2004.12.01
小谷部全一郎の世界 『成吉思汗は源義経也』
 私がこの本に出会ったのは全くの偶然でした。「義経の系図」を手にして、そこに書かれている義経が成吉思汗になったという内容に少なからぬ驚きを覚えて いました。なぜなら、こんな話は推理小説の世界のこととしか考えていなかったからです。かって私が推理小説マニアであった頃、その手の多くの新書本をかっ て読んだ中に、高木彬光の『成吉思汗の秘密』がありました。それを今一度読んでみようと書棚をかき回してみたが見つからず、改めて書店で文庫本を買い求め 読み直して見たりしたものでした。

 そう言った日々の中で、『成吉思汗の秘密』は小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経也』をヒントとして書かれたものだという説に出くわしました。それがどん な本なのかわかりませんが、その本が出版された大正13年、ごうごうたる反響が沸騰し『成吉思汗は義経にあらず』という特集が出る始末、それに対し小谷部 は『著述の動機と再論』を再び世に問うという有様で、反論者の中には言語学者でアイヌ文学にも精通した有名な金田一京助なども含まれていました。その論争 がどのように決着したのかは知りません。とにかく大正末期に出されたこの本が義経研究に新たな火をつけたことは確かだったのです。

 この本を何とかして読みたいと思った私は、利用可能な図書館、古書店などをたずね歩きましたがどうしても見つけることができず、半ばあきらめていた時、 歴史研究会の梅村氏に誘われて神戸市須磨区白川の鷲尾家をたずねることになりました。今一人、研究会会員の神田氏と三人で鷲尾邸を訪れ、鷲尾家のことなど いろいろ話していましたが、その内梅村氏が
「この足立さんは、もしかしたら義経の血を受け継いでいる一人かも知れません」
と切り出したのです。
すでにお気づきかも知れませんが、この鷲尾家は一ノ谷の合戦の時、義経に肩入れしたと伝えられています。『平家物語』の「老馬」に出てくる道案内のわっぱ ではなく、ここでの話は鵯越の向かいの山に一夜城を構え、逆落としの刻に合わせて騒ぎ立てて平家の目を釘付けにするという役を引き受けたと伝えられていま す。
 この時、私が『成吉思汗は源義経也』を探していると話しますと、
「その本ならありますよ」
と簡単に言ってのけ、奥から何冊かの古びた和綴じの本と共に持ち出してきました。みると
このお宅には、延暦元年(782)の正月と記された『続日本記』を初めとして16世紀から19世紀にかけて書かれた古書が約400項目、冊数にして数千冊 蔵書されているとのことでした。そしてこの訪問を機会に後日、神田氏が書庫に入って目録を作成されたのですが、その目録を目にして、目を見張る内容に驚か されました。

 この鷲尾家の系図は、神武天皇の時代から書かれ、初代は神皇産霊尊(かんみむすびのみこと)となっています。その43代目に当たる伊久女が応仁天皇の第四皇子、額田大中彦皇子の子を身ごもり、さらにそれから32代目の満寿女が村上源氏の久我内大臣雅通(ただみち)の妾となって通直を生みました。建久7年(1196)関白九条兼実を政権の座から引きずり落とした土御門通親は通直の異母兄に当たります。通直の子の興延が生まれたのは久寿元年(1154)、一ノ谷の戦いが起きたのは興延31歳の時でありました。その時興延と義経が出会ったわけです。その時の様子を鷲尾系図から引用しますと
搦め手の大将は義経公なり、然るに、義経公仰せには、敵の居城相考えるに、背は山にして人馬の行歩成り難き程なり。若しや宜しき道あるべしか。当地の庄司に尋るべしと 則て、興延宅へ上使を下す。これに依り、興延は厳命に随いて義経公の御前に罷り出る。その時、義経公は拙者に仰せらる。汝を頼む事、他の事に非ず。先ず差 し当たりて、宜しく地を選び、仮城を築き、猶搦手の山中の頼みたくのみ。
興延謹みて領掌して、即ち、一族並に被官等に相議して、畑村南山に日ならずに堅固の仮城を築き御本陣となす。それより急ぎ興延、搦手山中の案内者にて、御 大将を始め熊谷平山を先陣として、源氏一騎当千の軍兵を引具して、鵯越を逆落としに押し寄せ、、平家の籠もる城郭に火をかけ、越前守三位通盛等、平氏歴々 の一族数多誅戮、しかのみならず、三位中将重衡を生虜、一ノ谷悉く責め亡ぼし給い畢んぬ。
 源家大いに御悦び、上洛し玉ふ節、興延を即ち義経公御前に召され、この度の忠義の恩報のため、鷲尾勘解由の号を賜ふ。この時より末代に至りても、鷲尾を家名となす。その後文治五年閏4月28日、義経公奥州高舘城に於いて不幸の御他界故、更に何の御沙汰無きのみ。
 さて、私は手渡された『成吉思汗は源義経也』を手にして、
「この貴重な本をお貸し下さいとは云えないし、読みたくもあるし、」と当惑してしまいましたが、たまたまそこにいた鷲尾氏のお嬢さんが、
「お話をされている間にコピーしましょうか」
といって昭和五年11月に再刊され、『成吉思汗は源義経也』と『著述の動機と再論』を一冊にまとめられ410頁のその本をまるまるコピーして頂いて、帰ることになりました。





 小谷部氏は『著述の動機と再論』の中で次のように語っています。
この本の執筆の動機は、幼い頃から再三に渡って祖母から聞いた義経に関する伝説を聞いたこともさることながら、氏の家系が義経の牛若時代からの困窮の有様を髣髴させることにもあったと云います。
小谷部氏の先祖は出羽白鳥に住み最上川以西の一帯を領し、白鳥を姓として十郎長久と名乗って天正時代に城を築いていましたが、最上氏に偽られて討たれ国が 亡び、子孫は代々祖家再興を夢見て来ましたが赤手一城の主となること容易ではなく、当主の臨終には必ず嗣子に祖家再興を遺命するのを家訓としてきたといい ます。氏の祖父は武者修行に出て、諸国漫遊中に秋田の小谷部氏に危難を救われ、その縁で小谷部家に入って暮らす内に明治となり、改姓を許されず遂に小谷部 を名乗って全一郎の代まで来たのだと云います。
 その後父の善之助は、7歳の全一郎を祖母に託して上京し、苦学して法律学校を創立して校長になりましたが浅草の大火で学校を失い、仕官して大阪上等裁判 所の判事になりました。そうしてたまたま福島県に河野広中事件が起き、その検察官として転任、県知事に不利な論告を下した為、事件落着後は左遷に継ぐ左遷 の憂き目にあい、日向宮崎の任地において病没したと云います。
 全一郎は、この狭い日本ではいくら藻掻いてみても一国一城の主になることはできないから、大陸に渡って一旗揚げようと、その参考文献を本屋であさってい る時に『義経再興記』なる本を見つけ、それを買う金もなかったので三日間その本屋に通って読み、なお要点を記録しました。
 『義経再興記』の著者は末松謙澄で、ケンブリッジ大学の卒業論文として書かれました。それを邦訳したのは慶應義塾の学生であった内田弥八でした。末松は シイボルトが称えた義経大陸渡航の説をロンドンの図書館で読み、その内容をふくらませて『義経再興記』にまとめたといわれています。マルコポーロの云う黄 金の国ジパングとは平泉の中尊寺金色堂のことを指すと云われていますが、たまたま日本人にとってなじみの深い二人の西欧人が義経に関係深いのも不思議な話 ではありませんか。
 このような関係から小谷部全一郎は義経渡航の伝説に憑かれ、欧米の学窓での十数年の学業をなげうって、当時陸軍が試験の上、適材を採用するという新聞広 告に応じて、陸軍省における三日間にわたる厳密な試験を受けて合格し、高等官の資格を得て第五師団司令部付きとしてザ・バイカルに赴任しました。その実、 シベリア・満州・蒙古と渡り歩き、渡航後の義経の足跡をたどるというのが全一郎の主たる目的であったのは云うまでもありません。





 過去現在を含めて、義経の北行伝説の類は枚挙に暇がないくらいに多く、さらに渡海伝説も数多く見られますが、大陸に渡って実地にその足跡を踏破したの は、おそらく彼、小谷部全一郎以外にはいません。しかも時あたかも中世の名残を色濃くとどめる明治末葉でした。もしこれが昭和に入り、まして終戦後ともな れば、如何に文化の遅れた彼の地とはいえ、古い時代の名残は色あせて見えたことと思います。
 柳田国男が日本全国をたずね歩いて収集した民話・伝説をまとめて民俗学という新しい学問の分野を確立しましたが、これにしても終戦前と終戦後とでは事情はがらりと変わり、民俗学も日の目を見なかったかも知れないのです。
 ことほど左様に、時の流れというものが、過去を無惨に破壊し尽くし、目に触れることも、たずね歩くすべさえも無くしてしまいます。


『成吉思汗は源義経也』は大正年代に書かれたため、文語体で読みづらく、その上、当時の世相を反映してか、皇国史観に貫かれていて物事の考え方、表現の仕方に隔世の感を禁じ得ません。
ここにその内容を紹介するに当たり、極力それらの難点を排除し、かつ小谷部の足跡を忠実に辿る事を心がけながら、作業を進めていきたいと思います。
とは云っても、その内容は多岐に渡りますので適度に割愛しながら進めていきますので、最後までご愛読願います。


目   次
        はじめに

第一章・・・・・総.  説
第二章・・・・・死を伝へられて生存せる人の実例
第三章・・・・・義経高館に死せず
第四章・・・・・義経蝦夷に逃る
第五章・・・・・日本と粛慎及び義経の渡海
第六章・・・・・西此利亜及沿海州の蘇城
第七章・・・・・雙城子と「義」将軍の古碑
第八章・・・・・興安嶺と武将の遺跡
第九章・・・・・成吉思汗の都址
第十章・・・・・成吉思汗の遺蹟と義経
第十一章・・・蒙古族行及彼我風習の類似
弟十二章・・・義経対成吉思汗