○ 神話の起際及び蒙古上代史の解釈
 国に治乱あり地に隆替あり、国の将に乱れようとするや文教先づ廃れるのは古今おなじである。最近ロシア帝国の動乱に際し、第一に凋落したのは教文にたず さわる人の階級である。當時一代の木鐸を以て任じた碩學鴻儒も自国の頽勢を支へ得ず身を以て海外に遁れ、或はシベリアに放浪し、超然として脱俗の境涯に在 あった聖徒も弊衣襤褸を身に纏い、厳冬に額に汗して労犬に伍し、著名の画伯も其の妙技を施す術もなく街頭で自筆の絵葉書を売って生活の助けにするなどの惨 状は、著者が彼地に住んで親しく目撃したものであった。
 国運が傾けば風教も地に堕ちて綱紀振はず、上下離背して人は邦家の存立を忘るゝに至るのである。然も天道循環して国勢勃興すれば文化祥瑞を来し四海泰平 であるが、世運は恒久不変なのではなく、昇平久しいと人は安逸に流れて文弱の弊に陥り、道義地を払ひ世はまた暗黒に帰ってしまう、なを年に寒暑があり、日 に晴雨があるように、あるいは旦暮生死が必然である、要するに人生一代の浮沈もまたこれににたものである。寒士志を懐いて草莽に雌伏し、幾度失敗しても撓 まずその志気を鍛錬して怠らなければ、いつの日にか光輝ある人生の春に遭遇することあるだろう、しかも世の人は成功した志士の半面に天を浴び風の吹き抜け る時代がああるのを思はずただ表面の事だけを見て、彼を生れながらの英雄若くは時代が産んだ幸運児だと言うのは当たらない。成功者がそうなる前の時代の辛 惨は筆舌の及ぶ所ではないから、自らこれを口にし、或は筆にはしないのを常とする。後世歴史の精華である英雄の前身に関する正伝の多くが、世に伝はらない のはそういった苦難の時代の事に余り触れたくないからである事を疑はない。
 呂尚は八十歳、范增は七十歳に至るまでの傅記を遺なかった、頼朝、秀吉ともに三十幾歳までの事歴を伝へていないし、義経は二十二歳になるまでの消息もつまびらかではなく、僅に腰越状に依って「身を在々所々に隠し、辺土遠国を棲家として土民百姓等に服仕せらる」云 々の一条を識るに過ぎないのである。成吉思汗も四十歳に至るまでの正伝を欠き、或はニロン即ち日の族の貴公子なりと云ひ、或は青年時代に鍛冶を業とする賎 しい人だとするなど諸説がある、而して元史に汗を叙して云うには、太祖は沈着にして大略あり、兵を用ゐること神の如し、故に能く国を亡すこと四十、勲績は なはだ優れ、史の記載備はらないのは惜い。として筆を置いたのも皆、上の様な理由に外ならないのである。
 建国の創業が成り、人は階級制度の下に禄を享けて史記を編し、或は組先の恵澤に浴し豊かな生計の下に私乗を編纂するのは、いずれも後代の事である。この ために後世の人は刻苦創業の困難を凌ぎ.国を建て家を起した祖先を崇敬し、其偉業を以て常人の企及し得ない神業として、そうして共に逸事をも神話化して伝 えるに至るのは各国を通じてその実例に乏しくはない。ローマは最もこの種の神話に富む国として有名である。中国の歴史にも建国の三皇に就て種々な怪説を伝 え、伏義民は蛇身人首で、神農氏は人身牛首てあると云い、軒轅氏は龍に騎って天に上り、群臣後宮の従う者七十余人云々という。我国の上代史にも多くの奇し い神話をつたえている。すなわち素盞鳴尊は髭髭を抜いて散じ給うと杉となり、胸毛を抜いて散らせば檜となり、少名彦那命は粟の茎に弾かれて常世国に飛び渡 りたまうとするなど枚挙にいとまがない。このようにして神話は存するが、これを冷静に考えると、如何に神代即ち上代とは云い、蛇身人首及び人身牛首の人の 存在した筈はなく、また粟の茎に弾かれて国外に飛び渡るような人間のいる筈はない。後世の人が之を虚妄の言として其の裏面に潜む史実を見つけ出せないの は、自己の判断力の鈍いのを告白するに等しいものである。粟の茎に弾かれて常世国に飛び渡ったは、敗戦して夜の国である極北の地に遁れ去ったと釈すべきで ある。我が上代史に常世国とあるのは二つに解せすることができる、即ち一は以前定住した常世国、他は極北に位置する夜の国のことである。後世トコヨの古語 に中国文字を宛てるに際し、両者執れをも常世国としたが、少名彦那命の場合には常夜国と書くべきものと考える、それは身長短小であると伝えられる先住民族 は人種の軋轢に耐へ得ず、一年中の大半は夜の国なるアラスカ方面に遁れて住んでいたからである。上古の希伯来人と同じく我国の上代には語るに多く比喩を以 てした。古書に粟茎といふもたとえの一種である事は、神武天皇の大和を征した時、敵の勇将長髄彦を屠り、根を絶ち芽を切り去ろうと御心を決し、軍歌を作っ て其意を述べたまはく.
   『みつみつし久米の子等が、粟生には韮一と茎、その根が茎、その根芽繋ぎて撃ちてしやまむ』
としたのを一例としてみる必要がある、即ち粟にも等しき小な賊等が皇軍にその茎を覆されて壊滅したが如き即ちこれである。
 蒙古の上代史も此等の事例に洩れず多くの神話を伝う。元朝秘史に蒙古民族の起原を載せて曰く、
『昔上天より命ありて生れたる蒼き狼あり、海を渡りて来り、白 き鹿を妻として斡難河の源なる布簡干山に住し、男子を生みこれにバタチカンと命名す、此の子長じて蒙古人の祖となると。また成吉思汗の家系に就て曰く、パ タチカンより八世カルチュの曾孫にドブンなる者あり、ゴリラルタイの女アランを娶りて二子ど挙ぐ.既にしてドブン死し、アラン寡居して叉三人の子を生みた り。前の二子相語りて曰く、我等の母が夫なくして三子を生めるは甚だ怪しむべきなりと。ドブンの父母も之を異しみ詰りしに、アラン答へて曰く夜毎に光りあ る黄色の人、妾が房室の天窓より入り来りて我腹を摩り其の光りは我腹の内に透るなりき、其の人出て去る時には黄狗の如く爬ひ出づるなり。思ふに彼の人は明 かに皇天の御子なる可し、三人の子は斯くしで生れたるなりき、御身等惑ふこと勿れと言へり云々と。此の三子は分れて幾多の姓氏を為せしが、蒙古にてこの血 統の種族を殊に清浄なる別派と云ふ義にてニロン即ち日の族と称し、他のヅルキン即ち常人と区別してこれを尊敬するなり。後に此のニロン族よりエゾカイなる 人出で、メルトキ部の女子ホエルン・エケを妻として成吉思汗を生めりと傅ふ。此のホエルン・エケを元朝秘史に倫諤・額格と記すも之は漢字の仮名文字なれ ば、音を採りて文字に泥むべからず、而して元史に此の夫人を尊んで宜懿皇后と称す。』
 国祖バクチカンより成吉思汗の代に至るまでは暗黒な草創の時代であったから、共間の傅説は統一された歴史と観るよりも、上代通有 の神話と解すべきものであろう。然るに一部の學者はこれをそのまゝ事実とみなして筆にする為、鵜呑の結果消化しないで史病を起し世の人をあやまらしめるに いたった。蒙古上代の神話を忌憚無く解釈すると、寡婦となったアランが子を生んだと云う事は生理上あり得ない事で、蒙古人は出虚不明な成吉思汗の祖先に光 彩を添えようとして、これを皇天の奇蹟というが、実は奇蹟ではなく、寡婦アランがニロンの人と同棲した結果であるか、或はニロンの乱入を匿まったものと解 すべきである。黄色の人といい皇天の御子であると云うのは、ニロンの名称から推測し、併せて蒙古の西隣に居住する白色なコーカサス人ではなく、東亜の黄色 人と解すべきである。ニロンの語は我日本の国名であるニホンに通じるものである。蒙古人はニホンと明瞭に發音することができないので、ニホンのニロンと訛 るのはあり得ることで、現に彼等は日本といふ語をナランと發音し、そうしてこれはニロンと聞えるのである。
 成吉思汗の母の名をホエルン・エケと伝えるのは、平家の棟梁清盛の養母で、源家の嫡流頼朝を助命させた縁故により、牛若丸の義経をも肋命した他の禅尼の 名のイケに通じる。蒙古語のエケは母の事で、ホエルンとは雲の義であるが、これは尊称であるから、禅尼などの尊號に類するものであり。先史にこのエケ夫人 を宜懿皇后と尊崇するのは故ない訳ではない。成吉思汗の父をエゾカイと伝えるのも、エゾカイの語音は日本語の蝦夷海に通じ、そうして源義経の成吉思が今の 韃靼海峡なる蝦夷海を渡って来た伝説を、汗の生父の名のように誤り伝えたものと訳すべきである。成吉思汗の前名テムジンは、日本語のテンジン即ち天神と同 じ發音と考えられる。北夷の俗、高貴の人をカモヰ即ちカミと称す。我が国の上代にも貴人をカモヰ即ちカミと言い、現代でも皇華族の當主を家隷がカミ或は、 お上と尊称するのはその名残りである。カモヰも上の義で今日戸障子を嵌める敷居の上部を鴨居と云うのも古語の残ったものである。こうしてこの語の蝦夷語で あることは現に北海道旭川の付近にカモヰと云ふ地名があり、その他カモヰと呼ぶ蝦夷地名北海道に数多あるのは争はれない事実なのである。義経の蝦夷に在る 時、土民公を尊称してカモヰと云う。この語は上とも或は神とも通ずるので、後世夷民は義経と造化の神とを混同し、その伝説に種々な神秘的な怪談を交えて語 るため、この間の消息を理解しない學者が義経入夷の傅説を荒唐無稽の話として排斥するのは、確かに研究の不足によって起る謬見である。義経は人々からカミ と尊称されたため、土民威服の方便として自らを天神と称えたことが後世その名をテムジンと伝えられたものゝ様である。元史にこれを中国の仮名字で鐵木眞と 書き、蒙古語で精鐵の意味或いは鍛冶の義を持つとするも、畢竟成吉思汗の青年時代に鍛冶を業としたと云う伝説の付会に過ぎないであろう。義経の青年時代に 鍛冶を業とした吉次との関係に想い到れば想ひ半に過ぐるものがある。公は後に成吉思汗と名乗ったその名に託ても研究を要するものである。蒙古でこの聖雄を 尊んでハガンと云ふ、なんとこのハガンと義経のハンガン即ち判官によく似ている事か。我東北地方にては義経を尊んで単に判官といふ。蒙古語のハガンは訛っ てハンとなると蒙古字典にあるのも、それはその原因来歴を知らない編輯者の推測であるけれども、我々日本人から之を解釈すれば、ハガンはハンガンの訛り で、しかしてハンは義経の誕生地である日本京都人の長者に対する尊称の俗語あるという。汗即ちカンと云うのは上の意味にで君主叉は王の義である。即ち我日 本語の上(かみ)、中国語の君(くん)英語の国王などに等しく、全くの尊称であるから、汗の語を省き単に成吉思としてこれを論じるに、英語の史籍には、こ の名をゲン・ギ・スといい東洋語にてはゲン・ギ・ス或はヂン・ギ・スとするが、ゲンの音のゼン若くはヂンと訛るのは、各民族に属す土音に於て免れない所で ある。源義経の名を音読すればゲン・ギ・ケイとなり、そうしてこれが異なる国々の土音にゲン・ギ・ス或はヂン・ギ・ス、又はゼン・ギ・スと訛るのは即ち免 れられないところ、此の理を推測して成吉思は源義経の名を音読せるものなりとするのは、誤りのない見解である。なを此の名称を著者は満蒙に入り土人に就て 実研せし事柄は第六章に詳述せむ。