2004.10.24
丹波、義経の系図
 その系図が丹波の足立正巳氏から送られてきたのは、その年の暮れに近かい12月中頃の事でした。
 それは義経から始まって五代まで、山垣の足立家二代目の足立政基に嫁いだ女の所までのものでした。詳しくは『鎌倉時代の武将達 本館』の義経のサイトに書き込んでいます。
長沢遠種は、藤原南家、巨勢麻呂の子孫で小山忠門の後裔であるといいます。この忠門は『将門記』に出てくる藤原維幾の一族に当たり、兄或いは父という経邦は武蔵守を務めた事もありました。 その後、子孫として発見した篠山市大山地区徳永の中澤氏の系図によって小山忠門は承平年中に関東から移り住んだと云いますから、もしかしたら上野国国衙を攻 めた将門の乱の時維幾の息男、為憲に味方したか、或いはその戦いにまきこまれて逃れてきた可能性も否定できないと思います。栃木県の小山(おやま)市に居 住していたかも知れないからです。
 さて、この系図を受け取って私は大変悩む事になりました。それは義経の所に書かれた文言に原因していたのです。もちろんそれは漢文で書かれているのですが途中から、義経は平泉を逃れて大陸に渡り、ジンギスカンになったと書かれていたのです。その後この文言を『尊卑分脈』に書かれたそれと比較してみますと、大陸に渡ったと書かれた最後の部分を除いた途中までは98%程の確立で同じ文章である事がわかりました。さらに『大日本史料』の文治5年4月30日の所に、『尊卑分脈』からの引用として書かれた文言が全く同じ内容である事を発見したのです。そのことから考えると『尊卑分脈』には二種類の版が有った事になります。この問題は大変大きな問題を含んでいますので後ほど改めて取り上げる事にしたいと思います。その全文は次の通りです。

義経     号九郎冠者 又号九郎大夫判官
         丹波国長澤氏中澤氏等之祖
         母、九条院雑仕常磐


二条院御宇平治元年丁卯春二月初三日誕生幼名牛若丸或紗那王丸、平治元年十二月之乱逆、父義朝没落之後、母常磐懼公方之責、相随三人之幼子沈落大和国方其時 義経二歳有母之懐抱く其後母上洛之後自七歳入鞍馬寺有出家望一和尚東光房阿闍梨賢日成弟子与善材房覚日房共自幼日之時、頻嗜武芸亦代々軍兵記並大江維時入 唐伝来秘法鬼一法眼秘密受云々、 於鞍馬寺相語東国旅人諸陵助重頼令約諾、承安四年三月三日暁天干時十六歳密立出鞍馬山赴東国下著奥州寄宿秀衡舘送五六ヶ年畢、舎兄兵衛佐頼朝義兵之後、治 承四年十月、率十萬騎旅相模国大庭野之時、超於奥州行向彼陣始而向顔舎兄落感悦涙即隋遂了爰元歴元年正月京都木曾義仲悪行時、依院宣、為義仲追討差進東軍 之時範頼義経兄弟為両大将上洛忽誅伐義仲了、同二月範頼相共為大将進発西国追落平家一谷城討取平氏数多一族虜重衡卿帰 京之後範頼任三河守義経補伊豫守並検非違使従五位下佐衛門大尉了、同二年二月廿日重下向讃州八島追落平家同三月於豊前国門司長門国赤間壇浦等合戦、同廿四 日悉追伏平氏余党奉虜女院並宗盛父子等奉向三種霊器、同四月廿五日入洛即相伴宗盛父子下向東国之処依梶原景時讒侫舎兄源二位忽勘気絶向不被入鎌倉中於宗盛 者源二位頼朝及自身対面了又宗盛公帰洛之間義経請取相共上洛於江州篠原堤刎父子首、於京都渡大路梟獄門了、其後頼朝為義経夜討差上土佐房昌俊寄来判官舘兼 以了知之間散々防戦遂俘囚昌俊斬之訖、其後自関東重時政為討手大将上洛之間判官申下院庁以御下文相伴義憲行家等、文治元年十一月二日赴西海之處遭難風舟各 分散帰島之間無力隠居吉野山然彼山衆徒等随源二位捜索追却之間郎徒佐藤忠信名乗與判官防戦令為退却衆徒
ここまでは『尊卑分脈』に書かれたのと殆ど99%まで同じ文面と云えます。問題となるのはここから後の後半の部分に当たります。
此間義経遁而赴紀伊国海士郡藤代郷宇井頼、鈴木三郎重家隠、其家三年之間、文治三年二月十八日紀州藤代首途而自大和国奈良大路踰宇治支度於江州関之津主従三 十五人自朽木谷過越前入於北陸道慕旧好重下着奥州秀衡舘、同四年十二月秀衡病慮再不立、招男泰衡・国衡・忠衡・高衡・通衡・頼衡等、於病床遺訓而曰我死後 仰與大将軍義経公一致協力共令誓事可守領国、亦密迎判官送以夷国之地図遺秘計、同廿二日卒、同五年四月泰衡蒙判官追討之命自鎌倉、泰衡進退極於是立窮余之 一策、同月廿八日夜密令遁判官及其郎徒等三十余人向夷国、翌々三十日泰衡三千騎囲判官之邸、高舘遂放火称與判官送杉目太郎行信之首於鎌倉了、義経與郎徒等 三十余人共渡東夷、更数年後再渡蒙古号鉄木真後被推即大汗之位、号成吉思汗略征服亜細亜大陸之大風、為與元及清朝之開祖日本後堀河院御宇貞応元年七月十二 日薨 六十八歳也                      依法号者奥州平泉衣川妙好山雲際寺

   法号 揖館院殿通山源公大居士    義経朝臣霊牌
                            表 揖館院殿通山源公大居士
                            裏 文治五年閏四月廿八日 卅一歳

                            於鞍馬山者祭祀尊号  紗那王

 この後半の部分の真偽のほどを調べる為にどのくらいの時間を費やした事でしょう。おそらく義経がジンギスカンになったかどうかは、だれ一人として確認できる人はいないのです。その件についても調査の手を伸ばしましたが、およそ手に余る難物で匙を投げた形です。そのほかの鈴木三郎重家や、身代わりになって死んだといわれている杉目太郎行信の事も調べました。それらについて語り始めると長くなりますので又後ほど詳しくふれたいと思います。

 義経の子の義種は氷上郡の芦田忠家の女との間に嫡男義国をもうけ、次に武蔵の畠山重忠の女との間に次男重政を成したと書いています。何故武蔵かと云いますと、もともと遠種の先祖小山忠門の代に武蔵国中澤郷に領地を持ち、その地を代々相伝して義種が受け継いで、義種も中澤郷に行き来していたと思うのです。 中澤郷近辺は武蔵七党の発生した所ですが、鎌倉街道を北に行くと畠山重忠の居城である菅谷舘のそばを通る事になります。そう言った事から重忠女との関係が生まれたのでしょう。
 さらにそのことを考えていくと、重忠の正妻となったのが足立遠元の娘で、重忠との間に重末と、島津忠久に嫁いだ娘を生んでいる事がわかっていますが、義種に嫁した女というのも足立遠元の娘の子という可能性が高い事になります。重政は図らずも身に覚えのない謀叛の罪で滅ぼされた義経と畠山重忠という二人の祖父を持った事になるわけです。しかも義種は関東で祖父の敵を討ったと云いますから遠種も非業の死を遂げたと考えられます。
この系図は重政の子孫の系図ですから、嫡男の義国の事はわかりません、義国は子が亡くて重政の末子を養子としましたが小山庄の地頭になったという所までしか書いてありませんでした。