○ 露国人漆喰にて義経碑の碑文を塗抹す
 著者はハバロフスクの博物館に持運ばれた此の台石の上の石碑の調査を著者の友人で當時浦潮派遣軍司令部の弘報部主任であった中岡中佐に依嘱して帰朝した が、後に同中佐から左の報告を著者に恵迭せられた、其の文に曰く、「ハバロフスク博物館に在る所謂義経の碑と称するものは白色を帯びた花崗石の一種であ る。右石碑の表面には厚くセメントの漆喰を塗り何物かが彫刻したものを隠蔽していた。土人のいうところに由れば大正十年日本軍がハバロフスク撤退後過激派 したことであると、併し博物館長は此の漆喰が何れの時に塗られたのか覚えていないと答へた、かくして拙者の友人は碑面の漆喰を打ち壊して碑文を見ようとし その着手中に巡警が来て之れを制止されたと云う」。露國人が殊更に此の石碑を漆喰で塗り碑文を隠蔽したのは自国に不利な記事がある故ではなかろうか。元来 右の古碑は日本道と呼ばれた雙城子の市邑の中心地である今の公設市場の在る処の東南の入口に建てたものであって、現に此の碑の亀の台石を乗せた下層の巨大 なる台石は流石の露國人も運搬することが叶わなかったと見え、大部分土中に埋れて現場に委棄してあり。露国政府が此の市邑をヱコリスクと改称し此地の古城 祉を公園とするに及び石碑を其の公園内に移し、而して日露戦役前後に亀の台石を此所に残し其の上に建てたる碑をハバロフスクの博物館に運び去ったのであ る。
 大正七八年の西此利亜出兵に際し我が守備隊は所謂義経公園の正門の前面に屯営し、著者も調査中此の営内に宿泊したが一部を公園とした古城祉の形状は我が 國の城址に彷沸とし、武家屋敷跡とも思はるる城濠外の荒廃せる町跡は所々に礎石を残して草茫々としているが、地勢の雄大にして要害堅固なのは他に多く看る ことのない処である。ニコリスクの新市街は此処を距る約一里の地に在る為め古城址附近の土地は多く人に顧みられなかったため幾百年前の面影を僅ではあるが 今に伝えているのである。露國が此地方一帯を其の版図に収めてから軍事上此地を最も重要視し永久に亘る諸般の壮大なる軍備施設をもうけたのを見ても、古人 が緊要地帯として拠りった処は今の人にも同一であって将来の人にも亦た同一であることは論を待たない。往昔此地に拠った義将軍は果して義経出会ったのか否 か章を改めて之を詳説しよう。