○ 西此利亜ニコリスク旧名雙城子の状況
ウラジオストックを隔たること西北廿六里餘の処にロシア地名を以て呼ばれるニコリスク市がある。今を去ること僅に六十五年前、即ち西暦1858年にロシア は愛琿條約に依って支那から黒龍州一帯の地を其の版図に収めたことによって、古来我が日本と密接な関係のあった此の亜細亜人の都邑もロシアの領有に帰した のであるが、それ以前までは此地を雙城子と呼び、渤海時代には日本道と號し叉の名を東京府と称していたのである。蓋し往昔渤海から日本に交通した衝に當る 枢要の主府であったため日本道の名称があったのであって、渤海人は此地の緑芬河を下って日本海に出で、敦賀に上陸する航路を取り、我が渤海使節も敦賀或は 太宰府から雙城子に航行し、遣唐使も後には多く此地を経て鴫緑江の上流より旅順港に下り彼の処から支那本土に往来したのであると云ふ。現に其等の地方に昔 日本の遣唐使が通行したと傅える道路が存在することから之を立證できる。
 雙城子の起原は頗る古く、城邑の附近から石器石鏃及び土器等が多く發掘せらるゝに看ても遠く有史以前より人の棲息した処であるのが頷かれる。往昔此地は 粛惧の一都府であって日本に交通する沿海無二の大河港であるところから當時日本府とも称した。阿倍比羅夫が大河の辺に政所を置いたと我國史に傅へるは蓋し 此の日本府では無かろうか。今を去る三三百年前、粛慎は長白山一帯の地を併せ高麗の故地を回復し唐朝の封冊を受けて新たに渤海國を建て都を寧古塔に奠ん だ、而して其の勢威は朝鮮満洲及び今の沿海黒龍の諸州に亘り、尚ほ日本海を越え日本との交通も旺に行はれた事は彼國で雙城子を日本道と呼び、我國でも筑紫 に大宰府を設けて専ら海外の事務を綜べ、別に鴻濾館を起して藩客を接伴する所と定め、越前の敦賀と筑前の今津を貿易港とし、後には太宰府より出入の船舶に 制限を加ふべき旨を彼國に申出たのに看ても其の繁盛の一端を覗はれる。彼地から輸入する重なものは虎豹其他珍獣の毛皮で、奈良朝時代より延喜天暦年代に我 が朝廷及び上流の社會に珍らしい獣皮を使用することが流行したことは古書に散見する所である。彼地にあっては日本の美しい絹織物が大いに珍重せられたとの 傅説を存している。
 其他今に遣る口碑の断片によると、往昔多くの日本人が居住していた。曰く漢文を能くする日本人が漢詩を以て應答せり。曰く當時日本の歌妓即ち鎌倉時代の 所謂白拍子も居りたり。曰く日本の武将も来り居り市島に建てあるは其の武将の碑なり云々。叉曰く石碑の多くは古跡及び廟内其他宮殿等より發見したる古文書 と共に、此地方が露國に属せしとき露都に運び去られたり云々。仔細に穿整すれば猶を数多くの傅説の遺るものがあるであろう。