長いので分けた
明治~太平洋戦争の「挺身隊」用例(2)
まず朝鮮半島での用例を紹介したブログがある
以下はこちらで拾った用例の紹介。まず大まかに分類すると
以下用例一覧。
まず神戸大学の新聞記事文庫から。ここは経済関係が主なので用例に偏りがあるが、取りあえず当時はいわば何でもかんでも挺身隊と呼んでいたらしいことが分かる。
次はアジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp
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その他
明治~太平洋戦争の「挺身隊」用例(2)
まず朝鮮半島での用例を紹介したブログがある
「挺身隊」という用語が使用され始めたのは、1940年11月13日付け『毎日新報』に「農村挺身隊」の結成が報じられた記事のようである*6。また「挺身隊」は、「婦人農業挺身隊」、医師や看護婦を対象にした「仁術報国の挺身隊」、「漁業挺身隊」、文化、商工、報道、運輸、金融、産業などの32団体で結成されたという「半島功報挺身隊」というふうに、女性動員を含む、さまざまな人的動員に対して用いられていた*7
*6:余舜珠「日帝末期の朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究」2頁
*7:『毎日新報』1941年3月4日、9月18日、1942年3月19日、1944年1月26日。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080820/p1
(1)正式な組織名と見られるもの特に注目すべきなのは「内閣情報局編輯 写真週報 第206号」の用例で、開戦直後の昭和17年2月=1942年の段階で既に「女子挺身隊」「陸軍女子挺身隊」と書かれていることである。しかも原文で「陸軍女子挺身隊」とかぎカッコをつけてあるということは、どうやらこれが正式名称だった可能性がある。法律に基づく勤労動員としての女性挺身隊は1944年だか43年だかだそうだが、既にそれ以前から「女子挺身隊」の用語を当局は用いていたことになる。
軍・・・
(例)中村兵団岡本支隊挺身隊(1940)
第四十六師団特設挺身隊(1944年編成)
軍以外の公的組織・・・
(例)島根縣靑年勤勞挺身隊(1939)
食糧増産挺身隊設置要綱(静岡県、1941)
東京都配給挺身隊要綱(1944)
私的組織・・・
(例)救国埼玉挺身隊事件(1933年検挙)
國粹大衆黨挺身隊(1933創立)
神戸労働団体が前衛隊を結成名を『挺身隊』(1935)
(2)正式名称ではないが、組織・個人の特性から筆者が独自に呼んだと思われるもの
軍・・・
(例)独挺身隊米本土に潜入(1942)
渡邊部隊朝井小隊のオートバイ挺身隊(1942)
海の挺身隊“掃海艇”(1943)
軍以外・・・
(例)貿易新日本の挺身隊(1933)
われらは銃後の挺身隊(1938)
南方建設の挺身隊(1942)
以下用例一覧。
まず神戸大学の新聞記事文庫から。ここは経済関係が主なので用例に偏りがあるが、取りあえず当時はいわば何でもかんでも挺身隊と呼んでいたらしいことが分かる。
大阪時事新報 1922.4.23-1922.5.11(大正11)張作霖 (一〜十六)南極抄訳日本軍の別働隊扨ていよいよ日露の戦争が始まった。露軍は張作霖の仲間を此戦争に充分利用する積りで益益其歓心を結ぶことに力を用い兵器軍資金等を潤沢に供給したが、差当りこの用い所は、戦線ではなくて、後方に於ける輜重の任務であった。ソシテ輜重の中でも、張の担当したのは糧食で、馮は兵器弾薬の方面に任じた。此際張馮の両人は自ら露軍に加わったが、山寒の留守は湯玉麟(最初の頭領)に引受けさせ何時でも必要の場合には、茲へ立籠り得る丈けの準備をして置いた。斯くて開戦以来、当分の間は至極慎妙に働いて居たので露軍も益々彼等を信用し、充分に心を許すことと為った。其様子を見済ました張は、愈々復讎の時機が近づいたと北叟笑んだ軈て遼陽の戦争が間近になった頃、張は窃に馮湯の両人と諜し合せ、湯をして山寒に在る部下を率い、他方面の馬賊の如く扮装させて露軍の輜重を襲撃せしめた、此時、張馮の両人は最初の間は、力を尽して之を防禦するの風を見せて居たが軈て互の合図があるや否や攻める者守る者俄に一団となった或は焼き、或は奪い、露軍の輜重隊をサンザンの目に会せて、トウトウ古巣の索倫山に遁帰った。此一挙は遼陽に於ける日露の際鋭い勝敗に、幾分の影響があったかも知れぬのである。斯く再び露軍の敵と為った張は、今度は日本軍の見方となるべき手段に取掛り、遂に其目的を達して、日本軍の別働隊となり、蒙古の地域に進出して、我挺身隊を助けた功労は少くなかった様子である神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10086821&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
大阪朝日新聞 1933.8.13-1933.9.3(昭和8)報道権本社独占熱河探検記(1)凌源に着いた翌十三日、地層学古生物班の一行は、郊外三里の王家店にある有名な魚類の化石採集地に向った。この日、土地の憲兵隊、領事館関係者および工兵隊の参加を得て、一行三十余名は乗馬隊を組織し、慓悍な蒙古馬の馬首をつらねて山野を横断して進んだ光景は、さながら学術の挺身隊が科学の戦線に乗り出す颯爽たる行軍であった。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00464243&TYPE=HTML_FILE&POS=1
大阪毎日新聞 1933.9.8(昭和8)貿易新日本の挺身隊勇躍英商権の牙城へアフリカ旅商班・元気よく…花やかな榛名丸の出帆
大阪朝日新聞 1933.10.23(昭和8)なお斯の如く我に活路あり貿易打開の新天地を求めてわが社中南米講演会或は三井、三菱、鐘紡などがこの地方に経済挺身隊を派し、或は商工省が中南米貿易会社の設立を計画し、彼地よりもまたブラジル、アルゼンチン、ウルガイ等の経済使節派遣ありしはまさにこの花々しき将来への前奏曲と見るべきである
大阪時事新報 1933.11.28-1933.12.7(昭和8)誂え向の大連 一衣帯水の北支へ条件すべて“O・K”ジャンク貿易前者が半永久的な性質のもので合法性をもつだけに極めて遅々たる歩みを運ぶに反して、後者は一時的なもので而も非合法的であるだけに極めて敏捷で従って多分に冒険味を帯びている、ここに貿易「挺身隊」なる面目を保持するわけであるが、この好個の例を最近大連を中心とせる北支向けのジャンク貿易に見る ・・・自由港大連からの一衣帯水の渤海湾は平穏な海として小型船の航走には誂え向きと来ている、斯く条件が具備されては「海の挺身隊」も躍り出さざるを得ない
報知新聞 1934.2.17-1934.2.18(昭和9)三段階を経て販路いよいよ拡大新市場躍進の帽子輸出ラッシュの大潮に乗って、各国の悲鳴と共に高まる関税壁を越え、襲いくる通商危機の嵐の中を敢然我輸出雑貨の挺身隊としての帽子はどうその行進曲を奏でるかだが帽子は何といっても舶来品という通念からイタリア品、米国品、英国品更にヴェロアの帽子として光るチェッコ品等――まず輸入陣営を一べつする必要があろう、
大阪時事新報 1934.6.23(昭和9)メイドインニッポンの旗風に報恩商工移民を養成
神戸新聞 1935.2.26(昭和10)ボルネオの処女密林めざし伐材挺身隊出発木材々料飢饉のわが国業界へ期待さる活躍!斧鉞を知らぬ千古の処女密林を目指して伐材挺身隊が二十五日午後四時神戸出帆のパンドン丸で出発した目的地は欝蒼たる原始森が全島を覆い木材の宝庫と言われる蘭領ボルネオ島、一行は東京麹町区南洋林業株式会社から選抜された小樽市山野井貫作氏ほか伐材のエキスパート四十名
神戸新聞 1935.3.29(昭和10)神戸労働団体が前衛隊を結成名を『挺身隊』、隊長に前田平一氏四月三日結団、分列式を世界に漲るファッショ熱にさきに日本労働組合神戸地方協議会の総会席上で神戸地方の労働団体にもヒットラーの突撃隊やムッソリニーの黒シャツ隊に等しい前衛隊を組織することを決定したがいよいよその準備が整ったので名も『挺身隊』と命名、各加盟団体より二名ずつの組合員を選抜し全員百名を以て組織、服装はレニーン帽に鼠色服を着し服の左胸部に白く、『髑髏』を現した神戸で最初のファッショ隊を編成することになった この隊長には総同盟の前田平一氏が初代の隊長に任命され、来る四月三日神戸東遊園地で勢揃いして勇壮な分列式を行い旺んな結団式を挙げると
大阪朝日新聞 1935.9.25(昭和10)日本酒の国際商品化 冷用酒の進出風味、濃度の二大欠点解消阪大工学部で本格的試験まず冷凍処理を試み新しい方法の下に酒内の水分を凍らしめて除去し濃度を三十パーセントに高めることに成功した従って火落菌の繁殖も防げ生のままのお酒でも長く貯蔵し得ることになったので売物に花飾れの建前から飲用後は一輪插に利用出来る陶器製の容器を調整しこれに一合入二合入の二種類を詰め込んで販路開拓の挺身隊を送り出したものである
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00059532&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
神戸新聞 1936.1.1(昭和11)築く黄金塔の人柱伸びる貿易日本の触角港都"こうべ"から新春へ贈る男性的意気のお年玉新市場の探求と開拓とその育成確保に網の目の如く張られた我が貿易神経の尖端に立って活躍す貿易挺身隊の任務は蓋し充分の男らしさと責任の重大があろう。・・・輸出組合の輸出人組合への転化発展はそのトップを切った南米輸出組合を初め近来益々発展の傾向を示し輸出組合の国際経済政策への参与を表現するものとして消極的ではあるが貿易挺身隊の兵站部的役割を演じつつあるのが注意される。・・・近年神戸に関係あるものでも県当局主催の南洋見本市団の外最近帰神した兵庫県及び兵庫県輸出組合協会共同主催の中南支巡回見本市等総ては到る処メイド・イン・ジャパンの発展飛躍に献身する我が貿易挺身隊の努力の跡を歴史づけるものである。
報知新聞 1936.3.6(昭和11)叛乱軍の背後に民間側の首謀者四名先ず収容さる渋川善助略歴渋川善助(三二)は小石川区水道端直心道場の幹部、福島県若松市魚問屋渋川株式会社社長利吉氏の長男、会津中学から幼年学校へ入学同校を二番で卒業し恩賜の銀時計を拝受、陸士に入学、若松連隊付となったが急進的国家主義思想を抱くに至ったため本科二年の時退学を命ぜられた、後明大法科に入り卒業後興亜学塾、啓天塾等の右翼団体に関係し現在は右翼雑誌出版所核心社の同人である、かつて埼玉県川越に起った鈴木政友会総裁暗殺計画をした埼玉挺身隊事件で一時取調べを受けたことがある、光佑と号して日蓮宗の信者道場では『和尚さん』と呼んで親しまれていた、絹子夫人(二三)は語る主人は無口で直情の人です、一貫して維新運動に没頭して居ります、二月二十七日朝黒の背広、オーバーを着『ちょっと出かける』と出たままです
大阪朝日新聞 1936.3.13(昭和11)八結社を暴く恐るべきその内容治安警察法第八条第二項の適用をうけて、遂に結社禁止を命ぜられいよいよ解散の最後的運命にまで逢着した皇道大本をはじめ同教八団体の全貌を図示すると次のようになっている・・・皇道大本の総統王仁三郎を首班として十数名の総務級の最高幹部がかれらのいわゆる「重臣ブロック」を組織し、これが不敬大本のあらゆる思想行動の策源地てあった、皇道大本の前衛隊ともいうべきものに昭和九年七月に創立された昭和神聖会があり、王仁三郎が総裁、出口宇智磨が会長となっているが、これには信者以外の各方面の名士らを多数、顧問などの役員に推し、会員総数数百万と号しており「国粋武道普及を目的とする」と称する大日本武道宣揚会とともに大本の外廓団体として右翼思想をカムフラージュしながら勢力伸張に力を注いでいたものである、その下に出口日出磨を総裁に、同宇智磨を会長とする昭和青年会がある、これは十五歳以上の男子をもって組織され、軍事教練を施して厳正なる紀律の下に訓練し十五歳以下の少年は昭和少年隊に編成し青年会と同様の訓練を行っていた、この昭和青年会の会員中の精鋭をすぐって日光班月光班、星光班の非合法挺身隊が秘かに組織され、一朝有事の際にそなえているのだと称していた、
中外商業新報 1936.4.2-1936.4.3(昭和11)農家経済の自給化へ!おらが村の躍進万全の基礎計画と之を実行の挺身隊 生れ更った武川村山梨県実行挺身隊経済史生計画の実行は単なる一時的の興奮ではなく永年に亘ってその成功を期すべきものだから実行力のある青年会の中堅人物を選りすぐり実行挺身隊を組織し堅実なる実行の達成に努力を続けている(つづく)
大阪毎日新聞 1936.4.7(昭和11)躍進の波を蹴る南への定期船陣”太平洋制覇”へ拡充される各社の南方航路一方暗礁に乗り上げた日蘭海運会議の暗雲の中に早くもしびれを切らした強硬派の石原産業側では南洋確保の意気物凄く、かねての声明通り「南洋航路会社」を新設、六隻の挺身隊を月二回配船、いよいよ四月から戦いの火蓋を切ることになった、
大阪毎日新聞 1936.4.20(昭和11)悲壮な末路和するも戦うも弱小国の苦杯前アディス・アベバ本社特派員 庄子勇之助グラチアーニ将軍の率いる本部隊はアディス・アベバへとこれら七八万の兵隊は刻々と肉薄している、また北軍はダナキル沙漠を越えてダルバラバ・タートに、中央主力部隊は東阿遠征軍総司令官バドリオ将軍とともにデッシェに、さらにタナ湖畔東岸中央クテッセモアに、或はスーダンとの国境ガラバット等に約十八万の兵をもって前進を続けている、そして北軍快速挺身隊は早くもデッシェを進発、アディス・アベバに一番乗をしようと進軍を急いでいる
報知新聞 1936.6.8(昭和11)満洲農業移民の現況屡々匪賊と交戦し血で築いた新天地"種蒔く挺身隊"を観よ
大阪毎日新聞 1936.7.7(昭和11)叛乱軍の元将校ら十七名に死刑を宣告す元少尉五名には無期禁錮下士官兵の殆んどは執行猶予渋川善助(三一)本籍福島県若松市七日町六一住所東京市小石川区水道端二ノ六四直心道場内本籍地居住魚問屋渋川株式会社々長利吉氏の長男に生れ、大正十五年三月会津中学四年より陸士入学、同予科を卒え若松歩二十九に士官候補生として勤務中、上官と国家革新論で衝突さらに本科二年に進んだがついに退校処分となり後明大法科に学び卒業後興亜学塾、啓天塾若松市労働農民党等に関係、また右翼雑誌出版核心社の同人となり早くから現役将校その他の右翼思想家と交際し埼玉挺身隊事件に関係して取調べを受けまた昭和九年青山高樹町郵便局ギャング一味にピストルを与えて起訴されその後保釈中のものであった、小石川の自宅には絹子夫人(二三)がある工兵二等兵水上源一(二九)昭和九年春日本大学法学部卒業以来救国学生同盟を組織し栗原安秀元中尉などの指揮の下に郷軍同志会を計画自ら東京支部代表をやったことあり本籍は北海道北瀬棚郡瀬棚村、先年救国埼玉挺身隊を組織しいわゆる埼玉挺身隊事件に関係した
東京日日新聞 1936.9.20(昭和11)貿易戦・挺身隊財閥資本に圧迫さる
報知新聞 1936.10.13(昭和11)共産党の指導下に躍る支奈の抗日人民戦線従来、日本においては排日の中心として、国民党部内の藍衣社、陳果夫、陳立夫兄弟に率いられるCC団等が重視されているが、CC団の如きは、明かに支那のファッショであり、その指導理論といわれる『唯生論』を見ても、また所属団員が多く浙江系の国民党員であるところから推しても、むしろ蒋介石の御用挺身隊と見るのが当っている、
神戸又新日報 1937.1.15(昭和12)小売商の挺身隊横の百貨店二月一日に店開き百貨店対小売店の深刻な抗争も現下の経済機構の下では所詮鉾を収めそうにもなく益々熾烈となり随所に各形態を作りながら喰うか喰われるかの血みどろの戦いも酣だ茲に又しても強敵百貨店の堅塁めざす小売店の挺身隊が"東洋百貨サービス"と銘打って雄々しくもデビューした、これは全市一流の加盟店百三十の商店が株主となって共同出資によって設立されたもので一丸となってサラリーマン層をねらい下は第三階級に至るまでの所謂大衆層に広く喰い入らんとして居り百貨店側でもこの"横の百貨店"の出現には面喰らっている
内閣情報部編「写真週報」昭和13年4月6日号
江南に進む鉄道挺身隊
・・・かく戦火の拡大すると共に、大量の作戦資材を円滑迅速に補給する為鉄道輸送の必要を痛感した軍当局は、鉄道省に対して機関車、貨車、線路復旧材料及び之等車輌の組立、線路の復旧、並に輸送担当の職員を現地に派遣するやう要請され、先づ第一班の車両組立員○○名は急遽上海に向ひ、廃墟の 呉淞工場に立て籠り、携行した機械を据付けて解体車輌の到着を待ち、内地鉄道工場で徹夜で作業された国産車輌が御用船で入港すると共に、直ちに荷卸して之を組立て、十二月五日には戦後第一○目の皇国機関車が江南大平原の一角に勇ましい汽笛を響かせて、呉淞、上海北停車場の間を走ったのである。(後略)
アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード A06031060300(4枚目)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006061520104856315
神戸新聞 1938.1.23-1938.2.16(昭和13)問い (一~八・十~十五・十七~二十一)一、本年貿易の予想二、輸出振興の対策三、その他貿易に関する一切の意見(二) 机の上の商売は昔 今は貿易挺身隊 外人委せでは日貨排斥が起る大同貿易専務 宮崎彦一郎氏
大阪毎日新聞 1938.3.20(昭和13)樹木にも統制の手欅・樟等の戸籍調べ営林局は大木保存のため専売局は樟脳政策から十九日同専売局に植林の権威者三十名が集合第一回の打合せ会を開き具体的調査方針を協議いよいよ近く大竹局長を隊長に樟国勢調査の挺身隊を組織、わらじ履き姿で紀泉アルプスに入り調査の第一歩を踏出すこととなった、
大阪毎日新聞 1939.8.3-1939.8.14(昭和14)忠霊塔物語 (1〜3・[4]・5〜12)陸軍兵務局長陸軍少将 中村明人清朝離宮の所在地として、また湯玉麟が一世の豪華を極めた承徳は三月四日午後三時、西第八師団下の雷名を轟かした川原挺身隊の怒濤の進撃の前に、あっけなく陥ちた
大阪毎日新聞 1939.8.11(昭和14)商都から貿易挺身隊濠洲、印度、アフリカへ制覇工作世界列強が貿易争霸戦を展開する濠洲、インド、アフリカの市場へ、商都大阪から貿易挺身隊が出動することになった―大阪の貿易業者をうって一丸とする大阪輸出協会では十日正午から北浜野田屋で役員会を開催、大阪市の森下助役伊東産業部長、古久保貿易課長、業者側から大阪商議副会頭中山太一、上山勘太郎、安住伊三郎、三川仁三郎の諸氏、および田島府立貿易館長らが出席、聖戦下における大阪商品の海外躍進案につき種々協議した結果、貿易挺身隊の派遣その他の事業を決定した貿易挺身隊派遣 これは大阪市後援の下に約一万四千円の予算で優秀な業界の青年を濠洲班、インド班、東アフリカ班の三班に分って派遣するもので、それぞれ輸出協会加入の業者の委託した商品を□行して各地市場に進軍、商品宣伝、販路拡張取引代弁ならびに市場調査に三ヶ月前後で歴訪、大阪商品制□の工作を行うことになっている
大阪朝日新聞 1939.8.22(昭和14)新しき“鉄の都”通化満洲の宝庫東辺道を視る列車ごと押し寄せる苦力の奔流 まさに驚異、この埋蔵量しかしながら残存するこれら匪賊こそ最も優秀な装備を有する楊靖宇を首班とする共匪団が大半で執拗にも開発工作の妨害を繰返そうとするのだ、しばしば東辺道会社のトラックを襲撃、この数日前にも八道溝北方方面でその被害があった、これら悪辣なる匪賊に対し省警の組織する討伐隊および日満軍挺身隊は日夜勇敢なる討伐に従事している、
大阪朝日新聞 1939.9.17-1939.9.23(昭和14)大戦下輸出貿易の展望 (1〜5)しかし大戦が拡大長期化するに従って、交戦国は産業の編成替、輸出生産力の減退を余議なくされ、右の通商関係や商権は次第に崩れわが貿易挺身隊の食い込む余地が生じて来るであろう。
国民新聞 1939.10.24(昭和14)北支の経済開発華北電業の使命重大時事経済の解説事変勃発後今日に至るまで北支の電気事業は東亜電力興業傘下の諸会社と興中公司が受託している軍管理発電所の二つに大別し得る、前者即ち東亜電力興業は去る昭和十一年末東電、東邦、日電、宇治電、大同の所謂五大電力が興中公司と提携して、資本金五百万円で設立したもので、事変後戦線の拡大に伴い幾多の電気挺身隊を送り出して地方の電灯電力事業の復旧に多くの功績を挙げついで昨年四月事業の重要性に鑑み日本の主要電力会社十五社を加えて東亜電力興業と改称して社礎を固め、更に本年二月資本金を三千万円に増資した
大阪毎日新聞 1940.5.3-1940.5.12(昭和15)本社主催地方長官座談会 (1〜8)武井知事(山口) 貯蓄奨励について本県は、昨年の旱害にもめげず、大蔵省の一億六千万円の割当を県の方で二億円に引きあげてその責任額を果たし、今年は二億五千万円やろうと張り切っています、改組後の県の精動運動については挺身隊として二十万の男女青年団を活用しその中心となって動いて貰おうと考えています、
大阪朝日新聞 1940.5.4-1940.5.10(昭和15)地方の要望を聴く 本社主催 地方長官座談会 (1~7)(6) 訓令、通牒では駄目 精動の挺身隊に青年層私の県には長州藩祖毛利元就公以来の百万一心という旗印がある。これを旗印にして旱害克服の挺身隊となって青年が働いたわけです。・・・殊に山口県は幕末維新の際に青年隊というものが勤皇の旗印を翻して各地に蜂起して勤皇の誠を現したわけですが、そういう歴史もあるので、私はこれからも精動運動の挺身隊には青年団を使わなければならぬと考えている。
大阪朝日新聞 1940.6.4(昭和15)岐路に立つ民政近衛総裁実現には"無数の条件"政党の戦時態勢化・新党運動を観る一方久原総裁の提唱には、社大国盟その他の小会派側は積極的に支持協力するの姿勢を示し、反対の党派は置き去りにしても……という気勢を示し、また一方肥田琢司、赤松克磨、亀井貫一郎氏らの新党挺身隊が聖戦貫徹議員連盟をリードし、中島派の奮起を促すとともに、軍部内の意向も久原総裁の提唱に賛成であることが漸次明白となったので、中島派の新党論者も消極的態度を棄てざるを得なくなって来た。
婦人挺身隊
贅沢品の製造がとめられることになり、贅沢を警告する任務が精勤の婦人挺身隊にゆだねられることになった。
この日本で、女の贅沢をひかえさせるために女の挺身隊がいるなどとは、何と情ないことだろう。今の時代に目にあまる贅沢などというものは、つまり女が社会を見ている眼の狭さ、小ささ、愚かしさを語るだけのものだ。ひとの儲ける金を浪費する女の感情のだらしなさが映っている。
素人の女が玄人っぽいまねをするという近頃の一部の傾向も、その機会にあたっているのである。
初出「東京朝日新聞」
1940(昭和15)年6月20、29日号、7月6、13、20日号
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/3180_10843.html
大阪朝日新聞 1940.6.30(昭和15)いざ新生活の創造へ政府が放つ「禁令の巨弾」遊興へ自動車足止め遊覧バス全廃、高い興行ご法度萎縮しないで簡素に、質実に精動の狙いは地域的に大都市中心、対象として上流社会であるが運動方法として婦人団体を動員して都市挺身隊の活動も計画されている、銀座街頭あたりを国禁の贅沢品を大威張りで身につけて歩く人種には本人に侮辱にならぬ程度に挺身隊の婦人連からそっとビラが渡される寸法だ、精動ではこれと同時に簡素健康な新国民生活の確立を期して新生活の具体的目標を掲げて進む方針である(東京)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10055831&TYPE=HTML_FILE&POS=1
大阪朝日新聞 1940.11.9(昭和15)県東亜貿易協会神戸商工会議所南進商業移民も実現昂まる貿易界の関心一方商工会議所東亜課でもこれまでの貿易はただ商品の売捌きのみを目的としていたのに対し、これからは商品とともに人が進出して華僑などとの闘争のうちに確固不動の地盤を築かねばならぬとの建前から"南方貿易挺身隊"を結成して勇ましく繰出そうとの案を立て近く意見書を纏めて各関係方面に檄を飛ばすことになっている
大阪毎日新聞 1940.11.18(昭和15)貿易促進団行くぞ南方へ港都の業者奮起す以上の詳細な分析に基づいて同会議所松生東亜課長は 南洋市場獲得のためには商品とともに人間か繰出し、搾取者を追放して確固たる地盤を築かねばならぬ との見地から十六日の同会議所貿易部会で南方貿易挺身隊の派遣を提唱したところ、満場一致これに賛成し、先遣隊の意味で第一貿易加藤物産その他数会社から優秀な若手貿易業者十数名を選び「南方貿易促進団」を早々に派遣し調査と実地取引にあたらせることになったもので、会議所としてはこれを契機として大阪、名古屋、横浜東京などの各地貿易業者に呼びかけ全日本を打って一丸とする強力な南方貿易挺身隊の結成を目論んでいる
神戸新聞 1941.5.2(昭和16)南進する貿易挺身隊神戸市が仏印に市場開拓の計画東亜共栄圏の確立に伴う南洋貿易の躍進期に備えて興亜の玄関口を占める神戸貿易界では新市場開拓の先駆たらんと準備おさおさ怠りないが、最近中小商工業の転廃業問題に関連して若き貿易業者または店員を以て組織する貿易挺身隊を南方新市場に派遣して貿易国策の第一線に活躍させ、港都貿易進出のパイロットたらしめようという機運が擡頭し、二日午後三時から市参事会室で開かれる神戸市中小商工業時局対策委員会貿易部会で具体案を協議することになった南洋のうち蘭印、泰国は日本の貿易業者が相当開拓して最早新市場としての価値が薄いので仏印に主力を注ぎ挺身隊五十名をこの地に送り、直接消費者たる住民に食い入って根強い商権を扶植し、神戸の貿易業者とタイアップしてぐんぐん販路を開拓して行こうというのだが、言語も通ぜぬ異国に挺身隊が飛び込んでも直ちに活動を開始することが出来ぬので市当局が三万円を投じて河内または西貢に挺身隊の共同アパートを建設して安南語を習得したり、取引活動に乗り出すまでの根拠地を提供、じつくり待機して商機をつかまえ次第市場開拓に挺身させる仕組で このほかアパートの経営費と渡航費の一部を市で負担して南進貿易先駆者に力強い援護を与えようという計画である
東京日日新聞 1941.5.30-1941.6.2(昭和16)新商道徳の照準座談会 (1〜4)半谷氏 商業報国運動の目標が配給機構整備の促進、並にそれと表裏をなしている新商道の樹立という二つを目標にしていますが、私共の狙っているのは、もっと地味な東京府三十万商業者に率先して垂範挺身するような、いわゆる挺身隊、推進隊というものの錬成に全力を注いでいるのです、国家の物資配給機関としての新使命を果し得るように努力しているわけです
大阪毎日新聞 1941.5.30(昭和16)生活必需物資の配給増加要請農林関係経済部長会議食糧増産問題石原(北海道) 農業報国精神の昂揚を第一とし農村中堅青少年錬成会、農業報国挺身隊を組織して食糧の増産をやっている、今後特に注意すべきは稲熱病と冷害である、稲の作付は目下のところ目標通りに進む予定である、ただ希望するのは肥料資材の配給である坂田(新潟) 稲は奨励品種の作付が約九割に上る見込みである速成自給肥料は最初七千五百万貫のつもりであったが、すでに八千五百万貫に上っている、労力対策として自動耕耘機と畜力除草機の奨励助成をしている、稲作は冷害さえなければ目標の達成ができる、叺の生産は十三年に比し五倍の割当を受けたが製作機を購入しているから計画通りできる三木(岡山) 壮実会支部で農報挺身隊を組織している、旱害対策のため県下の代表河川に対し五ヵ年計画で種々工事をしている、果樹、藺草の作付制限も実施されている上塚(熊本) 労力不足のため開墾による食糧増産は不可能である、甘薯も増産のため全県下の中等学校に対し一校一町歩の作付をやらせている
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10043108&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
神戸新聞 1941.8.13(昭和16)中小産業者への資金供給円滑化両案承認神戸商工時局対策委員会神戸市商工業時局対策委員会は去る三月以降各専門委員会に分れ中小商工業転廃業対策を中心に意検討の結果 既報の如く金融部会において小産業者に対する資金供給の円滑化を目指す社団法人神戸信用保証協会ならびに貿易部会において仏印における貿易挺身隊を養成する現地産業戦士訓練場建設計画ば纏まったので
大阪朝日新聞 1941.9.27(昭和16)国土防衛の民軍推進員を根幹に同志の結集翼賛壮年団組織方針決る翼賛壮年団結成に関する道府県六大都市組織部長会議は二十六日午前九時より翼賛会本部に開催、石渡事務総長、狭間組織局長、関係部長ほか組織部長五十三名ならびに陸軍省佐藤軍務課長、海軍省佐藤中佐、内務省岡本振興課長、文部省久尾成人教育課長、郷軍森川大佐ら出席、国民義礼ののち石渡事務総長、狭間組織局長、小泉地方部長よりそれぞれ挨拶ならびに詳細な説明があったが新生翼賛壮年団の実践項目としてとくに国防思想の普及、銃後奉公活動の強化をとりあげ、一朝有事の際には国土防衛の民軍的役割を担当するよう強調されているのは注文に値する、本部側の説明の骨子は左の通り(中略)各種団体との関係 (イ)目的、性格を同じくする団体(大壮連あるいは地方の翼賛青年挺身隊の如きもの)は傘下合流を求める(ロ)職域奉公推進団体(商報、農建同、農報、産報、地方的な商士隊など)は積極的協力を求めそれら団体員中適格者は壮年団に吸収する(ハ)職域奉公推進団体との協力をはかるため協力機関を設ける
読売新聞 1941.10.24(昭和16)石炭増産に新布石品質主義と農村余剰労力活用一、労力対策 特に重要なので統制会では下半期の半島人移入労務者並びに一般労務者の予定数を検討しこれを計画的に割当てると同時に農村余剰労務者も農村増産奉仕挺身隊を組織して優秀炭鉱との間に定期的にリンクせしめる
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東京日日新聞 1941.12.2(昭和16)“水夫”も改め“甲板員”に「海の魂」錬成に力強き新機構一、海運報国実践隊(仮称)は各船単位に船長を指揮者として編成される海国日本の挺身隊で、海員の生活訓練、国策協力運動を推進するほか、防火、防課等の猛訓練を行ってあらゆる非常の事態に備え、また船員生活につきまとう□習を率先して打破することなどもその使命とする
東京日日新聞 1942.1.25-1942.1.27(昭和17)議会に現われた『大東亜』の構想 (上・中・下)又民族の配置については大東亜の全般にわたり綿密な立地計画を行い、これにしたがって日本人の重点的配置が行われることになる、要するに満洲事変後雑然と押出した商業移民でなしに真の南方諸民族の指導者であると同時に、わが国策を普遍せしむる挺身隊員であらねばならぬ
大阪朝日新聞 1942.3.2(昭和17)大東亜戦下の挙国態勢 (1~7)現地視察特派員座談会問 理想と現実とには距離があるにしても、脚下に現実を踏み締めつつ高い理想を目ざす頼もしい動きはないか団野 岩手県では県営で十年くらい前から有名な六原道場というものをやっている、そこで農村を中心とした県下の青年男女を訓練して日本精神に貫かれた農業挺身隊というものをつくって行こうという考え方だが、現在まで一万五千人くらいの卒業生を出している、この一万五千名の卒業生で清明会というものをつくっている、何ら政治的の運動はしないが、これらが同時に今度の翼賛壮年団員になっている、現在は政治的な力としては現れないが、そういう一つの力がおのずから政治に滲み出て来るのを期待しようというのだ
中外商業新報 1942.3.8(昭和17)中小業者大いに活用開発産業に能力発揮工組統制協議会南方経済建設対策第二 具体対策一、軍事行動と併進すべき事業(一)緊急開発並に調査の為めの綜合的なる技術挺身隊の編成
日本工業新聞 1942.3.10-1942.3.14(昭和17)南方経済建設と中小工業 (一・二・四)工組中央統制協議会の対策を通じて一、軍事行動と併進すべき事業(具体対策)(イ)緊急開発並に調査のための綜合的な技術挺身隊の編成、強力有能なる技術者を動員して占領地の破壊設備を復旧し石油、鉄鋼など緊急必要資源の開発に当り且南方緊急対策確立に必要なる調査を行わしむる為に従来よりも更に大規模なる綜合的組織的なる技術挺身隊を編成することが必要である(ロ)現地既存企業者の復興を図ること現地に於て多年苦心経営せる邦人企業者に十分活動の途を開くことは既に政府の宣明せる方針のみならず所謂特権益乃至既得地位を有する企業者の復興と図ることは挺身隊の活躍と相俟ってその知識経験を最もよく活用し得て応急の開発に最も適当である(続く)
満州日日新聞 1942.3.16-1942.3.19(昭和17)祖国日本 浅春銃後の現地報告 (1~2)島根県では増産運動によって昨年百十万石の米を生産した、・・・かくて十七年度の歴史的増産命令に呼応する県下の増産対策はここに整備されたのであるが、県民の総力を要するこの増産完遂に対して農民の覚悟は果して如何?と篤農青年久保田延男さんを松江市近郊に訪ねた、恰度”多甚古村”の村長さんのように田を見廻り百姓さん達に声をかけて行く川津農会の平江益男氏も来合せていた、久保田さんは第二回内原挺身隊員としての訓練を終え一月二十日帰って来たばかりである、
大阪毎日新聞 1942.4.12(昭和17)菅沼貞風顕彰図南の息吹きを学徒に東京で開く塾、七月に五十年祭フィリッピンの戡定に呼応して今から五十年前"マニラの麻で日章旗を繁げ"と叫びつつ明治二十二年七月六日、二十五歳にしてマニラに客死した菅沼貞風の" 新日本図南の夢"を若き学徒に移植、南方建設の挺身隊とする計画がわが財界、学界、官界、言論界の各界を網羅する有志の手によって実現されようとしている
大阪朝日新聞 1942.4.17(昭和17)あれから二ヶ月石油の都・パレンバン大製油所の煙突に待望の黒煙昇る落下傘勇士の奇襲で確保一つは奇襲作戦の輝かしい凱歌であるが、各勇士の沈着細心に製油所内の戦闘を展開し敵兵を剿滅したのである、銃弾にあたれば爆発発火するガソリンタンクで埋まっているこの大製油所内での戦闘には全く特殊な苦心があった われわれが上陸した時にはまだ拳銃を握りしめて倒れている敵兵の死体がころがっていた、挺身隊勇士が手でドアを外しわずかに身を伏せて敵と射ち合ったあとが残っていた、
大阪朝日新聞 1942.6.20(昭和17)三ヶ月で採掘開始バンカ島に錫開発隊の敢闘世界錫生産量の約四分ノ一の生産量を有しマレーに次いで世界第二の地位を占める蘭印錫の生産地であるバンカ島も去る二月十五日わが軍の上陸占領を見た、その部隊とともに上陸した経済開発隊和田七郎氏(三菱鉱業)を隊長とする和田隊五名の挺身隊は敵弾の下を戦闘部隊と行動をともにして乗込みただちにその開発と復興を開始した
東京朝日新聞 1942.11.10(昭和17)薄れ行く匪賊の姿悩み多き阿片断禁政策特殊境熱河の変貌 上由来熱河省は満洲開発の癌とされていた、永年の濫伐による旱魃と水害に災いされ全省の一割に当らぬ僅かな耕地に四百五十五万人の省民、特に漢蒙両民族が雑居し西南国境は万里の長城を境として蒙強、北支と接壌、常に国外思想匪の脅威を受け満洲国唯一の阿片栽培省というほかに種々の特異性による地理的、政治経済的、民族的、産業的にあらゆる悪条件を背負わされ、端的にいえば建設途上の厄介物扱いされて来たのであるが、・・・
康徳六年二月熱河省当局が省是として一、国境治安の確保一、阿片問題の根本解決一、蒙籏諸懸案の調整一、造林の徹底と畜産の助長一、鉱山資源の開発一、教学の振興と古跡の保存の三箇年計画六大綱領をかかげ特に治安問題に重点がおかれたのであった、熱河省は満洲建国に一年おくれて大同二年三月戦史に不朽の武勲を残した熱河聖戦の川原挺身隊が疾風迅雷の如く承徳に入城、同五月省公署を開設、暴戻湯玉麟を駆逐して治安粛清の第一歩をふみしめたのであったが、支那事変の勃発と、北支、蒙強の数次にわたる掃匪工作の影響を受けて長城線一つで接壌しているため、西南国境地区に康徳五年以来共産八路章冀察熱挺身隊が侵入蟠踞したのをはじめに、民衆を武装させ執拗なる遊撃戦を展開、生埋め、虐殺など徹底的恐怖政策をもって治安擾乱に狂奔しつつあったが、日満軍営の三年間にわたる真に血の滲む粛清工作は、ついに大部分を国外に駆逐し、現在では僅かに興隆、青竜両県の一部に少数の遊撃思想匪が蠢動するほか全省の治安殆ど確立するに至った、
大阪毎日新聞 1942.11.10-1942.11.24(昭和17)大東亜共栄圏内指導者へ (1〜9)駒井徳三明治十八年滋賀県栗太郡常盤村に生る、本年五十八歳、明治四十四年北海道帝大農科を卒業後満鉄に入社、大正九年外務省嘱託、昭和六年九月満洲事変起るや関東軍特務部長、翌七年三月満洲国建国とともに国務院総務長官、同年十月参議府参議等を歴任して満洲建国の中枢的指導者として偉大な功績を残して昭和八年退官後は宝塚に康徳学院、池田市に興亜時習社を創設して大陸の若き挺身隊の養成事業に携わり今年六月内閣委員引続き大東亜省委員に挙げられた
東京朝日新聞 1943.1.11(昭和18)長期総力戦の遂行に農村の役割頗る大谷萩大佐 内原訓練所で力説大本営陸軍報道部長谷萩那華雄大佐は十日十三時から茨城県内原訓練所において全国農村指導者および訓練生一万五千名に対し「農村農民に対する軍の要望」と題し講演を行ひ、大東亜戦争の現段階において長期総力戦を遂行のためには、軍の構成分子の主力は農民であり特に最近における食糧増産の必要性に鑑み、国家の農村農民に期待するところは益々多大なるものがあると激励、国家としても農村における生活必需品の特配、農業戦士の精神的優遇、生産物の価格適正化とともに、生産物の供出割当、農村労務管理などについても真剣に考慮している旨を強調し、健農即強兵であると語って多大の感銘を与えた ・・・県の農政課、郡市町村の農会、耕地整理組合、水利組合、大政翼賛会、信用組合、農事実行組合、食糧増産挺身隊、同督□隊、同報国隊、同共□隊など洵に多元的であり複雑である、この結果は知らず測らずに権限の争い、功名の競いとなり迷惑を蒙るのは農民である、
神戸新聞 1943.3.29(昭和18)食糧確保に五大方針県の実践重点事項決定す三、実践奨励施設(イ)部落又は隣保に共同苗代を設置せしむ(ロ)県に於て一枚刷(表には薄播の重要なること苗代面積拡張の必要なることを強調し裏面には実物大の播種量を図示す)を五千枚印刷し播種前に部落農業団体に配布し苗代面積、作付面積、播種量を計画樹立す(ハ)四月上旬に県郡市町村の指導部員出動し苗代面積の拡張に付事前指導を行い部落においては挺身隊員をして苗代面積に付事前検査を為さしめ不足せるものに付てはこれを拡張せしむ
日本産業経済新聞 1943.8.9(昭和18)和蘭地代とは雲泥地方制度改革十一周年蘇へるジャワ茲に地方行政はその下部組織に至るまで本格的軌道に乗ってきたということが出来る、また同日を期し全島一斉に結成された青年団、警防団の二大組織は郷土防備、勤労奉仕の挺身隊として決戦段階に処するジャワ住民の総力結集への力強い現れである、
大阪朝日新聞 1943.4.6(昭和18)全国に魁けて国民勤労協力令(大阪)大阪府では全国最初の試みとして特殊技能者をそれぞれの職域に送るため、五日大阪府大工業報国隊大阪府土木建築手伝業挺身隊に国民勤労協力令を発令、大工業報国隊は大阪造船所ほか二十工場、手伝業挺身隊は信貴造船所ほか十八ヶ所にそれぞれ出動させることになった これによって従来大工さんが製薬の包装作業に、左官屋さんが製品の運搬にといったような非能率的作業はなくなり勤労報国の能率化が実現したわけ
大阪毎日新聞 1943.8.14(昭和18)企業整備指導班などを設置商報近畿協議会一、決戦配給の完璧を目指して重点産業への配給協力、残存業者の錬成、配給挺身隊の結成、町内会消費経済部との協力を期す
次はアジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
1935年、「皇道挺身隊」なる右翼団体に関する用例第八師団謀弘第二三三号皇道挺身隊兵営宿泊状況に関する件報告昭和拾年五月拾九日 第八師団長中村孝太郎陸軍大臣林銑十郎殿首題の件に関し憲兵隊より左記要旨の通報に接し師団に於て調査せし事項並に処置別紙の通報告す左記一、管内右翼分子に依り結成せられたる皇道挺身隊は「石川観農社青年修養会」名義を以て兵営宿泊を計画し四月二十六日正午より二十八日迄二泊三日間歩兵第十七連隊に宿泊せり二、此間軍事教練の外皇道挺身隊員の座談会を催したるが座談会中矯激なる言動ありて注意を要すべきものあり(後略)【レファレンスコード】C01004088800(1枚目)
昭和十年十二月調最近支那及満州関係諸問題摘要(第六十八議会用)下巻(本調書は上下二巻及別冊より成る)東亜局第二課極秘第六編 満州国治安状況第三章 匪賊に依る被害・・・松井討伐隊に於ては少数の兵員及満側警察隊員を以て各将校指揮の下に数個の変装艇(ママ)身隊を組織し沙河上流に至り匪賊の根拠地を求めて之を奇襲し人質奪還を計ることに方針を変更し・・・前顕軍及満警より成る挺身隊は十五日より行動を起し匪賊の密偵若は匪賊の食糧運搬の連絡者を逮捕し敦化領事館側に引渡し・・・※資料に正誤表が添付されており「艇」を「挺」に訂正してある。【レファレンスコード】B13081255700(1・2枚目)【レファレンスコード】B13081255800(1~4枚目)【レファレンスコード】B13081256200(1・28・29枚目)
極秘自 昭和十三年五月十一日 至仝七月七日徐州会戦に於ける戦闘及作業詳報鉄道第二連隊第二大隊(木村部隊黒石隊)目次一、徐州会戦に於ける戦闘及作業詳報(一)、戦闘前に於ける彼我態勢の概要(二)、徐州進出(三)、横山挺身隊の徐州占領(四)西武隴海線の占領開拓(後略)三、横山挺身隊の徐州占領五月十四日横山小隊(長以下五七名)は大任を負つて勇躍兗州を出発・・・(第十六師団の)歩兵部隊は勇猛果敢に唐寨の攻撃を開始す。挺身隊は遅れじと十七日午前五時周寨を発し早くも午後一時唐寨を占領せる今田挺身隊(戦車隊)と合流す【レファレンスコード】C11111425700【レファレンスコード】C11111425800【レファレンスコード】C11111426100(1~3枚目)
内閣情報部編輯 週報 第百十号 (昭13・11・23)われらは銃後の挺身隊【レファレンスコード】A06031027200(1・3・20枚目)
成紀七三四年十月六日(1939年)滅共青年隊創設計画案
目次
一、晋北滅共青年隊の訓練大綱案
二、滅共青年隊第一期訓練要綱
三、滅共青年隊隊則(付趣意書綱領)案
四、滅共青年隊第一期訓練指導計画案
五、滅共青年隊懸案並要処置事項一覧表
六、滅共青年隊系統表
七、滅共青年隊本部人員表
滅共青年隊懸案並要処置事項一覧表
内容 滅共挺身隊結成
完成期日 (七三五年)二、一一
一朝有事の際決死的行動をなすものとす【レファレンスコード】C13021518300(1枚目)
第百四師団戦闘経過及教訓集(昭13・10・中~15・6・4)菰田兵団(104D)参謀部目次一 自昭和十三年十月中旬 至同十一月上旬 流渓水右岸地区掃蕩(1)二 自昭和十四年一月十七日 至同一月十九日 花県平地及獅嶺圩白泥水河畔千頭(7)三 自昭和十四年四月五日 至同四月八日 獅前市及花県北方地区の戦闘(25)四 自昭和十四年四月十日 至同四月十二日 獅嶺圩付近に於ける戦闘(55)(後略)自昭和十四年四月十日至同四月十二日獅嶺圩付近に於ける戦闘各時期に於ける戦闘経過作戦第一期(機動発起より追撃開始まで)一 約一団の敵は馬齢河を越えて南進し我捜索隊特に安民挺身隊を攻撃するの気勢を示し別に獅嶺圩平地には約一団の敵部隊進出しありて断乎撃滅するの好機と認め・・・【レファレンスコード】C13031772300(1枚目)【レファレンスコード】C13031772400(1枚目)【レファレンスコード】C13031772800(1・2枚目)
台湾総督府臨時情報部 部報第78号 昭和14年11月上旬号
“文化の触手”
1940年宜昌作戦時の用例
本日の新聞外観(第二百五十六号)内閣情報部 一五、六、一六(日)一七(月)
(中略)
外国宣伝情報第二号 内閣情報部六・一七重慶U・P・新聞電報放送(十三日)(朝鮮総督府逓信局聴取)
陣中日誌甲第八号 近衛混成旅団司令部(昭15・6・1~6・30)桜寧情通第五一号 桜田兵団情報記録 六月二十七日 亭子圩西路方面の状況二、二十七日中村兵団岡本支隊挺身隊は寗明付近主力は明江付近に進出せるものの如し【レファレンスコード】C13031866700(1・9枚目)
【レファレンスコード】C13031867400(4枚目)
翼兵支第一五九八号 昭和十六年十月二十四日 大政翼賛会兵庫県支部長 坂千秋
外務大臣東郷茂徳殿
本県第一回協力会議に於て討議せる事項を議長に於て統裁の結果別紙の通り上通致候条之が実現方に関し何分の御高配相成候様致度此段及申達候
第一回兵庫県協力会議上通事項 大政翼賛会兵庫県支部第一部(大政翼賛運動に関する事項)一、戦時生活国民読本を政府に於て制定発布せられたい二、戦時生活、実践指導の挺身隊組織の要がある三、生活必需品の消費規正を設定せられたい【レファレンスコード】B02031306200(1~3枚目)
部報 第一二六号 台湾総督府情報部編輯 昭和十六年七月十五日発行
輝く南方挺身隊
拓士道場の開場式挙行
本当並に南支、南洋の農業開発に雄飛すべき青年に報国精神を培ふとともに、農業の本義を体得せしめ、熱帯地農業に関する技能習熟と心身鍛練によって、拓士たる資質を具備せしめる目的で、本年三月台中州北斗郡北斗街に開設された総督府拓士道場の開場式は七月三日午前十一時より同道場において、総督代理石井殖産局長、酒井海軍武官、森田台中州知事、菊池南洋協会理事、日下台拓理事其他主なる官民多数列席の下に挙行、先づ拓士八十八名(うち一名病欠)の入場式に次で、国民行事を行ひ、工事報告、設立経過報告、石井殖産局長式辞、総督告辞、酒井海軍武官、森田知事、古谷郡守、日下台拓理事などの祝辞、祝電披露あり、続いて中山道場長の挨拶、石井殖産局長の発声で帝国の万歳を三唱して正午頃閉式した。
それより一同場内巡視の上拓士道場生八十七名より成る静観、乗馬訓練、鍬の体操、牛車訓練等の訓練状況を視察、道場生はいづれも農業報国の信念を眉宇筋骨逞しき溌剌たる姿は力強く参観者の眼に映じた。
因みに拓士道場第一回入所生八十八名は十五歳以上二十四名、二十歳以上三十二名、二十五歳以上二十七名、三十歳以上五名、また出身県別は殆ど内地各府県を網羅してゐるが、右の鍛練期間は一ヶ年間、朝な夕な敬神崇祖の行事、皇国精神の本義、作業および体操、農業並に農家経営、農村生活の要義、南方事情など中山道場長以下指導者が熱心に鍛練を指導してゐるが、卒業後の志望をみると仏印進出の十八名を筆頭に、海南島十四名、ボルネオ十二名、スマトラ十名、ニューギニヤ六名、セレベス四名、ジャワ二名、泰国二名、台湾は僅か五名である。
【レファレンスコード】A06032511700(5枚目)
東米商報発第二十五号 昭和拾六年拾月二十五日 東京府米穀商業報国会 会長成田●陸軍大臣東条英機殿臨場申請緊迫せる時局下食糧配給の重責に鑑み之れが完遂を期し食糧国防団を結成青年挺身隊を組織配給に挺身すべく訓練致候処今般其の閲兵分列式を別紙の通り挙行致度に付御繁忙とは存候得共食糧国防の意義を深からしむる為め御臨場賜度此段申請候也【レファレンスコード】C04014870300(1枚目)
極秘昭和十六年十一月四日 青年挺身隊要領 帰徳陸軍特務機関青年挺身隊組織要領一、趣旨 華北に於ける目前の事態は政治戦の段階に入りたり。勇壮無比なる日軍の武力を以てする戦は向ふ所敵無く戦ひて勝たざること無しと雖も敵は巧みに其鉄鋒を避け或は便衣隊化し或は遊撃隊化し得意の政治工作により民衆を組織化し之を動員し攻勢我軍に迫りつゝあり。其の勢潮の如く侮る可からざるものあり。殊に共産軍の工作に於て然りとす。我方に於ても皇軍の武力に加ふるに民衆組織の大同団結されたる政治的参加を見るならば即ち皇軍の駐屯を内核とし其の外延として皇軍の掌握と(下?)に在る民衆組織地帯のあるならば其の勢力圏は直ちに現今に比較し倍化し三倍化することを得べし。従来の武力戦に優し政治戦に劣りたる弊を嬌め以て共党の攻勢を破砕するは焦眉の急勢なりとす。一、組織青年訓練を経たるものゝ中より優秀者を選抜し各連保に数名(五、六名)宛各々その出身郷に配置し諜報工作網を組織す。・・・【レファレンスコード】C11110731900【レファレンスコード】C11110732000
馬来攻略作戦経過概要 昭16.12.8~17.1.31
第八、情報宣伝謀略事項其一、情報収集要領(一)・・・戦闘後に於ては速かに敵軍の戦力を判定し得る資料を獲得するに努む。又予め編成せる特別挺身隊を以て英領馬来内部に潜入せしめ敵後方の情況を捜索するに努む
内閣情報局編輯 写真週報 第206号(昭17・2・4)お嬢さん軍属第六百十号陸軍被服本廠の女子挺身隊戦果に応へて起ち上がつた女性たち――一月上旬東京市総動員部では国家総力戦の建前から家庭にある有閑または非生産部面の女性に呼びかけて『陸軍女子挺身隊』を結成し、これを東京赤羽の陸軍被服本廠に勤務させて多忙をきはめる軍役の一半を担はせようとしたところ、応募者多数殺到、銓衡の後その中から六百十名が晴れの『挺身隊員」として一月二十一日陸軍被服本廠に入所した。挺身隊員は入所と同時に軍属の待遇を与へられ、一定の教育機関を経たのち、それぞれ被服の裁縫、整理、検査等の作業に従事することになるが、繊手よく時局の要請に生きようとする彼女たちの決意こそ、銃後女性の新らしい進路をはつきりと示すものであらう。【レファレンスコード】A06031080100(1・11・12枚目)
1942年「パストリアス作戦」時の用例
海外特殊情報 第三号 昭・一七・七・二(木)情報局第一部第二課
◎独挺身隊米本土に潜入UP=ニユーヨーク二十八日発=
昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌
外南洋部隊増援部隊機密第一号昭和十七年八月十八日 航海中旗艦神通 第二水雷戦隊司令部軍機
訂正機密外南洋部隊増援部隊命令第一号中左の通追加訂正す三、各部隊の行動(イ)護衛隊の項に『24dg(山風欠)は十七日一五〇〇「トラック」出撃船団に追求第一警戒航行序列●に就く』を加ふ
昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報
増援部隊区分 挺身隊指揮官 4dg司令兵力 4dg(2D欠)17dg(磯風欠)陽炎任務概要 一木支隊の一部乗艦輸送揚陸備考 挺身隊は任務終了後護衛隊に編入す【レファレンスコード】C08030096900(1・2枚目)
パラワン憲兵分隊 警務書類綴 昭18.4.14~18.6.9
一、一般情況「カビテ」州内旧「ガナップ」党員は皇軍比島上陸以来兵匪の情報蒐集宣伝宣撫等我に協力し来りたるが其の積極性より最近に至り一部町長、警察署長及州内強盗団等の恨を買ひ旧(?)党員に対する弾圧「テロ」等頻発するに(?)及び両者の確執愈々濃化し終に旧党員約二、〇〇〇名を糾合挺身隊を組織し強盗団に対抗し自衛手段を講ぜんと企図するに至れり。
【レファレンスコード】C13071641400(1・2枚目)
歩兵第222連隊 18春大行作戦 戦闘(行動)詳報 昭和18年4月15日~昭和18年5月18日
第七 殊勲者行動第一中隊長 陸軍中尉 三島匡世右は本作戦劈頭老爺坡「トンネル」確保の大任を受くるや四月二十日夕刻以来連続不休の強行軍を以て東柏坡に到り巧みに情報収集をなし老爺坡の前哨たる庄子上に果敢夜襲を決行し壮烈なる白兵戦の結果該地を奪取せり。次で老爺坡「トンネル」に急行し猛烈なる弾雨の間克く中隊員を激励して迅速に交通を回復し以て挺身隊の真面目を遺憾なく発揮し直後進攻部隊の省境外進出に遺算なからしめ包囲圏圧縮の最大誘因を為したるものにして其の武功は抜群なり。【レファレンスコード】C13070428400(1枚目)
厳秘
大東亜建設実施基本方策 (昭一九、一)一、大東亜建設衛団の設置大東亜圏建設は、軍事、政治、経済、文化等一切の諸領域に亘る一元的総合建設を必須とし、従来の諸部分的なる建設経営にては十全なる目的を達成し得ざるは明かなり。かくしてこれ等すべての諸部門を悉く統合し、東亜共栄圏の国土防衛、国土建設、国土経営に対し最も強力なる統一機関の設置を絶対に必要とし、このため大東亜建設衛団の組織を企画せんとするものなり。この建設衛団は、日本よりの建設部隊を派遣し、それをもつて建設の指導的挺身隊となし、これにより皇軍の武威の下、原地住民のもっとも緊密なる協力勤労を組織し・・・
外務省挺身隊結成の件(昭19)
防空業務の益々緊要且重大なるに鑑み外務省挺身隊(仮称)を組織し本省防空作業陣の完璧を期す 要領左の如し二、組織
(一)隊員は外務省雇以上のものにて各課長より推挙ありたるものより次官之を任命す(二)各課長は直属する専任課員中より挺身隊員として適当と認むるものを当該課員の最低二割推挙す(但し電信課に付ては一割とし大体別表の如く予想す)【レファレンスコード】B04010605200(1・4枚目)
昭和十九年三月一日
松本次官
殿
貴官は空襲被害時応急措置要綱に基き非常時参集を命ぜられたるに付平素より同要綱の規定を心得置かれ時に臨んで遺漏無きを期せられ度(後略)
【レファレンスコード】B04010605500(2・4枚目)
済南陸軍連絡部情報 昭和19年3月16日
第八 敵側の動向並、諸工作の実態一、軍の動向・・・尚最近の情報に拠れば辺区軍は参謀処に於て秘密会議の結果野戦軍編成を企図し本月初旬より之が実施に着手せり。之が企図は未だ不明なるも一には今次国境相剋に伴ふ急援軍なりとも云はれ一には我方作戦に対する挺身隊なりとも称せられ之が今後の動向に関しては注目を要す。
独立歩兵第12大隊京漢作戦 戦闘詳報 昭和19年4月1日~19年6月30日
一、戦闘前に於ける彼我の形勢の概要
第35軍発来電綴(写) 昭和19年9月~19年12月
二、作(ママ)夜引続き諸隊はヌコブ付近及パナマ東方及橋梁バク破する等各方面よりする挺身肉攻を実施せるにヌコブ付近に既にF兵を見ず。工兵挺身隊は同地にありし●一両を破壊せり。【レファレンスコード】C13071383100(1枚目)
軽金属増産電気協力会 電源機器空襲対策懇談会議事録一、日時 昭和十九年八月二十九日(火)午後三時―午後八時二、場所 帝国ホテル三、出席者 別紙の通り四、議事大山会長開会あいさつ、尾本第二班長の趣旨説明があつて議事に入る。(一)各社の空襲対策の紹介(イ)東北振興アルミ(越智氏説明)空襲警報ではその儘運転継続、緊急警報で整流器の運転を停止し、二三の挺身隊員を残して退避する。挺身隊員は飽く迄現場に居残つて監視を続ける。(三)其の他討議事項(イ)水銀整流器運転関係・・・冷却水管の破損隘水、●極水銀の飛散等に対しては専ら挺身の監視隊員の処置に委すを可とすべき、而して常時監視の挺身隊員の詰所をトーチカ式に設ける必要がある。監視員はこの詰所より配電盤その他の監視を続ける。【レファレンスコード】C12121894000(1・4・6枚目)
昭和19年の新聞記事スクラップ大本営発表(昭和十九年十一月一日十六時)我魚雷挺身隊は十月二十八日未明「ペリリュー」島東方海面の敵輸送船団に対し肉薄紀州を決行して其の四隻を撃沈、二隻を撃破せり。右と呼応して同島北岸に突入せる肉攻斬込隊も亦奇襲上陸に成功せり。中部太平洋の孤島ペリリュー島では連日連夜斬込挺身隊を以て敵の心胆を寒からしめ孤軍奮闘を続けており、・・・【レファレンスコード】A06030107600(5枚目)
第四十六師団特設挺身隊部隊略歴 隊長野原静昭一八、一〇、二八 歩兵第百四十五連隊第一次先遣隊として濠北地区派遣のため門司港出帆昭一九、七、一五 全員第四十六師団司令部に転属九、五 第四十六師団特設挺身隊を編成、引続、濠北地区防衛作戦に従事す
【レファレンスコード】C12122486300(13枚目)
独立混成第2旅団独立歩兵第1大隊 李官営附近戦闘詳報 昭和20年3月5日
第一 戦闘前に於ける彼我形勢の概要二、中隊長会議に出席せる秋中尉は●●●作命第三二号に基き礬山鎮警備隊交代要員(特別挺身隊三五名歩兵砲修業兵二六名機関銃修業兵三一名)を併せ指揮し石炭輸送馬車一六・驢馬一二〇頭を護衛しつゝ帰隊すべく〇八〇〇懐来出発風速二十米を下らざる暴風を●して一三〇〇永定橋に進出す
【レファレンスコード】C13032112800(1枚目)
南方事業に対する投下資本金額(20・3・31現在)会社名 王子製紙株式会社「業種別・事務所別投資額」に「ニューギニア林業開発挺身隊」の項目【レファレンスコード】B05013020800(1枚目)
大東亜戦争陸軍衛生史編纂資料 旧第二十軍軍医部(終戦前)南部粤漢打通作戦に於て前線に対する緊急補給の為創傷治療剤、救急薬等緊要品を飛行基地に集積し状況に応じて空中投下を行はしめたるに特に挺身隊の補給に良果を得たり【レファレンスコード】C13120593600(1枚目)【レファレンスコード】C13120594300(2枚目)
第三 復員美談一、南方残留作業隊帰還促進運動挺身隊員の活動南方残留作業隊からの帰還促進挺身隊員(各県代表二―三名)は昭和二十二年●月七日宇品上陸以来絶大な努力を払い、残留者の家族に呼び掛け「南方残留作業隊帰還促進家族同盟」を結成して・・・【レファレンスコード】C15010819800(1枚目)
沖縄作戦に於ける
船舶工兵第二十三連隊史実資料
昭和二十二年三月二十五日
第三十二軍残務整理部
四月●日 敵嘉手納地区に上陸開始
国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp
[請求番号] 分館-05 -065 -00 ・平16会計00039100 [件名番号] 224 [作成部局] 会計検査院総務科 [年月日] 昭和20年07月02日 [マイクロフィルム] 000800 [開始コマ] 1190昭和二十年七月二日 会計検査院国民義勇隊長各部課掛御中隊則第十二条に依り左の如く挺身隊を組織致候に付及通知候隊長 池田総務科長副隊長 中川調査課長幕僚長 根本一郎
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戸坂潤「現代日本の思想対立」昭和11年12月17日発行
さてかうした広義の言論統制の立案については、いつも警保局長が指導的な役割をもってゐるといふことを注意しなければならないが、ところで、多数の大衆作家達が前警保局長松本学氏の後押しで「帝国文芸院」運動をはじめたことは有名だ。後の「文芸懇話会」「国民文化協会」乃至「日本国民協会」といふ国民精神的文芸挺身隊も出来さうになったがそれが多少萎縮して「物故文芸家慰霊祭」となって現はれたり何かした。・・・(一九三四・一〇)(p26)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1440750/17
「愛国運動現勢」第1輯 (労働経済調査所, 1935)
國粹大衆黨挺身隊創立 昭和八年十一月所在地 本部東京市赤坂区新町三ノ三五 屯所 東京芝区琴平町二九光楽ビル中心人物 隊長藤吉男 副隊長森岡盛清 参謀南端義正 柏木勇 情報部長杉浦応主計後藤四朗 第一小隊長大室芳太 第二小隊長石橋清 旗手長高岡利明目的 一、本隊は本党の主義綱領に則り新日本建設の目的達成の為には身を挺するをも敢て厭はざる本当の前衛部隊たることを以つて目的とす。【概要】本隊は国粋大衆党の前衛隊として本部を国粋大衆党関東本部内に置き藤吉男氏を隊長として第一支隊神戸、第二支隊三重、第三支隊を北海道にと夫々(それぞれ)支隊を設け隊長の指令一呵活動をなしてゐるものである。過般の陸軍参与官石井三郎氏の至尊聖徳太子誹議問題に関しては藤隊長総指導の下に京都支部の協力と相俟つて之が糾弾運動をなし結局参与官を辞任せしむるに至つた。其他アリゾナ州の邦人迫害事件に関しても果敢なる活動を展開せしは世人の周知のことである。(p73・74)
「右翼思想犯罪事件の綜合的研究 : 血盟団事件より二・二六事件まで」斎藤三郎著 (司法省刑事局, 1936)第二章 救国埼玉挺身隊事件及其の背後にある急進陸軍靑年將校の運動救国埼玉挺身隊事件(昭和八年十一月十三日検挙)の中心人物である吉田豊隆以下其同志数名の取調に依つて、同事件の背後に西田税と深い関係を有する陸軍青年将校栗原安秀等の直接行動に依る国家改造運動の存し、同事件は其の運動の派性的事件であることが明らかとなった。(p246)
「帝都事件の全貌 : 組閣事情と『国政一新声明』 」 (大阪時事新報社, 1936)
「未開地」安藤盛著 (岡倉書房, 1937)
南海挺身隊挿話南極へ巨鯨を追うて遠征する。日本の捕鯨戦隊は、今は、世界の水産業の目標とされてゐる。これも南海挺身隊の一部とはいへるが科学の粋を集めた二万頓の巨船が中心であるから、もうさほど冒険とは思へないものがある。こんな大規模なものではなくて、二三十頓の小帆船に、無電の設備さへないのに乗つた勇敢な日本人が南洋の赤道直下をはね廻つてゐる。私は、かうした連中を特に南海挺身隊と名づけたい。(p66)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1231920/39
「進軍の旗風」小西武夫著 (元文社, 1937)勇猛果敢 夜襲挺身隊 敵の大夜襲戦(p208)
「拓殖パンフレツト 第7輯」 (拓殖奨励館, 1939)
第九 南洋拓殖挺身隊さう云ふ点から先づ第一回に私が南洋拓殖挺身隊と云ふものを作つて、さうして南洋のヤツプ島に南洋拓殖会社が金を出してやつてをる。此方で一ケ月訓練し、向ふで三ヶ年働いてしつかりやると約六百円貯金ができる。さうして賃銀でなく、軍隊と同じやうに階級を設けて給与を出す。所謂班長、分隊長と云ふやうにしてやる。(p17・18)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278267/14
「青年勤労報国運動の概況」大日本青年団指導部農漁課編 (大日本青年団本部, 1939)
島根縣靑年勤勞挺身隊島根県に於ける勤労報国運動は、島根県青年勤労挺身隊と称し、次の如き要綱に基き実施し来つた。三、指導本勤労挺身隊は島根県関係官及島根県青年団役員の指導の下に置く。四、編成町村を単位として編成する場合一、指導員…青年学校専任教員又は農会技術員、林業技術員等を嘱託し之に充つ一、隊長…青年団長を以て之に充つ一、副隊長…青年団副団長又は産業部長訓練部長等を以て之に充つ一、班超…隊員より選出す一、隊員…二十五歳以下の青年団員にして一隊を二十名乃至三十名程度とし五、六名を以て一班とす(p175・176)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445746/93
「食糧増産計画」(静岡県, 1941)
三、食糧増産挺身隊設置要綱一、資格(1)志操堅実にして農業報国の熱意を有し自ら米作に従事し卒(ママ)先改良事項を実行し近隣に範を示し得る者たること(2)内原並に県の訓練を受けたる者は必ず之に加ふること(3)年齢は概ね二十一歳より三十五歳未満の者たること二、選任方法(1)市町村農会長の推薦により県より嘱託辞令を交付す(2)農家戸数八戸に付一名を標準として各部落に普遍的に選抜すること(p7・8)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1095919/8
日本放送協会「昭和十七年ラジオ年鑑」昭和16年12月30日発行其の他昭和十六年の年頭に当っては有馬大政翼賛会事務総長の「新日本の発足」永井柳太郎氏の「興亜の挺身隊として」阿部賢一氏の「日本経済の前途」徳冨猪一郎氏の「期限二千六百一年の展望」永田秀次郎氏の「新時代に処する日本人」を特輯、紀元二千六百年を送り、二千六百一年の新なる発足を促す力強き放送を全国へ送った。(p113)
「大東亜戦史マレー作戦」(朝日新聞社, 1942)
四、ジツトラの華、朝井挺身隊ジツトラ堅陣を突破後、アロルスター道を突破したわが陸軍部隊の中に、渡邊部隊朝井小隊のオートバイ挺身隊の活躍を忘れることはできない。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450644/46
「農業報国挺身隊関係資料 資料第3輯」(北海道農業報国挺身隊, 1942)
(一)結成趣意及結成要項
北海道農業報国挺身隊結成趣意書
我等肇国の神命に農を享く 今日国家大事のとき、我等の使命極めて大なり。
茲(ここ)に皇国の農人として至誠協力旧套を脱して臣道実践に徹し、真摯躬行する同志を結集して農業報国の実を挙げ、以て天業を翼賛し奉らむことを期し、汎く諮り、堅く結んで北海道農業報国挺身隊を結成せむとす。全道の若き殉國の農人、欣然これに参加協力せられむことを衷心希つて止まず。
昭和十六年三月
北海道農業報国挺身隊結成発起人
(発起人)安孫子孝次 加賀操 東隆 青山永 小森健治 宮本平八郎 稲垣源一 五十嵐清(p1)
「愛の村 沖縄救癩秘史」 三浦清一 著 (鄰友社, 1943)挺身隊・・・『こんなに、大勢の者がいくことは、むつかしい。第一、船に乗り込むことが厄介だ。併し、皆さんの希望をしりぞけるわけにはいかない。では斯うしよう。暫らくの間、みんなで黙祷して、そのあとで、くじを引いて、先づ、この中から挺身隊として、三人だけ行って貰ふことにしたらどうだらう』(p155・158)
「海戦の変貌」七田今朝一 著 (大新社, 1943)7小艦艇の活躍イ、海の挺身隊“掃海艇”・・・五百トンから六百トン位の小艇ではあるが、敵前上陸に当つては、挺身隊となつて突撃路を開き、本隊の進撃を容易ならしめる。(p188)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062919/113
「昭和拾七年版内外綿業年鑑」昭和18年12月25日発行
(三)生産具体化の進捗
南方諸地域に於ける増産担当区域の決定すると共に各社では直ちに棉作経験者を以って夫々棉花開発挺身隊を組織して担当地に派遣し棉花植付に着手して何れも相当の成績を上げてゐる。(p53)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212630/45
「商業者の戦闘配置 労働供出と企業整備」 (商業報国指導叢書 ; 第5輯) (東京都商業報国会本部, 1944)(四)配給挺身隊の組織商業報国会中央本部の配給挺身隊実施要綱の趣旨に基き、東京都に於て編成せる配給挺身隊要綱とそれによる実地演練に就て左に大要を述べることにする。東京都配給挺身隊要綱一、趣旨空襲時に於て罹災者及び一般消費者に対する応急物資の調達、保管、搬送及び配給の任務に挺身し、都民生活の維持安定を図る為、関係組合又は団体毎に配給挺身隊を組織せしめ、所定任務の遂行に遺憾なきを期するものとす(p30)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098368/18
東京都生産挺身隊要綱
一、名称 東京都生産挺身隊
二、趣旨 東京都生産挺身隊(以下生産挺身隊又は隊と略称す)は商業者をして、時局の要請に応へ、戦力増強のために敢然家業を一擲して、集団形態のもとに緊要生産に挺身せしめ、之に必要なる指導と訓練輔導を行ひ以て一層国家に寄与せしめんとするにあり。
三、組織方法
(2)隊員 東京都商業報国会所属会員又は元会員及その家族並に従業員の男子にして所定の誓書を提出し、東京都商業報国会本部の適当と認めたる者(p45・46)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098368/25
「大東亜戦争郷土の勇士 第1輯」 (大政翼賛会愛知県支部, 1944)
目次ガ島の二挺身隊…中澤、寺澤隊に命令下る(一五)中澤挺身隊の奮闘…大胆極まる敵陣生活(一九)寺澤挺身隊の奮闘…吹き飛んだ敵砲兵陣地(三七)還らぬ大野挺身隊…敵陣深く斬込む三勇士(四七)
「高等科国語 第1」 (文部省, 1944)
二 五名の挺身隊
「をかしいぞ、こんな所に、地図の上では川などなかつたはずだが。」
夜の闇の中に、どう見ても川としか思はれないものが横たはつてゐた。中澤少尉は、狐にでもつまゝれたやうな感じで、しばらく考へ込んでゐた。・・・湯浅伍長・筒井兵長・高木上等兵の三名に、通信線と退路の鉄条網破壊とを命じ、少尉は自ら村上兵長を伴なひ、飛行場へ突入し、破壊すべき物件を選定することに手はずをきめた。かうして重い任務を持つた五名の挺身隊は、壮途に就いた。(p6・10・11)
その他
空襲時に於ける興行非常対策について
岸田国士
1、空襲を予想して準備すべきもの
ロ、空襲直後は多少人心興奮し、応急の自衛処置に忙殺されてゐるから、主として音楽、殊に吹奏楽の如きものを街頭へ繰り出す必要があらう。
これが為には、日本音楽文化協会の組織する各区音楽挺身隊の活躍に期待されるが、この場合、各挺身隊の事務方面を興行関係者が奉仕的に援助し、活動能率を高めることが出来れば最も理想的である。
2、空襲直後実施すべき事業計画
第二の場合は、被害地域の慰問激励と併せて、都民全体の士気を鼓舞するため、敏速に芸能活動を開始しなければならぬ。即ち、被害地区以外に在住する芸能人は、先づ自発的に激起し、都委員会と連絡し、その指令に基いて必要な場所に出動する。都委員会は、自動車又はトラツクを以てこれら挺身隊を移動せしめ得ることが必要である。
一、警視庁管下の警察管区内に、芸能報国会なるものが設置せられ、警察当局の慫慂指導により目下主として出征遺家族の慰問事業が行はれてゐる場所がある。
また一方、音楽文化協会の事業部面に於て、都下各区に音楽挺身隊が組織せられ、必要に応じ出動演奏の準備態勢にある。
初出「興行日本 第一巻第一号」1944(昭和19)年9月20日発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44717_39330.html
滑川道夫 ききて冨川博之「体験的児童文化史」国土社
学童疎開の児童文化
しかし戦局がだんだん敗戦に近づいて、一九四四年(昭和一九)年の七月から学童疎開が始まり、少国民文化、児童文化の出版はほとんど不可能になっていくわけですが。
滑川 都市が爆撃されるようになってきて、子どもたちが縁故疎開ばかりでなく集団疎開をする。一九四三年に少国民文化報国挺身隊というのが結成されて・・・・・・。
一二月のようですね。
滑川 少国民文化協会の人たちの若手は出版、徴用、それに報道班員として戦地に出かける。残った人々が挺身隊をつくって、集団疎開の子どもたちの慰問に出かけるわけです。
それと年表によると、木炭増産とか石炭増産の慰問にも行くようですね。
滑川 そうです。少国民文化協会も人手不足になり、口演童話部をもつ大塚講和会(東京高師)、国学院大、大正大、東洋大、慶大などから学生一五〇名の参加を得て、原勝幹事が指導して慰問に派遣する状態になりました。日本少国民文化協会の挺身隊結成は、協会報によると、上陸してくる敵と戦う集団に転化できるようにという準備でした。「戦う 少国民文化協会」と改名論まで持ち上がっています。(p177・178)
財団法人協調会「昭和十七年版労働年鑑」昭和17年12月30日発行
而して六月二十一日には帝国ホテルに於て大日本興亜同盟第一回創立発起人総会が開かれ、新組織体の名称を「大日本興亜同盟」と正式に決定し、次の申合せを行ひ、綱領を決定する所があった。・・・
斯くて同盟成立後全国に興亜運動を展開して、下から盛り上る国民の力を凝集し、全国民をして挙げて興亜挺身隊たる熱意に燃えしめんことが期待された。(p269)
・・・松岡前外相が日比谷公会堂に於ける演説であれ丈の国民の支持を受けながら退かざるを得なかったのはその下に鞏固なる挺身隊たる同志組織を有しなかった為となし、赤誠会は橋本統領を指導者と仰いで其の下に鉄石の組織を結成せんとするもので、・・・(p308)
更に翌三日引続き同所に全国青年隊士大会を開催した。因に同青年隊は総裁統裁の下に、総司令(東西両部の司令局あり)の下に東西両部の部隊長、参謀、本部付幹部と云ふ如く整然と秩序立ち、その下に全国の青年地方部隊を二十六部隊に分ち、済々たる多士を維以て青年幹部陣容を固め果敢なる維新挺身隊の役を果さんとしつゝある。現に七月には緊迫せる内外情勢に対処して青年隊を中核としてみそぎと祈りの行により専ら党員各自の錬成と組織の拡大強化に力を注ぎ、・・・(p311)
財団法人協調会「戦時労働事情」昭和19年4月29日発行
左に商報の右運動展開に関する要領及び愛知県商報本部の「配給能力決戦体制確立要綱」を掲げて見よう。
戦力増強配給総進軍運動要領
三、配給挺身隊の結成並に活動―空襲または天災並に非常変災時に当って直ちに配給活動に挺身するのを眼目としたもので、すでに結成されたところもあるが、これを全国の商報支部管区あるひは単位商報ごとに置き、関係官庁の指導のもとに配給決戦の尖兵として働く。(p210)
慶応義塾大学医学部六十周年記念誌編集委員会「慶応義塾大学医学部六十周年記念誌」昭和58年5月15日発行
Ⅶ.空襲による災害
慶大医学部が空襲を受けたのは昭和20年5月24日の未明である。B29号が210機も飛来し、午前1時から4時にわたる大々的なものである。
翌25日の朝日新聞は「勝利は若い者の力に、慶応病院の入院患者全員救出」の見出しで、次のように報じている。
焼夷弾の集中攻撃を受けた四谷区の慶応病院では情熱と力に溢れる学徒挺身隊と看護婦、医局員の一致敢闘により、別館、図書館、予防医学教室等、8建築を猛火から救ったばかりではなく、二百余名近くの入院患者をカスリ傷一つ負わせず無事救出し了せた。
病院が襲われはじめたのは2時を20分まわる頃であった。別館屋上の監視所の学徒挺身隊員から伝わる情報が跡絶えた時、焼夷弾が北里図書館を中心に雨のようにふりそそいだ。・・・(p56・58)
日本人形劇人協会「日本人形劇人61号1997.2.21
現代人形劇史 戦時下の人形劇をさぐる(ニ)人形劇史編纂委員会 長谷川正明
また少国民文化協会による人形劇挺身隊が組織され、第一班「人形舞台場光座」(西康一)、第二班「新児童劇場・人形劇班)(小池慎太郎)、第三班「国民人形劇団」(川崎恒夫)は疎開児童の慰問公演に、・・・(p7)
※年表の1945年の項
◇東京大空襲 3月
■人形劇挺身隊・第三班・国民人形劇団(代表=川崎恒夫)
疎開児童慰問公演~10月
http://www.ningyogekijin.jp/kaiho/k61.pdf
一九四一(昭和十六)年十二月八日。当時「大東亜戦争」と呼ばれた太平洋戦争は目覚ましい勝利と共に始まり、終わりの見えない日中戦争の閉塞感を払拭した、かに見えた。
これに備えるかのように、九月には「民心ノ鼓舞」を目的とした「演奏家協会音楽挺身隊」、十一月には音楽家の一元化組織「日本音楽文化協会」が発足した。
http://www.gentosha.jp/articles/-/4075
山田耕筰
1940(昭和 15)年演奏家協会を設立。太平洋戦争中は数多くの戦時歌謡や軍歌を作ったほか音楽挺身隊隊長、日本音楽文化協会会長などを務めて戦争遂行に協力したこ とから、戦後は“戦争犯罪人”として批判された。
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/yokohama/information/doc/record_yamada.pdf
早稲田大学編集輯部「日露戦役史」後編 明治39年5月15日発行
乗馬戦闘員は我勇猛なる騎兵の特長とする所なるも、日露戦争中、其の実例甚だ少し、長沼挺身隊、馬男木中隊、騎兵第一旅団の某地に於ける突撃の三ありし外、一年有半の戦争中、殆ど之なし。(p617)
日露通信社「日露年鑑」昭和12年12月5日発行
赤軍の捕虜活用法
〔訊問の理論と実際〕
〔捕虜の供給資料〕
・・・西部ヨーロッパの戦場に於ては兵卒は尠くとも次のことを知ってゐる筈である。
・・・二三、空中挺身隊の有無、その所在地及推定利用価値。(p113~115)
慶応義塾幼稚舎「慶応義塾幼稚舎史日録」昭和40年10月10日
(昭和19年)一一月一二日(日)夜六時より野田屋にて映画あり「肉弾挺身隊」「シンガポール総攻撃」(寮日記)(p338)
米軍の上陸前空襲が激化する中、三月二十五日には県庁を首里城下の軍司令部壕に移したが、同三十一日、米軍第四二〇砲兵大隊が神山島に上陸し、大砲二四門を据えて首里、那覇を攻撃するに及び、県庁各課を数か所に分散移転し、島田知事は繁多川の那覇警察署壕に移った。その後、五月六日には残った県庁職員で「沖縄県後方指導挺身隊」を組織し、戦意昂揚、夜間増産、壕生活指導を三本柱とする任務に就くが時すでに遅く見るべき成果を上げることは出来なかった。知事らは更に南部への後退を余儀なくされ、遂に六月三日挺身隊を小集団に改編し、避難民と行動を共にし、住民保護に当たることを命じて、県庁機構は自然崩壊に至った。沖縄戦では「島田知事以下約四〇〇名の職員が殉職した」(『沖縄県史』第一巻・通史、八九〇頁)のであった。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu077.htm
「南東方面海軍作戦」朝雲新聞社 1971年
第三章 一木支隊のガダルカナル島輸送と第二次ソロモン海戦 五〇五
四 ガダルカナル島の戦闘 五三一
その後のガダルカナル島守備隊の状況 (531)
挺身隊の偵察攻撃 (534)
https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000001227725.html
川端新二「15歳の機関助士―戦火をくぐり抜けた記者と少年」交通新聞社新書
国鉄職員による石炭採掘
徐々に炭質はよくなってきた。貯炭でなくて、掘りたての新鮮な石炭が徐々に出回ってきたのである。12月になると、国鉄職員が九州の炭鉱へ石炭の採掘に行くことにまでなった。
軍隊から多くの職員が現場に戻ってきていて、人員は過剰になっていてその点では問題はなかった。名古屋鉄道局管内では約700人の職員からなる「鉄道増炭挺身隊」が組織され、臨時列車で九州の三池炭鉱へ向かうこととなった。
増炭挺身隊の希望者を募る掲示を見て、国鉄職員の給料のほかに手当てがたっぷりもらえそうだ、食事もきっといいに違いない、九州見物だってできそうだと単純に考えた私は、友人を誘い2人で指導助役のところに申し込みに行った。(p72)
大野市史.第14巻 (通史編 下 (近代・現代))
写344 配給挺身隊の腕章 井部礼子氏
https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/024474985.html
日本の装甲列車 潮書房光人社/2013.3.
第4章国鉄の動員
(1)鉄道省派遣員(鉄道挺身隊)の派遣 303
https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/024251009.html
新・日本文壇史. 第6巻 岩波書店/2011.8.
第三十三章 武田泰淳と安徽省のK村115
歩兵輜重二等兵上海へ入る
徐州、徐州へ軍馬は進む
泰淳とコレラ
泰淳と岩仲挺身隊
https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000011265231.html
東亜聯盟期の石原莞爾資料 同成社/2007.3書簡・文書213▲十月二十八日付曺寧柱葉書 空手を通じて東聯挺身隊を組織
https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000008506116.html
もう一つの陸軍兵器史 : 知られざる鹵獲兵器と同盟軍の実態 光人社/2004.2
第三章 大東亜戦争と同盟軍
ジャワ防衛義勇軍ジャワの兵補 ジャワ防衛義勇軍 イ号勤努隊 回教青年挺身隊
https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000004335672.html
「挺身隊」という言葉を使用した記事をピックアップするのは大変でしたね。
これをどう植村隆氏の擁護に結びつけるかって所かな?
「挺身隊という言葉がこれだけ氾濫していたら、誤用も仕方がない」ってぐらいにしか俺には思いつかないが、白馬鹿さんの手腕の見せ所だね!
そうそう
最近、2ちゃんお仕事カキコの成果精算方法が変わりましたか?
VIPでどれだけ安価つく?
スルーされまくりのスレ一度見たけど、東亜で言われていた通りだったね。www
知名度はしっかり上がった白馬鹿さん
モドキが時々いて「白馬事件」のレスしてるけど、まだまだ勉強不足。フルで突っ込まれると、厚顔無恥な白馬鹿さんみたいな真似ができず、すぐ逃走する奴ばかり。
そこそこ安価稼ぎはできてるみたいだけど、あれで精神的に持つのかなぁ?
本人がダメージ受けてる事を無自覚だと、気がついた時は手遅れだよ。
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ
そーいえば、しまむー班長が今月は来れないってレスしていたけどさぁ
「スヒョン文書」の火消しに専念させてるの?
検索結果がどんどん減ってるらしいからね。
今回かなり拡散されたから、もう無駄だと思うけどなぁ。
まあ頑張ってね。アハハハハハハハハハ