面には『母 携帯』と、書かれており、迷わず通話ボタンを押す。
「あんた、どこに居るの? 遅れるならちゃんと連絡しなさい」
電話の向こうからはテレビの音と、母が料理をしているのであろう音が聞こえ、言葉に出来ない安心感が溢れ出る。
「お母さん。悪いけど、迎えに来てもらえない?」
「どうしたの? 何かあったの?」
「お願い。お願いだから来て欲しいんだ」
こちらのあまりにも真剣な態度に、若干気圧される様にして母は了承した。
「別に構わないけど……。それで、今どの辺に居るの?」
そう言われ、逃げる最中に見た景色を思い出し、もつれそうになる舌で、どうにか自分の居る場所を伝える。
「分かったわ。すぐ行くから待ってなさい」
通話を終え、また静けさが帰ってくるが、もはや、怯えは無く、安心感に包まれていた。
落ち着いたところで、再び携帯に視線を落とした。
警察。という言葉が頭をよぎるが、もう余り大事にしたくないという思いと、何より下手なことをして奴を刺激する事にならないかという不安から、携帯をポケットに戻した。
しばらくして、外から聞き覚えのある声が、自分の名前を呼んだ。
安堵すると共に、今まで隠れていた個室から出た。
トイレの照明が届く範囲に母の姿は見えないが、未だ自分を呼ぶ声は聞こえるし、目を凝らせば、公衆トイレから少し離れた辺りに人影が見える。
近付いてみると、やはり母親で、見慣れているはずの母の顔に安心して、涙腺が緩みそうになる。
「急にごめん、実は」
そこで、母の様子がおかしいことに気付き、言葉が途切れる。
それほど気温が高いわけでもないのに額に汗を浮かべ、視線は激しく揺れて、こちらを見ていない。
「どうしたの?」
そう言うと、ようやく母がこちらに視線を向け、口を開き―――。
ドスッ。
生まれてから一度も聞いたことのない音と共に、辺りに鉄の匂いが漂う。
「えっ」
音の出所、母の胸元を見ると、そこからは数十センチの黒い金属が生えていた。
「えっ」
何が起こっているのか理解出来ない。
何故母の胸から金属が生えているのか、何故母が血を流しながら倒れていくのか、何故自分の腕を誰かが掴んでいるのか。
「キヒヒヒヒ。可哀想、可哀想。自分が助かりたいが為に子供を差し出す親を持って可哀想」
母の背後から奴が現れ、口元が最初に見た時より大きく歪む。
その右手には血塗れのククリナイフを持ち、左手はこちらの右腕をしっかりと掴んでいる。
その亀裂のような笑みと、嘲るかのような口調が急速に心身を凍りつかせた。
そして否応無く理解する。
自分はずっと奴に踊らされていた。
奴は恐怖と安堵という二本の操り糸を用いて、獲物が絶望し、生きることを諦める瞬間をずっと待っていたのだ。
「それじゃ、可哀想な君ともお別れ。バイバイ」
ザクッ。
果物を切るような音が鳴り、瞬く間に体内の熱が首元から流失する。
痛みは無く、ただ自分の内側から何かが漏れ出しているような感覚を味わう。
既に足に力は入っておらず、自力で立っていられないが、奴――殺人鬼が胸倉を掴んでいる為に崩れ落ちることはない。
そして、殺人鬼は先程以上に血塗れになったククリナイフを振り上げ、叩きつけてくる。
今度はバキッという、骨がへし折れる音が鳴り、視界が真っ暗になって、何も感じなくなった。
――――――――――
荒い息をしながら飛び起きる。
まるで、先程まで溺れていたかのように空気を貪り、辺りを見回す。
寝ている間に電源の切れたテレビ、午前4時を指すアナログ時計、いつもと何ら変わりない部屋。
いつも通りの光景に落ち着きを取り戻しながら、呼吸を安定させ。
首に手をやると汗でじっとりと濡れていた。
その時、哀愁漂うメロディーが聞こえ、音の出所を探すと、ソファーの足下に落ちたポータブルゲーム機の液晶画面に『GAME OVER』と書かれているのを見つけた。
緩慢な動きでゲーム機を拾い、電源を切る。
深呼吸を一つして、ソファーから立ち上がると、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、テレビの電源を点ける。
ペットボトルの水を飲みながら、ザッピングするが、面白そうな番組は見つからず、すぐに消してしまう。
その時ふと服が帰ってきた時のままであることを思い出し、湯船にお湯を溜めようと浴室に向かう。
お湯が溜まるのを待つ間、適当にパソコンを開いて時間を潰す。
ネットニュースを見ていると『公園のトイレで親子の死体見つかる』という、記事を見つけた。
詳しく見てみようかと思ったが、ちょうど湯船にお湯が溜まったので辞めておく。
そして、浴室に向かっている時には既に、先程見たネットニュースの事は頭から抜け落ちていた。
脱衣所で服を脱ぐと洗濯機には入れず、洗面台に置く。
置かれた服には所々、黒い生地の中に赤黒い点が付いていた。
服に付いてしまったシミを見、後で洗うときのことを考え、ため息が出る。
「人の痛みが分かる人間に成りなさい。っねぇ、なったらなったで、いろいろ大変だって、あの人達には分からなかったのかな」
うんざりした様な物言いに対して、鏡に映る顔には感情らしい物が、一切浮かんでいない。
「段取りやら、片付けやら、本当に面倒」
だが、無表情の顔をタオルに包まれたククリナイフに向けた時、起きてから一度も動かなかった顔が初めて喜悦に歪む。
「まぁいっか。楽しいし」
その顔はまるで、まだまだ遊び足りない子供の様な無邪気な物だった。