○ アルタイ山麓の一寒村に伝わる秀衡謹製の手鏡
 茲に掲げるのは明治三十八年に収めた義経関係の一資料である。之に依るっても余の義経研究は殆ど二十年前から着手して居るのを知るであろう。即ち同年二 月十一日發行の台湾日日新報所載の記事が是れである。之に依れば義経は其の大恩人である秀衡の霊代として秀衡製作の鏡を蒙古に携帯したものヽようである。 之れは以前蒙古に在って実見せる志士が日露戦役當時台湾に来て語った実話であって、其記事は次のようなものである、
 昔の蒙古部なる今の西比利亜バイカル湖辺に在るアルクスクより凡五十里程アルタイ山に近きアラールス・スカヤテープと称する処に邑落あり、此地は全く開 墾せられあるも一面は沙漠地にして人家十二三戸なるも山陰などに散在する幕舎を数ふれば相當の戸数に上るべし、人種はブリヤートと称する蒙古人にして鼻低 く頭は平圓なり。此処に古き喇嘛廟ありて僧侶八人之に住す。此の廟の祭禮には婦女は金色を以て飾りたる帽子を戴き、男子の兢馬及び相撲等の餘興ありて其の 有様は恰も我日本の國風に酷似し、殊に廟の東方に向つて安置されたる神鏡は、一見して日本古代の製作其の儘なるを以て住僧に其の由緒を問ふに、昔異国より 渡来せるものなりと傅ふと、併し如何に見ても日本鏡に相違なければ不思議晴れず之を手に取りて検するに、果して其の鏡の裏面には高砂の尾上の松と尉姥の両 像と鶴亀を彫刻しあり傍に正三位藤原秀衡朝臣謹製と刻せり。是に於て起る問題は此の鏡が果して何れの時代に何人に依りて之を傅へられしか、叉如何なる因縁 によりて海陸数千里を隔てし此の蒙古の地に持来られたるものなるやは何人も源義経の往事を想ひ起すことなるべし。然らば曾って傅へられたる成吉思汗は源義 経の後身なりしこと否定し得べからざるものあり云々と。
 眞理は到底永く埋没しわすれ去らるゝものにはあらず、斯て其の光明は七百有餘年後の今日に輝けるのは偶然と謂ふべきではないであろう。