「白馬事件」(スマラン事件)

 政府は河野談話にあたって1991年12月から93年8月まで関係資料を調査し、関係者からの聞き取りを行い、関係資料は内閣官房外政審議室が文書にまとめています。
 赤嶺氏は、その中に「バタビア臨時軍法会議の記録」が収録されていることを指摘。安倍内閣の答弁書は資料の出典を認め、「ご指摘のような記述がされている」と答えました。
 バタビア臨時軍法会議(スマラン事件)は、日本軍がジャワ島スマランなどでオランダ人女性らを慰安婦として使う計画を立て、その実現に直接・間接に関与したことを明らかにしたものです。「慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどした」などと記されています。
 政府は、赤嶺議員の答弁書で初めて、この事実を公式に認めましたが、強制を示す文書を保有していたことを認めた以上、07年の答弁書の虚偽性は明らかです。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-24/2013062402_02_1.html

 判決文には将校らの証言として「州警察の長に、遊女屋用の女をキャンプで選出するよう依頼した」「婦女は○○(将校の名)の要請により州の役人が連れ出した」「女たちは遊女屋に入るまで、どういう仕事をするのか聞かされていなかった」と記載されている。
 資料に含まれ、(能崎)中将が帰国後の66年、石川県庁で行われた聞き取り調査の記録によると、中将は「連合軍の取り調べとなると、婦人たちもあることないこと並べたて、日本軍部を悪口する」と戦犯法廷に反論する一方、「(慰安婦となる)承諾書を取る際も若干の人々に多少の強制があった」と述べた。
https://web.archive.org/web/20131013080931/http://www.47news.jp/47topics/e/246352.php

被害者が白人女性だったことから、日本人の間ではこの事件は「白馬事件」という下卑た名で呼ばれていた。戦後、オランダ軍のバタビア(現在のジャカルタ)軍事裁判で、慰安所を開設した南方軍第一六軍幹部候補生隊の隊長、能崎清次中将と慰安所開設の立案にかかわった池田省三大佐、岡田慶治少佐ほか軍医や民間人の慰安所経営者ら十三人が強制売春、強姦などの罪で裁かれた(階級は終戦時)。(p152)
(「BC級戦犯」を読む 日経新聞社)

スマラン郊外の数カ所の民間人抑留所から女性が集められた。その際、オランダ人女性には読めない日本語で書かれた同意書に署名させたり、「仕事の種類が記されていなかったことがわかった」(公判での池田大佐の供述)。計画の中心的役割を果たしたとみられた大久保大佐は、戦犯容疑者となったことを知り、故郷仙台で自殺している。遺書には「能崎に責任がある」とあり、これも裁判では証拠資料となった。

裁判で通訳を務めた元主計中尉は62年の聞き取り調査で・・・「こんな恥ずかしい事件はほかにはなかった。弁護人もさじを投げていた。人道上の罪を犯した事件といえば蘭裁判でこれくらいのものだろう」と厳しく批判する。

裁判で弁護を担当した萩原竹治郎弁護人へ、1958年に聞き取り調査が行われている。そこでは、この事件を含め日本軍の戦争犯罪を裁いたオランダによるバタビア裁判全般について「起訴状に出ているくらいのことは事実であったと思う。」「実際にやっているのに無罪になったものもいる。戦犯的事実は起訴された5倍も10倍もあったと思う。」と厳しい意見を述べている。

岡田慶治少佐(南方軍幹候隊歩兵隊)
・石田か或は他の中の一名が余に対し自由意志に基く婦女45名の名簿の中にも自由意志に基かざる者が数名ゐると云ふことを報告し来れり。
・35名の婦女の中にも慰安所にて働くことを志望せざるものが数名をると云ふ話も聞きたり。

下田真治(軍属・慰安所「双葉荘」経営主)
・他の「キャンプ」にては婦人達は恐怖の為事務所へ来ず、一騒ぎありたりとのことを聞けり。
・之等7名の婦人が余の慰安所に来りたる後、余は中に自由意志に依らざる者あることを認めたり。…之を福田中尉に報告せり。而るに彼は「どうにもならぬ。構はぬから働かせよ」と云ひたり。

蔦木健次郎(軍属・慰安所「将校クラブ」経営主)
・岡田は全員を集めて通訳を通じて、彼女等に彼女等は慰安所に入れられたのである。故に皆其の心算で行動せねばならぬと告げた。
・彼女等の第一夜は斯くして開始せられた。…1乃至2名の婦人の泣声を聞きたり。…余は又婦人達が泣いてゐるのを何回も見たり。
・貴下は婦女達の泣くのを良く見たりと云ふも、理由如何?…慰安婦の仕事が嫌で泣きたるものと思考す。

山口元吉(第16軍兵站参謀)
・岡田少佐は友人たる憲兵隊村瀬少佐から、当時規定等は遵守の要なし、宜しく強制的にやるべしと云はれたり。

尾西久太郎(憲兵中尉)
・岡田は「スマラン」及「マゲラン」の慰安所開設の許可申請に「バタビヤ」に来たる際、佐藤少佐と村瀬少佐と数回に亘り会見し、斯かる際に村瀬は岡田に対し強制的に抑留婦人を以てする慰安所の開設を勧め、若しも問題が起りたる際は村瀬が責任を負ふと云ひたりとのことなり。
http://blog.goo.ne.jp/aehshinnya3/e/b8877ccf7b8c0d3175a33562225f2463

池田省一 陸軍大佐 懲役15年   
岡田慶冶 陸軍少佐 死刑   
河村千代松 陸軍少佐 懲役10年
村上類蔵 軍医少佐 懲役7年   
中島四郎 軍医大尉 懲役16年   
石田英一 陸軍大尉 懲役2年
古谷巌 軍属 懲役20年(スマラン倶楽部)    
森本雪雄 軍属 懲役15年(日の丸倶楽部)
下田真治 軍属 懲役10年(青雲壮)  
葛木健次郎 軍属 懲役7年(将校倶楽部)   
大久保朝雄陸軍大佐 訴追を知り自殺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A6%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

オランダ政府報告書は白馬事件のほかにマゲランなどの事例を挙げている。
以下「『慰安婦』強制連行―史料 オランダ軍法会議資料×ルポ 私は“日本鬼子”の子」(株式会社金曜日)より抜粋。
『旧オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する売春強制』
外務大臣よりオランダ国会下院議長宛の書簡
デンハーグ 一九九四年一月二四日

私の同僚の厚生・文化大臣にも代わって、オランダ各所の古文書館に所蔵されてある売春強制に関する資料の調査が最近完了しましたので、ここにその調査結果をまとめたものを貴殿にお送り申し上げます。・・・

この書簡の写しは、この報告書を添えて、常任外務委員会並びに常任厚生・文化委員会の書記にも届けます。

さらに、この報告のことは日本政府当局にも通知致しますことをここに申し添えます。

外務大臣 P・H・コーイマンス
(p212・213) 

日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告

序論並びに要約
一九九三年八月、外務大臣と厚生・文化大臣は日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関する調査を指示した。この調査が指示されたのは、政府公文書保管所に保管されている文書の包括的な目録、並びに情報源を詳しく明示したうえでの分析結果の要約の必要性が痛感されたからであった。(p214)

この調査目的のために、オランダ領東印度での戦犯・利敵協力者に関する調査、起訴、裁判を担当した所轄政府機関によって作成された公文書を対象として調査は進められた。・・・これらの文書は主として証人、被害者、容疑者などに関する陳述書や戦犯ならびに利敵協力者を裁く任にあたったバタビアの臨時軍法会議における数件の判決文(それに関連した文書も含めて)から成る。(p215)

調査結果によれば、オランダ領東印度各地の娼楼にヨーロッパ人女性を送り込むために日本占領軍が実力行使をした事例が数例あった。娼楼で働いたニ〇〇人~三〇〇人のヨーロッパ人女性のうち約六五人は売春を強制されたことが絶対に確実である。以下は調査によって明らかになった事実の概要である。(p216)

●マゲラン
 強制売春のもっとも悪名高い事例はマゲランとスマランにおけるヨーロッパ人女性への軍娼楼への連行である。日本軍は近くのムンティラン抑留所からマゲランの娼楼にヨーロッパ女性を連行して働かせることに決め、一九四三年一一月、マゲランの日本人州長官と憲兵隊将校が抑留所内のリーダーたちに連絡をとった。その結果、バーの女給として働くのに適当な候補者の名簿ができた。一部の母親たちはただちに疑惑を抱いて、リストを見せるように抑留所の指導層に要求した。四四年一月二五日、日本軍も名簿の写しを持っていることが明らかになった。この日、バスで抑留所にやってきた日本人たちは選びだされた女性たちを検査のために礼拝堂(抑留所は修道院の敷地内にあった)に来るように指示した。礼拝堂では抑留所のリーダーたちと医師団がこのやりかたに抗議し、外には夫人たちや一六歳以上の少年たちが集まっていた。日本人たちが選んだ女性を連れて抑留所から出ようとしたとき、暴動が起こった。日本人とインドネシア人警官らは抜刀し、群衆に向かって行って、暴力で応じた。結局、日本人は女性たちを連れて抑留所を出ていくことに成功したが、三日後に戻って来て、彼らが連れて行った女性たちの身代わりに自発的に行こうという者を出してはどうかという提案をした。すぐに、数人の志願者が見つかった。主として抑留所に来る前まで売春婦だったと評判のある女性ばかりだった。
 彼女らが抑留所から連れて行かれるときには抗議行動はなかった。警察署で日本人たちが、抑留所のリーダーたちの面前で、さらに女性の選考を実行した結果、二人の志願者と最初に連れていった女性の内の二人(そのうちの一人は一四歳の少女だった)がムンティラン抑留所に送り返された。四四年一月二八日、残りの十三人の女性(四人の未婚の少女を含む)はマゲランに連れていかれ、そこで乱暴に検査され、強姦され、売春婦として働くことを強制された。(p228・229)

●スマラン(※白馬事件)
 現地の日本陸軍幹部候補生隊の少佐がスマランに、抑留所からヨーロッパ人女性を連行して来て軍の娼楼を設置するように主導した。兵站将校代理として、彼は上官たちに計画に同意してくれるよう説得した。スマランの将校との話し合いの際、バタビアの第一六軍司令部の指揮官たち(当時の参謀総〔ママ〕長とその後任を含む)はこの目的での営業許可証を発行することを許可した。ただし、自発的志願者だけを使うことなどの通例の条件が満たされる必要があるとした。スマランで計画を実行する前に、上記の少佐はバンドンの兵站将校から情報を得て、ヨーロッパ人女性が働いている軍娼楼を訪れた。大規模な女性狩り出し作戦が実行された。四四年二月の最後の二週間の間、彼らはスマランに近い七カ所の婦人抑留所を第一回目の女性選びの目的で訪問した。しかし、三カ所の抑留所、スマウオノ(アンバワラ9―Ⅱ)、バンコン、ランパサリ(ソンボク)ではヨーロッパ人リーダーたちが猛烈な抵抗をしたため、日本人は諦めて帰った。
 残りの四カ所の抑留所では日本人は成功をおさめ、二月の最後の週に、スマランンの娼楼の日本人経営者たちの立ち合いのもとで、第二回目、第三回目の女性選びが行なわれた。これらの女性たちを選択した目的は決して明らかにされなかった。四四年二月二六日、女性たちは抑留所から連れ出された。ハルマヘラ抑留所で選ばれた一一人のうち、三人は病気だったので、連れ出されたのは八人だけであった。病気の女性の代理を申し出た女性がいたが、日本人はそれを断った。数日後、女性の一人―一六歳の少女―が若すぎるということで抑留所に戻された。ハルマヘラ抑留所の後、日本人グループがアンバラワ第六とアンバラワ第九の二カ所の抑留所を訪問した。この二カ所の抑留所の女性たち、とくにアンバラワ第九抑留所の女性が強く抗議したにもかかわらず、日本人は自分たちが選んだ女性を連れ出すことに成功した。各々の抑留所で選ばれた九人の女性たちは力づくで連行された。
 最後に日本人はゲダンガン抑留所に到着したが、ここでは猛烈な反対にあった。結果として、他の三つの抑留所の場合とは違って、彼らは自発的志願者で満足せざるを得なかった。ムンティラン抑留所の場合と同じく、自発的志願者は抑留所に来る前は売春婦だったとの評判のある女性たちだった。スマランに到着するや否や、ゲダンガンから連れてこられたこういった女性の何人かはもとの抑留所に送り返されたが、少なくとも一〇人は残った。このようにして少なくとも三六人の女性が集められたが、そのうち少なくとも二四人―すなわちハルマヘラ、アンバワラ第六、ならびにアンバワラ第九から連れて行かれた女性たちが、スマランの軍娼楼で売春婦として強制的に働かされた。彼女たちは乱暴に検査され、強姦され、殴られ、そして強制的に日本人の男の相手をさせられた。二人の若い女性は逃げ出そうとしたが、警官につかまり、娼楼に帰された。そのうちの一人は自殺未遂をした。また一人は気が狂った風を装って、精神病院に監禁された。また、一人はスマランの病院で妊娠中絶の処置を受けた。
 四四年四月の最後の週になってヨーロッパ人女性が働いている娼楼は突然閉鎖された。東京の陸軍省の民間抑留所と捕虜抑留所の監督責任者の大佐がジャワの民間人抑留所の現地調査に来た結果であった。娘をとられたアンバラワ第九抑留所のリーダーの一人がこの大佐との会見をなんとかして取りつけ、彼女たちの身に起こったことを訴えた。大佐はこのことをバタビア、シンガポールと東京に報告し、スマラン娼楼の即時閉鎖を勧告した。バタビアの軍司令部はただちにスマランの将軍にその旨を命令して勧告に応じた。戦後、此の将軍と彼の部下数名とその他の日本軍人、日本人業者、性病検診を担当した医師らはバタビア臨時軍法会議で裁かれた。上記の立案者であった少佐は死刑判決を受け、他の者も禁固刑の判決を受けた。責任者の一人である日本軍人の一人は逮捕される前に日本で自殺した。
 スマランの娼楼で働いていたヨーロッパ人女性たちは母親たちとともに四四年の五月初旬にボイテンゾルグに近いコタ・パリス抑留所に移され、同年一一月初旬にバタビアの近くにあるクラマット抑留所に移された。バタビアとバンドンの将校倶楽部、マゲランの娼楼、プカロンガンの"カイカン"で働いていたヨーロッパ人女性たちもこれらの抑留所に移された。同時にマランの娼楼の女性も何人かは上記の抑留所に移されたが、彼女らについての情報はない。全部合わせると、一〇〇人以上の女性が娼楼からこれらの抑留所に移された。マゲランとスマランで働いたことのある二人の女性の証言によると、これらの女性の中で強制的に売春行為をさせられたのはほんの一部で、三〇から三五人であった。また、この証言によれば、他にも数名、プカロンガンとマラン出身者、全部で三人がこの範疇に属していた。

●スマラン/フロレス
 ここでは一九四四年四月中旬に起った日本軍娼楼で売春を強制されたヨーロッパ人女性についての事件を特筆すべきであろう。上述の娼楼閉鎖の数日前、警察と憲兵はスマランで手入れを行ないおよそ一〇〇人もの少女や未婚の若い女性を捕まえ、四つの軍の娼楼の一つであるスマラン倶楽部(元スプレンディッド・ホテルとして知られている)に連れて行き、女性の選考を行なった。連れて行かれた女性たちは依然、飲食店で働いていたり、さまざまな理由で警察や憲兵にあまりよく思われていなかった者たちであった。捕まえられた女性たちの中には抑留所の外に住んでいたヨーロッパ人もいれば、インドネシア女性もいた。夕方になると、怒った女性たちの家族や友人たちが大勢スプレンディッド・ホテルを囲んだ。二〇人ほどの女性が選ばれ、乱暴に検査された後、翌日、汽車に乗せられてスラバヤに輸送された。二カ月後、そのうちの一七人(一人は病気、二人はスラバヤで逃走)が船で軍の娼楼に輸送され、売春婦として働くことを強制された。このうち七人はヨーロッパ人女性であった。(p228~232)



 一九九九年度に法務省から国立公文書館に移管された東京裁判(極東国際軍事裁判)関係文書「A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.一六)、(NO.五三)、(NO.五四)」の文書綴りに、軍や官憲が「慰安婦」被害女性を強制的に連行した証拠書類が残されていることが判明している。書証番号三五三の「桂林市民控訴 其ノ一」、書証番号一七二五の「訊問調書」、書証番号一七九四の「日本陸軍中尉ノ陳述書」である。
 書証番号一七二五の文書には、被害女性の証言として「私ヲ他ノ六人ノ婦人ヤ少女等ト一緒ニ連レテ収容所ノ外側ニアッタ警察署ヘ連レテ行ッタ。(中略)私等ヲ日本軍俘虜収容所事務所ヘ連レテ行キマシタ。此処デ私等ハ三人ノ日本人ニ引渡サレテ三台ノ私有自動車デ「マゲラン」ヘ輸送サレ、(中略)私達ハ再ビ日本人医師ニ依ッテ健康診断ヲ受ケマシタ。此囘ハ少女等モ含ンデ居マシタ。其処デ私達ハ日本人向キ娼楼ニ向ケラレルモノデアルト聞カサレマシタ。(中略)私ハ一憲兵将校ガ入ッテ来ルマデ反抗シマシタ。其憲兵ハ私達ハ日本人ヲ接待シナケレバナラナイ。何故カト云ヘバ若シ吾々ガ進ンデ応ジナイナラバ、居所ガ判ッテヰル吾々ノ夫ガ責任ヲ問ハレルト私ニ語リマシタ。」と記録されている。

インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック
日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告一九四六年七月五日

一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ(同人は一九四三年八月頃日本に帰国したり抑留を要求し置けり)は日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。・・・・日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/05/0705j0509-00001.htm

「海軍特別警察隊」太平出版社、1975年

 民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!! 娘を返せ!! と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/gunkyouseirenkou.html

海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会編『滄溟』
 
 M参謀は……アンボンに東西南北四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とは、マレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、決められた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと、強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらされるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。

この裁判において、山西省平魯縣警察隊指導官■■■■は、「驢馬を」「没収」した容疑や、「中国人婦女を徴集し、強迫して娼婦となした」容疑で起訴され、前者は有罪、後者は無罪と認定され、10年の判決が言い渡された。後者に関しては、1945年3月15日、大同に出張し、そのまま大同警察指導官に転勤となったとの主張に加え、「婦女を徴集して脅迫して娼となしたのは警備隊太■中尉が主管であ」り、「関係がなかった」と主張し、無罪となっている。
・・・つまり、この裁判における「強制的売春のための婦女子の誘拐」事件は、警察隊と警備隊のどちらに責任があるのかが争点となっており、「強制的売春のための婦女子の誘拐」自体を否定したものではない。


 次の資料も強制連行と思われる。
蘭・バタビヤ法廷事件番号第二五号 三警事件資料
供述者 ○○○○(元海軍兵曹長)
調査者 豊田隈雄
日時 昭和三七年八月八日(水)一四、〇〇から一五、三〇まで
場所 大阪矯正管区、管区長室

(注)本調査は大阪矯正管区長松岡武四郎氏の調査の際、管区長の好意により、調査対象外なりしも、電話招致されたるにより、併せて聴取したものである。


 ・・・この酋長事件以外は、殴った蹴った程度のもの許りであった。
 私の本当に恐れていたような大事件は遂に出ず幸であった。

私の一番恐れていた事件は、慰安所事件であった
 これは慰安婦の中には、スラバヤから蘭軍下士官の妻君五人の外、現地人七十人位をバリ島に連れて来た件である
 下士官の妻君五人は、終戦後直ちに送り返したが、スラバヤ着と同時に原住民に殺されたとのことであった。
 この外にも、戦中の前後約四ケ年間に二百人位の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ。
 私は終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、約七十万円を本件の工作費として貰い受け各村長を介して住民の懐柔工作に使った。
 これが完全に功を奏したと見え、一番心配した慰安所の件は一件も訴えが出なかった。
○原住民は一般的に性的には風紀は紊乱しており、一応は慰安婦となることを嫌うが、一度連れて来られ衣料等の支給を受けるとまるで平気な素振りであった。
 なお、バリ島住民は宗教的にヒンズー教徒で、親日的であり、この点ジャバ島のイスラム教徒と対日感情も異るようである。
 バリ島で重大事件が発覚しなかった理由は、こんなところにもあったかも知れない。(3~4枚目)
https://wam-peace.org/ianfu-koubunsho/pdf/M-PDF/J_J_012.pdf