義経の末裔
上に掲げるのは私が奥丹波で発見した『義経の系図』の巻頭部分に描かれた菊の御紋を含む長澤・中澤・中西家を経る累代の家紋と、それに続く清和天皇から源頼朝までの十代の系譜を原本の形をそのままにパノラマ風にスライド表示しています。この「義経の系図」は上に見ていただいた分だけでもA3用紙27枚にわたるもので、それをスライド用に再編集しています。画像左下の[+]ボタンをクリックすれば拡大表示できないこともありませんが、ファイルサイズを小さくするため相当圧縮していますので実用には耐えません。ただ、こういう系図が有ると云うことを知っていただくため系図の形態をそのままの姿で掲載しました。イメージとしてご覧下さい。 Java VMはサンマイクロ社とMicrosoftとの関係から、現在利用不能らしく、残念ながら現在のところスライドの表示をあきらめざるを得ないようです。あしからずご了承願います。なをこの内容は12mmもの長さを持ち、非常に貴重なものですから、改めて何らかの形で見ていただけるようにしたいと思います。 ここに公開する系図は非常にドラマチックな形で私の手に入ったものでした。 平成11年10月22日、私は所用があって但馬の生家に行き、その帰り道を迂回して氷上郡青垣町山垣に立ち寄り、例の足立正巳氏の宅を訪ねました。山垣に来るのももう何回目になるでしょう、そんな感慨を抱きながら正巳氏と話しをしていましたが、ふと、例の系図はどこから来たのかと訪ねてみたところ、それは東芦田の小寺さんが持ち込んだものだというのです。そのあっけらかんとした返事に私は、その系図の出所を憶測しながら、まるで消化不良を起こした胃を抱えているように悶々としていた日々のことを考えました。 早速その所在を確かめ、その足で小寺氏のもとを訪ねるべく道を急いだのでした。しかし東芦田の入り口まで来て、小寺氏の家の在処を尋ねるべく車を降りた私の目の前に村の掲示板がありました。何気なくその掲示板を目にした私はそこに張出された訃報を見て唖然としたのです。小寺氏は私が訪ねようとしたまさにその日の朝亡くなり今夜がお通夜だといいます。 あわててポケットを探ってたばこを取り出し、火を点けようとした私の手はふがいもなく震えて、なかなかたばこに火が点きませんでした。1時間ほどもそこに座り込んでいたでしょうか、いくら何でもお通夜の準備でごった返しているところえへ乗り込んで行くわけにも行かず、私の『義経の系図』に関する調査活動も是で終わるのか、と暗澹たる思いだったのです。 神戸へ向けての帰り道、然し考えてみれば私は小寺氏の話を聞くために訪ねたわけではない、『義経の系図』を求めていたのだ、だとすればその系図は小寺氏の遺品の中に今も有るのかも知れない。小寺氏が冥土へ旅立った今日という日に小寺氏の魂魄が私を引き寄せたのかも知れないと考えれば、その予想は必ず的中するであろう。それに一縷の望みを託して後日の訪問に期待しよう、そう考えた私の予測ははしなくも的中することになったのです。 その年の12月23日、奥丹波は道端に雪を残す寒い日でした。前日電話で訪問を告げていたせいもあってか、奥さんは座敷に石油ストーブを焚いて私が行くのを待っていてくれました。小寺氏は旧満州から引き上げ、町役場に勤めましたがシベリヤ抑留生活の苦労がたたって病の床に就き、その後役場勤めを辞めて細々とした農業の傍ら、不動産を扱い生計を立てていました。不動産業と言っても山間の田舎のこととて、都市のように住宅販売や貸間を斡旋する様なものではなく、田畠や山林の売買周旋が主な仕事でした。 奥さんが持ち出してきた書類は小寺氏の所縁の別所氏、地元の芦田氏、それに奥丹波有数の大族足立氏の系図など、丁寧な字で自らが書き上げたものなどでしたが、そこには私の目指す『義経の系図』は見つかりませんでした。奥さんと話をしながらそれらの遺品を丁寧に見ていき、外にはもうありませんか、と何回か尋ねました。その都度奥に入って探していた奥さんが最後にこんなものか有りますけど、と言って持ち出し、差し出した紙包みを見てもしや、と言う予感がありまた。円筒形に包まれたその紙包みは直系10cm、長さ30cm程もあろうか、おそるおそる手にとって開いてみるとそれは表装も何もされていないで単に和紙を無造作に巻き付けだけのものでしたが、それはまさしく私が夢にまで見た『義経の系図』だったのです。一枚の和紙の巾は29.5cm、長さ62cm、その和紙を36枚張り接ぎ毛筆の細かな字で克明に書かれていました。 後に知ったことですが、小寺氏には姪がいて当時の国鉄福知山病院の看護婦長をしていましたが、その病院の院長が安酸睦博氏といって、鳥取縣の出身とのことです。ところがこの安酸氏の先祖が足立氏と云い伝えられているとのことで、その調査のために氷上郡青垣町を訪れることになり、小寺氏の姪の伝手で小寺氏が案内し、その後も親交を結んだといいます。安酸氏の足立氏研究の成果は当時の感熱式ワープロで打たれ、凡そ10分冊が小寺氏のもとにももたらされていたので借用して拝見することになりました。 「良かったら持って帰って役立ててください、私の子供たちは凡そ歴史とは無縁の世界にいますし、こうしてお出会いできたのも何かの縁ですし、研究に役立ててもらえれば主人も満足することと思います」 そういう奥さんの言葉に甘え、小寺氏の歴史に関係する遺品の全てを段ポール箱におさめ小寺邸を後にしたのでした。 上の系図ですでにお気づきの通り、この系図は中西家の系図です。中西家は中澤忠勝が中澤氏11代目の中澤四郎左衛門尉重忠(道忍)>の次男として生まれ、中西庄左衛門範胤の婿養子となり源姓中西氏の始祖となりました。 忠勝は初め叔父である忠憲の跡目を相続して氷上郡三井庄(ミノノショウ)の地頭職になりましたが、大永7年2月13日、かねて確執の続いていた八上城主波多野植通と管領の細川高國とが京都桂川で戦い、高國側が敗走、この時高國に与していた忠勝は紀州雑賀に難を避け、上記の中西家に寄寓するうちその娘と懇ろになり、ついに聟として家督を相続、のちに丹波に帰り船井郡本免庄大内(現亀岡市東本梅町大内)に定住しそこで子孫が繁栄しました。これから見ていただく中澤系図でも判りますが、実は忠勝より六代前の当主壱岐守信明の異母妹が備前國邑久郡北地邑の中西四郎範泰に嫁いでいますが、おそらく紀州に難を避けた忠勝はその先祖の縁を頼って中西家に寄宿したものと考えられます。 さらに忠勝から数えて15代目重為が分家して大阪に移住しそれから4代目の中西清次郎秀之がこの系図を清書して今日に至りました。 丹波『義経の系図』 先のスライドの系図の続きです。系図の内容には極力忠実に再現しています。 何故義経が成吉思汗なのか、と言う疑問も有ろうかと思いますが、とりあえずはこの系図をじっくりと見ていただくために静止画にして公開することと致しました。 これはおそらく本邦初公開の御曹司源義経の子孫の系図であると思われます。 中澤家の始祖、源五左衛門尉重政の母が畠山重忠の娘であることに注目してください。 更にこの母が足立家の始祖、左衛門尉遠元の外孫に当たる事も付け加えておきます。 丹波歴史年表によりますと、「暦仁元年(1238)6月、中澤盛綱の後胤が戦功により大山庄徳永を拝領」とありますが、暦仁元年には盛綱はまだ少年の域を出るかでないかの14~5歳でしたから大山を拝領したのは盛綱の後胤ではなく、盛綱自身であったと思われます。なぜかといいますと、この年の2月17日に頼経が将軍となって初めて入洛、その隋兵として盛綱は兄の重綱と共に従っていました。 そして6月5日には頼経の奈良春日社詣でに従い、15人の内の一人として直垂、帯剣の姿で将軍の輿の左右を列歩しました。 但し各5人ごとの輪番で、2里を経るごとに交代して互いに休息した。と『吾妻鏡』は伝えています。当時、戦らしいものもなかったことから、おそらく盛綱が大山庄徳永を拝領したのは春日詣での時の随行の賞ではなかったかと考えます。 その徳永の地がそれから340年の後、天正6年の大山城落城によって逃れた中澤家の遺児たちの隠れ里となったのも何かの因縁であったかも知れないのです。今でこそ殆どの人が知らない徳永という地名ですが当時は相当廣い範囲を徳永と言っていたらしく、以前には何カ所かに徳永の飛び地があり明治8年の地租改正の時に現在のように整理統合されたと云うことです。 中澤家の支配地はこの三郎左衛門尉重正の代にいたって初めて明らかにされています。当家所領のうち最後に書かれている大山庄内清徳名というのが徳永の一部に相当する土地のことで有るのは云うまでもありません。そのほか石積と言う地名も出てきます。 後ほど詳しく述べることにしますが、この系図の編者は系図編纂の史料を得るために大山村徳永を訪れているはずなのに、どうしてあの有名な「壱岐守信明譲状」の事をこの系図に書かなかったのでしょう。しかも編纂が終了した後、本家筋である中澤家にその内容をどうして伝えなかったのか、徳永の中澤家が系図を焼失して意気消沈していることは知っていたと思われるのに。 ここでもう一度、信明の二つの譲状を改めて見てみたいと思います。 上に表示されている譲状は左衛門尉信明の譲状、下が同じ年の2ヶ月後に書かれた壱岐守信明の譲状です。 壱岐守信明と共に有名な道忍の譲状は上の四郎左衛門尉重忠(道忍)の筆になるものです。 重忠は上の系図にも有るとおり永正元年4月3日に入道して道忍と名乗りました。そしてその4年後の永正4年6月12日に譲状を書き更に2年後に亡くなりました。 信明にならってここでも道忍の譲状を今一度引用したいと思います。 こうして明らかになった中澤家の所領を見ていきますと、代を経るごとにその所領地が増えていったことが判ります。そこのところを表にまとめて見ると次のようになります。
これらのうち初代・2代については系図にも書かれず、譲状もありませんが上野國多胡庄と武蔵國中澤郷は丹波における義経の岳父である長澤遠種が先祖から受け継いできた領地で、そのまま中澤家が相続しました。弥勒寺別院庄は初代重政が地頭を務めましたが一旦は系図から姿を消しています。 7代目の信實の時、その所領の合計は4萬4千8百余石であったと系図に書いていますから相当な石高だったわけです。 この系図は中西家のものであるため忠基以降の中澤家についての詳しい事績は書かれていません、 従ってここまで各代の当主の母の出自が必ず書かれていましたが忠基の子息基重、その子基清等は母さえも不明であり、基清が遊楽庄地頭職であったかどうかも不明です。 基清が遊楽庄地頭であったのか、或いは大山城主であったのかも不明ですが、おそらく大山城主ではなく遊楽に居たものと考えられます。しかし遊楽庄と大山城とは近く、天正6年8月15日の明智勢の攻撃は周辺の城を掃討しながら大山城に迫ったものと思われますから、系図にある基清の死亡日はおそらく正しいのでしょう。 信明の譲状のところでも書きましたが、この系図と大山徳永の中澤家の系図とは全く別の時期、別の条件の元で書かれ、当然情報の共有もありませんでした。にもかかわらず私がこの系図を見て驚いたのは基清等兄弟三人の名が全く同じ形で徳永中澤家の系図の冒頭に書かれていた事なのです。 その中澤系図の冒頭の部分を今一度ご覧いただきたいと思います。 (大山村徳永『中澤系図』のサイトから) この系図は前にも話しましたように、元禄15年12月29日の火災で焼けた徳永中澤家の系図ではなく、上に書かれた重政の孫の胖右衛門近憲が書き起こした 系図で、近憲にも伯耆守基清以前の事は思い出すことができず、やむなく天正5年からの系図になったのだと書いています。こうして徳永の中澤家には中西秀之 が清書した系図も渡らずその情報も伝えられなかった。かくしてその遠い先祖が源義経であったという事実も中澤家の一族は知らず、今日に至りました。 次回は中西家について、若干の知り得た話をしたいと思います。 Copyright(C) 2010 Kuwaichi.dip.jp, All rights reserved.
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