○ ハバロフスクに笹竜胆の紋を着けたる武像も祀る廟あり
深見家の最も奇異に感ずることは東部西比利亜及び満洲等を旅行して彼地に日本式の古い神社の在ること及び笹竜胆の紋章を用ゐ居ると且つ満洲人に姓を源と
名乗る者が多いと聞くこと等である。雙城子の古碑に笹龍膽を刻んであるといひ、ハバロフスクの博物館には其の地方より發掘したといふ日本式の古き甲胄の一
部及び笹龍膽と木瓜の紋章がある朱塗の古き経机があるといひ、或はハバロフスクに以前義経を祀った神社があったといひ、興安嶺にも日本式の神社があるなど
一々枚拳に遑がない。実際を目證せる人士の一例としては、新潟県岩船郡村上町の出身で栗山彦三郎と云ふ人がある、氏は内藤家の舊藩士であって壮年の頃東京
に出でゝ學び政治界にも奔走したが日清戦役の前年部下を率ゐて沿海州に渡りハバロフスク地方を探検したが、當時ハバロフスクに土人の崇拝する日本式の神社
があって土民即ち支那山丹人等はこれを「源義経」の廟と称してゐたと。栗山氏は部下と倶に或日人無き機會を窺び廟内に忍び入り神體を検するに笹龍膽の紋あ
る日本式の甲胄を着けたる武者の人形であったと。吾人は眞面目なる栗山氏の此の実談を以て信憑するに足るべき筆者のものした文献と同一の価値あるものと称
するに躇躊しない。 猶ほ之に類する事柄で、著者が現に目證した事実は章を重ねるに従て判明するであろう。斯の如く義経の生前由緒ある処には土民必ず神社を建てゝ祀ることは我 が国にあっても其の実例に乏しくはない、乃ち京都の鞍馬には固より陸奥の平泉にも或は宮古及び八ノ戸にも義経神社あり、往昔の蝦夷で今の北海道日高沙流郡 の平取にも義経神社があって、大正十一年七月皇太子殿下北海道御巡啓の節同月廿二日殿下には畏くも右の義経神社へ侍従を差遣し給ひたる事あり。斯の如く懿 徳旺なる武将であるから国外に在っても人に崇敬せられ、前記のハバロフスクに於ては素より、蘇城にも雙城子にも興安嶺にも盛徳の武神として祀られ、蒙古に 在っては佛教が興隆したのと武将終焉の地である事から神社に代わるに佛寺即ち喇嘛廟を以てし毎年其の忌辰に盛大なる祭典を営んでおり、猶これに就いては第 十章及び第十二章に詳説する。 Copyright(C) 2010 Kuwaichi.dip.jp, All rights reserved.
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