2004.2.10
義経とのなれそめ
私が初めて義経を強く意識しはじめたのは平成9年10月の事でした。
その10月10日の体育の日、最愛の兄が亡くなりました。突然意識を失い、病院に搬送されたのですが意識を回復しないまま65歳にして息を引き取りまし た。原因は脳内出血であり、父も脳梗塞で言語障害を起こし7年間患ったあげくに亡くなりましたからもしかしたら相伝の病であったのかも知れません。
 その兄の初七日の日に私は神戸から山陰の実家に行く途中、氷上郡青垣町山垣の足立家先祖の故地を訪ねました。それが私にとって足立家先祖調査を再開する最初の仕事となったのです。
 山垣は、鎌倉時代の承元3年に関東から足立遠元の孫の遠政が入部し、天正7年に明智光秀によって滅ぼされるまでの370年間を一族が過ごした所でした。
 神戸を出た直後から降り出した雨は、丹波路にかかる頃にはしのつく様に降り、一時は前も見えないほどでしたが、山垣に着き、菩提寺の報恩寺で住職と話をしている間に少し小止みになりました。
「足立家の事を調べているのなら良い人を紹介しましょう」
と言って住職は電話をかけて在宅を確認し、奥さんの案内で訪れたのが足立正巳氏の宅でした。正巳氏は農業の片手間にこつこつと足立家の事を調べているという。その正巳氏の案内で遠政公の墓に参り、その後いろいろな話を聞かせて頂いたのでした。
そして突然、
「足立家に源義経の子孫が嫁に来ている事を知っていますか」
と言いだしたのです。まさか、そんな馬鹿な、義経の子孫がいたなんて・・・・・、信じられない。
「然し系図があるんですよ、後でコピーしておくってあげますから」 そう言って、正巳氏は一枚の系図のコピーをくれました。 それは、天正時代に明智光秀に攻め滅ぼされ、命からがら城を逃れて氷上郡春日町牛河内に逼塞した山垣城最後の城主、足立基依の子孫という足立哲治氏が書いた 足立氏系図のコピーでした。その系図の2代目足立政基のところに、妻多紀郡遊楽庄地頭職中澤盛綱一女(源義経曾孫)と書かれていたのです。
そんな話をして別れたものの、気になっていた私は、その後図書館に通い、義経について調査を開始しました。
 少なくとも私の記憶の中にある義経は子孫を残したとは承知していなかったのですが、図書館の郷土資料室で調べてみると、確かに丹波で義経の子が生まれたという記録があったのです。

  元歴元年11月 当時長沢六郎遠種の女源義経の子を孕み長沢家を継ぎ六郎次郎義種と称す

と私が手にした『丹波歴史年表』に書かれていました。
 元歴元年といえば、その年の2月始めに一ノ谷の合戦があり、一ノ谷の背後の鵯越から平家の陣に駆け下りた義経軍によって平家は壊滅的な打撃を受け、命からがら船に乗って逃れたのでしたが、では義経はどこを通って鵯越にたどり着いたのでしょう。 この件については、後ほど『多紀郷土史考』などをもとに考えていきたいと思います。