2004.11.27
足立政基に嫁いだ盛綱の娘
 ここで私は、足立政基に嫁いだという中澤盛綱の娘について、両者の年代に整合性が有るのか、それとも矛盾をはらんでいるのかを確認しようと考えました。ところが、そこで私は丹波足立一族の中に隠されていた重大な年代の矛盾を発見することになりました。

 とりあえず、この政基と盛綱の娘の年代に関して考えてみます。彼女の生没年はわかりません。ただ、彼女の弟で、五歳で夭折した若竹丸の卒年が仁治三壬寅(1242)正月8日、と有る所から、おそらく嘉禎3年(1237)ごろの生れと考えられます。

 一方、政基については今までの所、記録は一切発見されていないのですが、然しその弟の遠信には一度だけ記録が存在していました、それも『吾妻鏡』の中に。
それは嘉禎元年(1235)7月のことです。
去る二十三日、台嶺の衆徒三社の神輿を花洛に動かし奉る。これ近江国高島郡田中郷地頭佐々木次郎左衛門尉高信が代官と日吉の社人らと闘乱を越すが故なり。しかるに神輿入洛の時、例に任せて官軍相禦ぐの間、宮人疵を被り死闘に至るの由、これを訴え申すに就きて、かの刻先陣の輩のうち、右衛門尉遠政・兵衛尉遠信等流刑せらるべきの由、定めらるるの上、高信を鎮西に配流すべきの由、六波羅に仰せつかわさるるところなり。
                             「吾妻鏡」文歴2年7月29日
この事件については『百練抄』のなかにも次のように書かれていますが、さらに翌月八日の項には遠政の配流先が備後国であったということまで書かれています。ただそこに遠信の名が有りませんので、遠信が父遠政とともに流されたのかどうかは明らかではありません。
七月廿三日甲申。日吉神輿巳以入洛。仰武士相禦之間為飛礫官  被打損法懸合之刻。於近衛院法成寺巽角。宮仕法師多被疵。或破 切伏了。各奔神輿「。於衆従者自河原逃散。洛中之騒動也。江州守護人信綱法師息左衛門尉高信。於高嶋郡傷神人之間。任建久例死罪之由。山門訴申之故也。八王寺神輿燭穢血気多懸云々。
 七月廿七日戊子。左衛門尉高信可遠流之由被仰下。山門頗落居歟。」
八月八日戊戌。高信配豊後国。奉神輿之先陣武士右衛門尉遠政配備後国了。

そして翌年、嘉禎二年九月九日の『吾妻鏡』は、この事件の顛末を次のように伝えています。
京都の使者参著す、これ去年七月二十三日、日吉の神輿下落の時、防ぎ留め奉らんと欲するの武士右衛門尉遠政、ならびに喧嘩の本人近江佐々木次郎左衛門尉高信等が事、宣下の上、関東の御計らいとして、山門の鬱陶を慰めんがために流罪に処せられをはんぬ。山従の張本に至りては、またその身を召し後昆を誡めるべきの旨奏聞せらるるの間、七杜の神輿追善するの後、その張本を召さるるのところ去月八日、新造の神輿を中堂にふり上げたてまつり、訴え申すによって同二十八日、勅免の綸旨を下さるるの由、これを告げ申さると云々
一旦は流罪に処せられたが、一年あまりでその罪を免じ流罪を解かれたのでした。
これによりますと、弟の遠信は兵衛尉になっていますから、おそらく20歳ぐらいになっていたのでしょう。
そうしますと政基と中澤盛綱の娘との間には24歳ぐらいの年の差があることになります。
この年の差は大きいとも云えますが、平安鎌倉時代のことですから何とも云えません。もし政基が後妻として盛綱の娘を迎えたとするなら、さして矛盾することでもないと云えます。





 丹波足立家の記録に潜んでいた重大な矛盾について触れておきましょう。
 そもそも、足立家の初代遠元から四代政基にかけて、確かな生没年はわかっていません。かって足立家の菩提寺であった青垣町山垣の報恩寺には、三代の位牌がありますが、その位牌には次のように没年が刻まれています。
初代 遠元 正治元年(1199)11月13日
二代 遠光 天福元年(1233)11月23日
三代 遠政 正和二年(1313)10月 3日
四代 政基 文和二年(1353) 8月10日   (四代政基の没年は当家系図による)
 まず問題になるのは、初代遠元の没年ですが、『吾妻鏡』によると、承元元年(1207)3月3日に鎌倉の御所で催された闘鶏の会に参加していることが記録されていて、この年までの生存は明らかで、これが『吾妻鏡』に出てくる遠元の最後の記録になっています。そうして遠元は1168年に、藤原光能に嫁いだ娘が生んだ、知光という外孫を持つことになります。さらに云えば平治元年の「平治の乱」に源義朝方の一員として参戦しましたが、その時すでに30代半ばではなかったかと考えられます。
 次に、1235年に20代の子供がいた遠政が、その後78年も生存できるはずがないという事実です。
同じように、1235年に20代であった政基がそれから118年も生きながらえて文和二年になくなるなど考えも及ばないことです。

 では、今度は下から考えてみましょう。比較的確かな資料として存在するのは、政基の孫で、天目楓の紅葉の名所で名高い西天目瑞岩山高原寺の開祖となった遠鶏祖雄禅師がいます。彼は政基の子光基の三男として弘安九年(1286)に生まれました。ここから、一世代を仮に25年として逆算すると、
1286-(25×2)= 1236 ≒ 1235  (遠信が流罪になった翌年)
という数字が返って来るではありませんか。
即ち、報恩寺の位牌に彫られた三代の没年は、とんでもない間違いであったと云うことになります。

 では、どうしてそんな間違いが生じたのか、おそらく天正7年の山垣落城が原因ではないでしょうか。
 この時、城主足立基依は城を逃れて命からがら氷上郡春日町牛河内にたどり着き、その後何年かは洞窟の中で暮らしたといいます。今も屋敷の一部にその洞窟の痕跡をとどめ、灯明の灯りが揺れていました。その部落は殆どが足立を名乗りますが、その本家である基依の直系の家にも往時をしのばせる物は文書を含めて一切ありません。ただ口伝として山垣の子孫であると伝えるのみなのです。比較的自分の先祖に興味を持った哲治氏は今は亡く、訪れた私に山垣の先祖の墓に一度参りたいという未亡人を山垣まで案内したりしたものでした。
 落城前は山垣城の裏山の上に在った菩提寺の報恩寺も、城と共に燃え尽き、その後も二度の火災で往事の文書・器物はすべて灰燼に帰してしまいました。

 このようにして足立家の記憶は喪失しました。しかしこれは足立家のみにとどまりません。丹波地方の主な城持武将は殆ど同じような憂き目にあっています。 このサイトの主人公中澤一族にしても同じです。たとえ織田信長の命とはいえ、惟任日向守明智光秀の丹波攻略は人の記憶をも焼き尽くしたのです。