2004.11.06
義経に殉じた?、杉目太郎行信
 この話は、100㌫ 義経北行伝説に絡むもので、それ以外にはあり得ません。
義経北行伝説とは云うまでもなく、義経が衣川から逃れて北に向かったという話なのですが、その真相は今もってなぞのママ。
 というよりも、判官贔屓のなせる業なのか、義経を衣川で殺すに忍びず、北へ逃れたという話で、それはそれなりに中世のロマンとして面白くはありましょう。しかし、その伝説をたどっていくと、ここの岩に義経が腰掛けた腰掛け岩だとか、この床に残る穴は弁慶が踏み抜いた穴だとか、馬をつないだ松の木や、願掛け地蔵やらと、続々と名乗り出てきます。
 伝説というものはやっかいなもので、まるで自分が見たでもしたように、得々と語りかけて参ります。しかし、果たしてその中にどのくらいの真実が含まれているのでしょうか。
 柳田国男はそんな伝説・伝聞を尋ね歩き採集して民俗学という一つの学問の分野を確立しました。然し私のような浅学の士には、それらの伝説を学問にまで高めるすべを持ち合わせていません。伝説と伝承の違いでさえわからない有様なのです。

 さて、杉目太郎行信の事ですが、初めて私がその存在を知ったのは「義経の系図」でした。しかしその系図には[杉]と書かれずに「木偏に久」と書かれていた為、その読み方がわかりませんでした、そこで図書館で調べ、ようやくの事で[杉]と読む事を知り、『姓氏家系大辞典』で杉目の項を見たような訳です。
杉目 奥州の豪族にして、藤原姓という。岩代国信夫郡杉目の地より起こる。杉目小太郎行信は、一に杉目太郎行信に作る。義経頃の人にて、福島城に居りしという。
津軽の可足記に「秀元の御代、九郎判官身代には一家の内、杉目太郎行信いたし候て、判官は津軽に来る」と。
と書かれていました。この『可足記』なるものを探してみましたが、何処を探しても見つかりません。そのうちこれを書いたのは津軽藩三代藩主、津軽信義の次男で信興、僧籍に入ってからの名、慈天権僧正可足であり、藩主の下問に対し答申した中の一部が上記の引用文である事がわかりました。
宮城県栗原郡金成町の江浦藻山信楽寺跡には正応六年二月十二日の銘のある碑が建っているといいます。
「源祖義経神霊見替杉目太郎行信碑」
とその碑文に書かれています。

 可足記を手に入れることができたのは、それからさらに何年も過ぎてからのことでした。その内容の全文を次に示します。
津軽嚢祖は左衛門尉藤原秀栄と申候、秀栄は大織冠鎌足八代従四位下鎮守府将軍秀郷子孫に候。秀郷六代陸奥権守経清(亘利に居る)安倍頼時の娘中一の前を娶り清衡を生み候。経清天喜五年安倍頼時の乱に与し被誅候。中一の前、美人の聞こえ有之、二歳の子清衡を携候。而出羽の人荒川太郎清原ノ武貞の妻と成り家衡を生み申候。即清衡は異父兄弟に候、清衡をば武貞養ひ候由武貞死去の後、武貞の弟武衡並に家衡亡候故、武貞の遺領陸奥六郡管領すべき旨にて鎮守府将軍に被任候・子基衡安倍宗任の女を娶り秀衡、秀栄を生み候。秀衡は嘉保二年、秀栄は永長元年二月十五日誕生に候。秀衡を御舘太郎殿、秀栄を御舘次郎殿と申し候。保元二年三月十九日59にて家を継候。嘉応二年五月二十五日84にて鎮守府将軍に被任候。此日次郎殿81歳にて左衛門尉に被任候由。
次郎殿年若の頃父基衡より津軽の内三郡を賜り、秀衡代に至り一円全く賜候由苗字は津軽を名乗候。十三に被居候故十三の左衛門尉共申候。又十三は奥州の内下の果ての地也とて下の郡共申由。秀衡入道して文治三年九十二にて果て侯。其頃左衛門尉も入道し玉ひて法名を栄蓮と号し出家得道殊勝に候。津軽の狄松前の狄にも剃髪の者も候。同五年八月二十五日秀衡の子伊達次郎泰衡下人に被殺供。左衛門尉入道殿泰衡が狼狽の所より一族滅亡侯を被歎侯。而十三の檀林寺にて一族の回向執行候。此時は殿の御子息秀元の御代にて侯。九郎判官身代には一家の内杉目太郎行信致候。行信が首鎌倉殿に見参に入供。泰衡亡びて判官義行と改め入道殿御頼にて高館の城より五、七人貌を替へ津軽へ来侯。ロロロ十三の檀林寺へ差置供。此頃も関東より討手下候得共在家知れ不申候。判官再び高館に帰り義兵を催侯。其時泰衡の郎等由利広常判官の旗を挙侯。而伊達の大木戸に戦申侯。此隙に判官海上より周り伊豆箱根に至り鎌倉を襲候。単独出陣の処広常の勢南部華仙の者其の為に利を失ひ軍破れ侯。而外ヶ浜へ落来り判官の音信伺候処判官三厩より出船而達火(竜飛)の潮に掛り難船に及此節広常が従兵散散に落去り広常も被捕候。而鎌倉にて被罪候判官狄ヶ嶋に漂着して再び帰り不申候後金国へ渡侯由其渡慌所をオカムイと申侯。判官の子孫金国に有之在謹衛義澄と申侯由承侯。
 (以下略す)

   津軽卸家老中へ 
                                 可 足
以上が、私の手に入れることのできた『可足記』のすべてですが、不思議なことに、此れとほぼ同じ内容を持つ文書がほかにも伝えられています。
 それは天下の奇書とも、あるいは禁断の書とも言われる、三春藩の先祖、安倍一族の歴史を書いた本で、『東日流外三郡誌』と言います。「東日流」と書いて「津軽」と読むこの本は、反体制側の立場でかかれて居るがゆえに、発見より今日に至る間、その記述内容を認められませんでした。
前略 真実なる史は奥州に遺されざるものと相成りぬ。依って天明の火災にて焼失せし三春藩の主秋田倩季、茲に祖先の要史を再複せんとて、縁者浪人橘隆季こと秋田孝季を召して密命せり。
依って彼の妹なるりくを妻とせし和田長三郎吉次と共に諸国に巡脚し、茲に三十有余年、是を集綴せしは東日流郡誌諸書也。
 昭和46年、市浦村に村史編纂委員会が設置され、村の事業として資料の収集に奔走していたとき、御所川原市飯詰の和田喜八郎家に伝わる『東日流外三郡誌』ほかの提供を受け、その膨大な量に驚いた委員会は、村史の編纂とは別に、これの出版を計画し、この反体制の書を世に問うたのでした。その量は半端では無く、外三郡誌古代編、中世1、中世2、内三郡誌、六郡誌大要の五冊からなり、各冊がそれぞれ2千ページを超えるというものです。
 この本は執筆が終わるとすぐ、今一部を書き写し、それらを別々の場所に保管して、火事や災害などの不慮の災難から逃れる様に図られるとともに、門外に出すことを固く禁じ、もし出したものがあれば死罪にするとまで、厳重な掟が定められたと言います。

この膨大な文書は、和田長三郎氏宅の天井裏・及び梁の裏に隠されていたもので、門外不出の書として二百年の間秘蔵されていたものです。

 では、その『東日流外三郡誌』にはどのように書かれているのでしょう。「十三左衛門尉秀栄系譜」というその文書には、『可足記』の前半部(段落まで)と、言い回しの違いはあっても、ほぼ同じ内容が書かれています。ただ、「異父兄弟に候」のところが「異父兄弟と相成りては清衡生々に養父及び母上を恨みて生育せり」となっている以外はほぼ同じです。そして後半の部分は次のように書かれています。
秀栄三十二歳にして東日流十三湊視浦(市浦)丘の安倍氏季殿、子無き故に秀栄を養子として福島城主となる。
依って、十三左衛門尉藤原次郎安倍秀栄と称したり。文治二年九十二歳にて寂したる平泉秀衡の遺言に依りて、秀栄入道し法名を栄瑞と称し、十三山王房に十三宗を開基して唐との交易によりて帰化僧を住しめ、法相宗・大日宗・倶舎宗・法華宗・禅宗・律宗・真言宗・天台宗・臨済宗・念仏宗・華厳宗・三輪宗・修験宗の仏閣を日吉神社境内に建立し、外三郡の法場を成したり。依って唐国、百済の求道僧及び帰化人多く十三浦に来たりて千人を越ゆるなり。
秀栄、その後長谷寺・阿吽寺・龍興寺・禅林寺・壇林寺・三井寺等を再起せしめ、建仁元年飯積大光院・石塔山小角堂を再建せしめ、建仁二年八月十一日、壇林寺にて眠るが如く往生せり。
 ここまではほぼ秀栄の事績を語っています。そして問題となるのは、ここから後の部分になります。ただ秀衡の弟に秀栄がいたという事は、どの系図にも書かれていないのです。ただ高橋克彦の『炎(ほむら)立つ』には、秀衡の弟として書かれ、その娘の伽弥が義経の女になったとされています。
さて、では後半の部分について見てみましょう。
秀栄の子息、秀元は是より先、即ち文治五年八月二十五日、源九郎判官義経を身代わり討死なさしめ、伊達次郎泰衡と謀り義経を十三浦より唐船にその主従を乗ぜしめ、逐電せしめたり。
時に平泉の鎮守府藤原一族は幕府の軍に滅亡し、父秀栄倶に仏道を精進せる秀元は幕府の憎視に依り、通商船を鎌倉津に断じて、尚悪兆を誘いてその難を息子秀直に遺して嘉禎元年七月十一日、山王房阿吽寺に寂したり。宝治二年八月五日、幕府は遂に十三一族を滅ぼし、段度として、藤崎城主安東尭季をして蝦夷管領令を宣し、東日流三郡を京役権職に任じ、内三郡を曽我五郎次郎惟重及び平宏忠等を平賀庄岩楯に駐領せしめ、安東氏を外三郡に押領せり。
  (以下略)
このように、義経の北行伝説を裏付けるかのような文章が、この『東日流外三郡誌』には随所に見て取れます。
そして『東日流六郡誌大要』には、
源頼朝、平氏追討を果たしたる弟義経を鎌倉に入れず、肉親相喰むが如く、義経追討の布令を諸国に回状す。
日本の国土に寄る辺なき義経、修験の装をなし西海を奥州平泉に遁世を志して主従十六人、出羽の山伏道場に立ち寄ると見せて、その遁行を武蔵に、白河越えを決したり。一路田村郡に入りて、栗原の迫を抜け、伊治水門を経て、白河を登り、平泉に安着せるも、平泉にては鎌倉の謀策に賛否両論に対立なし、義経密かに猿石川を伝わり、閉伊に入り、陸中の海浜を糠部に入り、名久井を経て合浦外浜にいでて、東日流中山の無住寺に仮宿せること十七日、家来衆麓に安東一族の心意を気遣へて十三湊に藤原左衛門権守秀栄に食客なし、急ぎて渡島(北海道)に渡りける。江差なる御神威岬より、西海に望み唐国への渡航を志し、正治巳未年春四月十八日、満達船にて異土に渡りける。
世史に、義経平泉に自刃せる伝や、武蔵坊の立往生伝は平泉泰衡が鎌倉殿に偽証せし作り事なり。
源義経が東日流にて安東氏を頼らざるは祖先をして仇なる系にあり、十三湊に藤原を頼りたるは義経の配慮なりといふ。
    文政二年八月五日                      富花の住 工藤儀介
という文章も見て取れます。
因みに、安東氏は安倍貞任の忘れ形見高星丸の子孫であり、『東日流外三郡誌』の調査執筆を指示した三春藩主秋田倩季はその分家の子孫に当たります。
また可足権僧正の出た津軽氏はここに出てくる秀栄・秀元・秀直の子孫になります。安倍を滅ぼしたのが源頼義・義家で、清衡に加勢して出羽の清原を滅ぼして藤原清衡を陸奥・出羽の長にしたのは義家でした。
 これで見ると、義経の身代わりとなって討ち死にしたという杉目太郎行信の事を書いているのは『可足記』の方で、『東日流外三郡誌』の中には一言も出てきません。
杉目太郎行信は、一説によると義経の母方の従兄弟であるといい、或いは藤原一族で軍師でもあった佐藤基治の子で有るとも云います。然しそれも真相はなぞに包まれています。


 阿部一族にしろ、奥州藤原氏にしろ、抵抗しても、恭順しても滅ぼされるという一族の運命は両者に共通し、その直接の相手がいずれも源氏であったと云うのも皮肉ですが、奥州を攻略した頼朝が頼義・義朝の先例にならって乱後の処理をしたというのも皮肉の最たるものでした。
 このような状況の中で一族は忍従を余儀なくされ、やがてそれは諦観として一族の中に染みつき、明治初年に福沢諭吉によって『学問のすすめ』の中で、
『天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と云えり、
と、引用される事になりました。この文言はいいまわしを替えながら『東日流外三郡誌』の中に何度となく現れてくる言葉で、これは安倍氏・安東氏・秋田氏が代々受け継いできた思想であり、明治維新の版籍奉還に際しても、秋田氏は敢えて天皇家・藤原家等の子孫を名乗らず、神武東征以来の賊であった安日彦・長髄彦の子孫を名乗って明治政府の中で物議を醸したと云われています。
 和田末吉は秋田孝季ゆかりの秋田重孝子爵を通じて福沢諭吉に会いました。しかし『東日流外三郡志』全体を見せるにはまだ時期が早く、そのため末吉は父祖が受け継いできた件の文書を諭吉に見せたのです。そこで諭吉は間題の一句を記し、「‥・と云へり」と結んだのでした。これは自己の 「独創」 ではなく「引用」 であることを示したのです。
この事について和田長三郎末吉は次のように書き残しています、
「この一書を以て、拙者の一代に果たしたる東日流外三郡志 内三部誌 六郡誌大要を書写仕り、ここに了筆せるこそ、祖父、亡父、先代に遺書せらるを果たしたり。東京の秋田重孝子爵、福沢諭吉先生、西園寺公望閣下、加藤高明閣下の御親交を賜りたる拙者の生涯、悔い無き栄誉を頂きたるも、先祖の遺訓を大事とし、白河以北一山百文の国末に、日本帝国の空白なる奥州の史実、世襲にはばかる故に、拙者、祖来の尋蹟五代の労も、未だ平等なる日輪に光当を妨ぐる武官の権政に好まざれば、これを子孫の代に遺し、日浴平等に、自由民権の至る世まで、極秘に封蔵仕るなり。祖訓の一句を、有り難くも、福沢諭吉先生が御引用仕り、『学問ノ進メ』に、天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ との御版書を届けられしに、拙者の悦び、この上も御座なく、幾度も読み返しをり、今更にして、福沢先生の学問にもって不屈なること、不惜身命の勇ありと、感じをり仕る‥・」
   明治四十三年一月一日
                        和田宗家四十六代   和田長三郎末吉

 和田長三郎末吉は秋田子爵を介して、福沢諭吉の知遇を得たけれども、自由民権が叫ばれた明治の始というこの段階でも『東日流諸書』の全貌を世に問う時期でないことを知っていました。それほどこの『東日流外三部志』の内容は様々な問題を抱えていたのです。「本当の意味で、自由に意見を交わすことの出来る時代が必ず来るに違いない、それまでは全貌の公表はしないつもりである。」  
安倍頼時以来、いやそれよりも前の安倍比羅夫や坂上田村麿等によって蝦夷よ俘囚よとさげすまれ侵奪され続けてきた奥州、恭順しても抵抗してもどうにもならない陸奥の民の苦悩や悲しみを安倍頼時以来、平等という思想に託して、彼らは後世に受け継いできたのでです。
 末吉は福沢諭吉に仮託してこの思想を世に出しました、それを欧米の思想だと云われようと アメリカ の独立宜言から採ったと思われようと意に介さなかった、いずれ『東日流外三郡志』の全貌を世に出せる、本当の意味の自由な時代が来る、その時に人々は始めて気が付くことでしょう、千年も前から日本の東北に自由平等の思想が語り継がれてきたと云うことを。
そして福沢諭吉も、生涯この文言の出所を明らかにしないままあの世に旅立ちました。


『東日流外三部志』についてはいつか項を改め、新たなスレッドを立ててお話ししたいと思います。