2005.04.07
外にもあった二つの『義経後裔伝説』

其の一


 先ほどの氷上郡柏原町下小倉「長澤系図」の重基の傍注に「母 九郎判官源義経女(娘)、右衛門尉光綱為猶子嫁義基」とあるのがその一つです。
ここには、ではその娘の母は誰なのか、ということは書かれておりません。これでは調べようにもその手がかりすらないわけで、しばらくはそのままにしていました。しかし気になるので今一度挑戦してみようと思い、その手がかりとして右衛門尉光綱を探すことから始めたわけです。『尊卑分脈』その他の系図集から、同時代人と思われる光綱を探し出し、右衛門尉或いは左衛門尉の官位を持つ光綱に的を絞っていきました。
 こうして最後にたどり着いたのは、野木二郎左衛門尉光綱です。この光綱は近江源氏佐々木秀義の四男、高綱の次男で五男の出雲・隠岐守護職になった義清の猶子になり、出雲國野木に住んで野木を名乗りました。因みにこの野木二郎光綱の子孫の一人が日露戦争で活躍した乃木希典大将です。
 

其の二


 こうして目指している光綱が野木二郎光綱らし、と言ういことが明らかにはなりましたが、果たしてその光綱が義経の娘とどう結びつくのか判らないまま、又暫く時が流れていきました。 
 当時私はある歴史研究会に所属していてその機関誌に『丹波義経の系図』を投稿していましたが、それを見た読者の一人が送ってきた文書があります。それは大阪府豊能郡能勢町の野木円之助氏宅に伝わる文書で、その内容についての真偽の程は不明です。

     大阪府豊能郡能勢町 『野木円之助蔵文書』

  •                勧請札写一ッ
  •   如世尊勅    為悦衆生故
  • 奉勧請稲荷大明神鎮座
  •   当具奉行    現無量神力


  •                 勧請札写一ッ
  •   南無多寶如来
  • 南無寶蓮華経  源頼高尊祇
  •   南無釈迦牟尼佛
  • 清和天皇之後胤 安井家先祖タリ

人皇五六代清和天皇の後胤多田満仲
八代 正四位上式部大輔兼摂津守源
頼基ノ男源姓安井権守源頼高   
母ハ 九郎判官源義経ノ女承元元年
卯2月12日誕生 承久3年己2月
12日拝原住ス弘安元年寅4月2日
         卒 行年71歳
春光院殿源庶頼高居士    

右ハ安井家ノ元祖タリ、
  是ハ、弥三右衛門殿持参書写

  • 丹波笹山山王地山稲荷大明神様心願有之御ニ付此地安置仕度存以間此
  • 度新ニ小社建立仕以御勧請被成下様ト被願以故任願則勧請仕御法主一事院
  • 日意時 文政10丁亥年春分勧請札無年号頼ミ也 不審存故 野木仙右衛門
  • 方エ記書弥三右衛門噂 清和天皇ノ後胤安井家ノ元祖タリト申ハ当谷私家敷
  • ニ御座以間 地主神ト被成稲荷小社之中供勧請仕拙宅ヨリ供物灯明等奉度存
  • 以ト申義ル故稲荷社ニ供座勧請 然ル所年号月日御改以持参之書付ニハ年号
  • 月日至テ明記御座安井家之元祖源頼高 春光院殿死去ノ年号ヨリハ550年
  • 来過事ニ以弥三右衛門方 野木仙右衛門分家兄弟五人之内 先祖弥左衛門
  • 法名源江融君女房法名恵光妙持君江融100年忌相当摂院日号ニ居士大姉
  • 号迄望 石塔文字削切替ヘ事皆同年依去ニ本家仙右衛門方ヘ稲荷并源頼高
  • 供勧請之趣相記置者也                                 
  •                                  常照庵時住僧 字俊誠事
  •       文政10丁亥歳                    一事院日意 花押
  •   野木仙右衛門殿

     
 これが文書に書かれた全てです、これでは何を書いてあるのかよくわかりません。ただ右上の記録から安井権守頼高が源義経の娘の産んだ子であると云っている事は判ります。しかし多田源氏の系譜から父であると書かれている源頼基を探してみますと、源三位頼政の従兄弟に当たる国基の曾孫に頼基がいました。しかもこの国基は摂津國能勢(大阪府豊能郡能勢町)に住んで能勢を氏名とし、子孫は代々能勢郡田尻に住み、寛喜3年(1231)に鎌倉幕府から田尻莊の地頭職を保証されています。
 国基の子の國能は能勢判官代、その子重綱は田尻冠者、そして頼基は皇后宮権大進を務めました。頼基には広経と頼仲という2人の子の名が記されていますが頼高の名はありません、もし頼高の母が本当に義経の娘であったなら、当時の状況から考えて公にしなかったとも考えられます。

 この田尻の地頭職は重綱の弟、保頼の子孫が継承しましたが隣接する兵庫川辺郡一庫の一蔵城主塩川氏と折り合いが悪く、長年にわたって攻めたり攻められたりを繰り返している間に疲弊していき、天正時代に明智光秀の取りなしで織田家に仕えるようになりましたが以後光秀の指揮下に入り、本能寺の変にも参加して光秀が亡びた跡、丹波・備前と逃亡し、宇喜多家・大和大納言秀長と主を転々とし、最後に徳川家康に従って関ヶ原で軍功を立てて旧領の能勢を与えられたと云います。
 この文書に書かれている安井氏というのはその後氷上郡柏原に住んだと云われていますが、その一族かどうかは判りませんが電話帳で見ると18軒の安井姓が有ります。その安井家の由緒を持つ稲荷社を野木家が祭っていたというのです。
 真相はよくわかりませんが、この義経に関わる話の中に野木家が関係しているという事で、もしかして(其の一)で私が探し出した野木二郎左衛門尉光綱と関係が有るのではなかろうかと云うことです。

 かって野木二郎左衛門尉光綱を見つけ出した私は、まさか出雲の野木に住んでいる光綱と遠く離れた丹波國桑田郡宮川神尾山の中澤家との間に果たして関係が有るだろうかと考えていたのですが、宮川から能勢町宿野へは、能勢街道を歩けば距離にあり、距離にして僅か10km余りにしか過ぎないことが判るでしょう。そこへ行く途中、ゴルフ場のある小高い山の一つ手前に田尻川に沿って田尻の集落があります。

 じつは『笑路城発掘調査報告書』を見るために亀岡市立図書館に行ったとき、たまたまそこで地元に伝わるという義経伝説に出会いました。それは亀岡市本梅町加舎に伝わる伝説で、次のようなものです。
判官縄手
北麓に山に添ひ、西加舎に行く道有り、俗に判官縄手といふ。昔義経一ノ谷に被向候節、此の路を通られしといふ。

義経の駒摺石
依之千畑へ越る道に駒摺石の名あり、尤も其比は今之様に諸道不開にハ可有之成共、此道筋を被行とは不審之事也
  • 往昔源九郎判官義経、平家サントテ、摂州一ノ谷時、大江山打越、丹波路入、亀山・佐伯東加舎ヨリ摂州能勢、一ノ谷越玉フト云。又曰、是表道也、則東加舎ヨリ千ヶ畑越、一ノ谷裏手シテフト云、是敵不意間道也、又千ヶ畑越古道判官縄手フアリ
  •                                               丹波志桑田郡記
 
 この記述の前半は矛盾が感じられます、東加舎から能勢へ出たあと、どう云った道を歩いたというのでしょう。あのとき義経は篠山盆地へ現れ、多くの伝説を残して西へ進み、加東郡社の三草山で平家の後門を退けたあと、一ノ谷に向かったことは歴史の定説になっています。その意味では「又曰く」以下に書かれている「東加舎より千ヶ畑越しに」の方が納得できるような気がします。東加舎からまっすぐにしに進み、千ヶ畑を経て天王峠から多紀郡福住へ出れば、自ずとそこは篠山盆地の東の端になり、歴史の定説と矛盾しないわけです。
 然しここでまたしても矛盾につきあたります。義経はその時すでに判官の位を受けていたのでしょうか、粟津で木曾義仲を討ったのが1月20日、平家追討のために京都を発ったのが1月29日、宇治川の合戦で勝利して義仲を討ったとはいえ、なのです。義経はその年の8月6日左衛門少将になり、その月の内に検非違使別当になっています。
 ついでに云えば、9月18日院の宣旨を蒙り叙留、従五位下、10月15日院の昇殿を認めらる、10月25日大嘗会禊の行幸に供奉、文治元年4月27日院の御厩の司に補せらる。 以上が義経の官位に関する記録です。
 義経の率いる搦め手軍は、京都を1月29日に出た後、老の坂(大枝山)で2月3日まで過ごします、一つには2月4日の清盛の1周忌を無事に終わらせてやろうという思いやり、もう一つは後白河法皇と平宗盛との三種の神器返還交渉の成り行きを見守るためと言う事であったらしいのですが、その2月3日が過ぎて義経軍は老いの坂から中丹波の篠山まで二日の道のりを一日で駆けて篠山路にたどり着きます。こんな強行軍なのにどうして能勢の方まで回り道をしたりするでしょうか。


 それよりも私は、これらの義経の行動の内のいくつかを、吉野へ逃亡した後の逃避行の足跡としてとらえてみたいのです。たとえば『多紀郷土史考』によりりますと、義経は当時山岳信仰のメッカとして栄えた三岳山に両三年の間匿われていたと有ります、篠山北部には鷲尾部落に鷲尾三郎の墓があり、その少し西に伊勢三郎の供養塔があるなどと、義経の伝説に事欠きません。
 かって私が中澤家の遺跡を尋ねて永沢寺を訪れたとき、渡辺住職が「義経が丹波へ逃れてきたとき」と話すのを聴いて、あれっ、とおもいました、義経は平家を攻めるために丹波を通過したはずではないかと、しかし後になって考えてみれば住職の云う「丹波に逃げてきた」という認識は一面の真実であったのかも知れないのです。
こうして見ていきますと、義経を廻る後裔伝説が亀岡市西北部の宮川をを中心に、半径10Kmに満たない範囲の中に三つも有るというのが不思議と云えないこともありません。

  1. 長澤義種  船井郡園部町小山 五合山城
  2. 中澤重基  亀岡市宮前町宮川 神尾山城
  3. 安井頼高  豊能郡能勢町田尻  

この中で母の情報が伝えられているのは(1)の義種だけです。そしてこの義種は『丹波歴史年表』によると元歴元年11月に生まれ たと云われています。元歴元年月4日、義経の率いる搦め手軍は福原の平家を討つべく、老いの坂を発ち篠山を経て三草山へ向けて進軍していきました。その道 が加舎から千ヶ畑を経て天王峠越えに進んだのか、北よりの道を天引峠を越えて篠山盆地へ入ったのかは不明です。
 ただ、この道中か、或いは大枝山で待機している間に義経と長沢遠種の娘との出会いがあったことになり、逃亡後の義経が篠山北部の三岳山に潜んだと云うの もうなずけないわけではないのです。長沢遠種はいち早く貴種の種を我が娘の腹に植え付けることに成功しますが、この後義経追討という鎌倉の仕打ちに遭い、 やむなく義経の子であることを秘匿して頼朝の執拗な追及の手を逃れ、長澤の嫡系として義種を育てることに成功しました。


さてこれらの義経後裔説ですが、この跡どのように展開していくのでしょうか。