○ 古昔雙城子と日本との関係
高い古積層の上に建てられた雙城子の市邑は同じく他方の高地に位置するニコリスク停車場を距る南方約一里の処にあり。此間一帯は見渡す限りの窪地であっ
て、綵芬河は其の中間を流れるのから推し往古此の南岸に碧水満々と湛へて流れていた大河であったのを推測できる。市街の東南に古城址があり、今は公園と
なっている。同市の露國政庁に就き現在(大正九年八月)の人口を調査すると総計五萬餘であって其の内露西亜人約二萬五千、朝鮮人約二萬、支那人約五千舊山
丹人其他を併せて約二千なり。日本人口は別に此地の日本人會に就て調べてみると駐屯軍人を除き四百八十七名とするが之は正規に届出した者の数であって此の
外に無届の居留者多いだろうとのことである。日露戦役前には登録した日本人口約七百を以て計算したと云ふ。陸続きである支那朝鮮人が多数入込んで居ること
は敢て異とするに足らないが、遠く海を越え而も日露戦役後の渡航者に対し繁雑な手續を要求されるのに拘らず日本人の此地に居留するものが斯のように相當の
数に達して居るのに看て渡海の自由であった往昔の状況を偲ばれるものである。 雙城子の市邑に土俗の所謂義将軍の石碑と称するものがあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は支那の将軍の碑とも傅えている。居留日本人は一般にこれ を義経の碑と称し、そうして其の建てられた市の公園を我が居留民は現に之を義経公園と呼んて有名なものである。土人は此の古碑を将軍の頌徳碑であると云 ひ、日本人の或者は義経の墓であると称するが、此の地方に多く見ることのない巨石に精巧を極めて丸彫りにした大亀の背に石碑を載せているのを観て、當時建 立した墓碑には非らずして、支那朝鮮などの例に鑑み、武将の遺徳を慕ひて建てたる遺徳碑ではなかろうかと余は鑑定した。此の古碑に対しては居留日本人は義 経公の碑として敬意を拂ひ、土着の支那人其他の亜細亜民族も古来の習慣を墨守して敬禮し、露西亜人も必す脱帽して敬意を表すのは、懿徳の廣大であった古名 将の俤を不言の裡に偲んでいるのである。而して殆ど一丈餘尺の大石を丸彫にして技巧を極めた亀の形の背に幅二尺餘りの穴を穿ち、巨碑を建てたことから推測 しても、當時非常な経費と人力を必要としたと思われ、到底一個人或は地方有志者などの力を以て建立し得べきものではなく、叉たこのような巨砕を建てられる 程の偉人として東洋史上に傅へられる武将は他に見當らないから昔此地に雌伏せるゲン・ギ・ケイの成吉思が蒙古の大汗となって後その遺徳を頌して此の地方の 有司が公費を以て建立したものであろうと推考する。 蝦夷より山丹に渡り黒龍江を溯航して今のハバロフスクからその支流てある烏蘇里河に入り其の上流の蘇城を築いた士音でキン・ウ・チヨと呼ばれるゲン・ ギ・ケイの義経は有為の材を以て永く辺境の蘇城に在ったとも思はれず、必すや水運の便があり且つ古より日本と最も関係の探い雙城子の要害に移って築いたも のあろうし、而して此地には在来の土城と新に来住せる武将の城とがあることから雙城子即ち二城の存在する都邑としての名称が起ったという傅説があるのは注 目に値する。義経が此地に渡来したとの説は沿海州に在留する邦人の大多数及び満蒙の地を跋渉せる日本人の間に漲溢する所であって、雙城子に現在居留する邦 人中に官公吏医士弁護士等の具眼者も居ることであるから信ずる所なくして濫りに此の石碑を義経の碑と称し而して其の所在する舊城址であって今は公園地と なって居る処を義経公園と呼ぶのであろう。叉當時非常に徳望の高かった偉大なる武将でなければ奚ぞ此地在留の露支満蒙の人々が此の古碑に対して古今を通じ 渝りない敬意を拂ふものであろうか。 Copyright(C) 2010 Kuwaichi.dip.jp, All rights reserved.
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