○ 義経主従大陸に渡る
 往年著者は蝦夷部落に入って學校を創立し土人と起居を共にすること殆ど十年、其間相前後して私の見苦しき草蘆を訪はれた知名人士の中に当時明治 大帝に近任せる北條侍従があり、二條基弘公がありまた近衛篤臍公が北海道巡遊の節一夜茅蘆に仮泊の光栄を忝うした、時に私のもとめに應ぜられた記念の揮毫 は今尚珍蔵している、その詩如レ次「編レ茅為レ屋畳レ石為レ階何処風塵可レ到拠レ梧而吟烹レ茶而話此中幽興偏長」と、けだし當時の状景を吟ぜられたもので ある。かくて私は土人子弟に対し日夜の教養を怠ったのではないが進歩が極めて遅々としていたため、アイヌ民族に実業教育を授けて対岸の東部シベリアに移住 せしめようとした私が最初の計画は裏切られ、殆ど絶望に至ったので、或日各部落の酋長及び古老等を一堂に集め、赤裸々に問ひを發して曰く、汝等の種族はと うしてここまで堕落し、且つ自ら旧陋を脱することができない程下劣魯鈍なのかと。言少しく露骨に過ぎたけれども、平素彼等は私を師父の如くに信じて親んで いたので、此の言に対し敢て怒りもせず、各々胸襟を披いてその所信を述べて曰く、昔源判官がクルムセ国に渡海のとき、吾が同族の勇士と智者と財寶とを彼地 に運び去ったが故に、後に取残されたものは老幼婦女と役に立たぬ男共なれば昔に引替へ吾々同族は爾来無勢力のものとなったのだ云々。語は簡単なるも意味深 長頗る傾聴に値する。もとより言ふところ悉く信ずわけにいかないと云えども亦一二の採るべきものがある、即ち義経は単身赤手大陸に渡ったのではなくて亀 井・片岡・伊勢・駿河・常陸・鷲尾・辨慶等の如き諸将士の外に、勇壮なる蝦夷の部衆を率ゐて征路に就いたであろう事を察するべきである。百家説林に曰く、 樺太島に義経の祠あり、傅へていふ九郎判官義経は奥州高館に於て佯り死して蝦夷が島に逃れ渡り、樺太に到れり、従士も亦た多かりし云々とあるのに参照すべ し。かっては鵯越の天険を越え、武庫山颪を物ともせず、怒濤を押切りて阿波に渡り讃岐に迫り平家一門を鏖にした源九郎義経に、此の壮拳があったのは當然の 事実と見るべきなり。
 今は露西亜の領域となりしシベリアの西部にウオグルと称する民族が住でいる。男子は多毛で女子は口辺及び手甲に刺青することにより、言語風俗に至るまで 我がアイヌ人に酷似している。ウオグルとは彼等自らを称する族名であって、語尾のグルは民族又は住民と訳す。我が北海道のアイヌも民族或は住居といふ語を グルと称す。乃ち東方網走地方に住む部衆をメナシグルと云ひ、メナシは東の義にしでグルは住民と訳し東方の住民の義である。高貴の人をサバネグルといひ、 サハネは高貴にしてグルは民族の意である等に照らしても、両者語脈の相通ずるものがある。(蝦夷に濁音がないのにグルと云ふはクにに力を入れて發音する故 にグと云うふうに聞える)其他ウオグル人の住家は丸太の堀立作であるのと、衣服の刺繍の模様等も我が国のアイヌ人のそれに類似している。性質は淳朴で冬は 山野に猟をし、夏は河川に漁をし、附近に住む蒙古人其他の民族の如くに牧羊を業とせず。宗教は天神を祀り木幣を捧げて祈る等の習性もアイヌ人の風習に彷彿 としていることより推考するとたしかにその後裔であるのを信するに足るものある。昔者彼等の祖先が天神と仰だ所謂テンジンの鐵木眞、後の成吉思汗である我 が日本の英雄源義経のゲンギケイに従いて、萬里遠征の客となり、功に依って廣