2001.3.18
このサイトについて
このホームページの主要テーマは『足立左衛門尉遠元』にあります。
日本の歴史の中で、実質的に初めて武家政治を実現した鎌倉幕府。
その幕府成立の過程を陰で支え、幕府草創の立て役者となって歴史にその名を残した人たち、或いはまた多くの功績を残しながらも殆ど無名のままに歴史の狭間に消えていった人々、それらの人々が残したさまざまな謎を追いかけて、私なりの視点から新たな試論を試みようとするものである。

 歴史は実証主義だと云われる。動かし得ない証拠を並べてこうであった、と云うのが歴史なのか。だとすれば確実な史料が無いところに歴史は存在しないのか、と云えばさにあらず、我々は何一つ史料を残さなかったかも知れないが、それでも何千年、何万年の年月を経て今、この世に存在しているのである。それ自身歴史とは云えまいか。

 このレポートはその実証主義の枠に捕らわれず、私なりの独断と偏見をもって、自由な発想で鎌倉時代の中に歴史のロマンを求めて、飽くなき思索を重ねていきたいと考える。従っててこのHPを読まれるみなさんは、歴史的実証の枠にとらわれず、小説でも読むような軽い気持ちで読んでいただきたい。

足立左衛門尉遠元(とおもと)と云っても、恐らく大部分の方はその名前すらご存じないと思います。それはローカル、と云うよりも日本の歴史の中で恐らく無名に近い存在と云うべきではないでしょうか。しかし皆さんはこのホームページを読まれることによって、彼が鎌倉幕府に果たした役割が如何に大きかったか、そして征夷大将軍の源頼朝でさえも、無視することの出来なかった彼の存在の大きさを判っていただけることと思います。

 遠元は足立家の始祖でありながら長い間その事跡を知ることが出来ませんでした。記録に見る遠元の事績は『平治物語』の若干のエピソードと、『吾妻鏡』に出てくる断片的な記録しか有りません。

 武藏で生まれ、保元・平治の乱に出陣し、鎌倉幕府の公文所寄人となり、頼家時代に13人合議制の一人として名を連ねたことは判っても、それでは彼はどんな人だったのか、どんな事をしたというのか全く判りませんでした。

 彼を巡る数々の人の繋がり、そして出来事、・・・・・・・ここに登場する人たちは全て、何らかの形で足立遠元に関わり、彼の人生に影響を与えた人たちなのです。そうした人々に登場いただいて、こうした謎だらけであった足立遠元に光を当て、陽の当たる場所に導き出して行きたいと思います。

 かく云う私、足立 勗 (つとむ)は、ここに取り上げる足立遠元の子孫の一人で、昭和9年に兵庫県朝来郡に生まれました。地元の高校をへて東京に遊学、故郷に帰ってから兵庫県内を転々とし、現在は神戸市垂水区に25年間在住、30年ほど前から足立家の歴史発掘を手がけ、定年になって本格的な研究を重ねて参りました。

 この研究の副産物として、丹波足立家2代目に嫁いだのが源義経の落とし種の子孫であると云うことが判り、しばらくその研究にも没頭し、兵庫県篠山市に一人、京都府亀岡市に40軒ほど義経の末孫が現在も生活されていることを確認しましたが、いずれも自分が義経に連なる家系であるということをご存じ無かった、というおまけまで付いています。従って私にも源義経の血が何千万分の一か流れていることになります。

平成16年2月、勤めの余暇を利用して今一度、太田亮氏が『姓氏家系大辞典』に 書いている足立氏の先祖に武蔵武芝が関わった可能性について調べてみることにしました。その結果、驚くべき事がわかってきたのです。それは武蔵武芝はおろか、それと関係のあった平将門までもが足立遠元の母の家系に深く関係していることが明らかになったのです。しかもこの二人の娘が共に秩父平氏に嫁ぎ、その子孫が豊島(てしま)氏、すなわち遠元の母の家系へとつながってきたという、まるで物語の世界のような話なのです。

 3月になって、この可能性を裏付ける、より詳細な『西角井系図』の資料を見つける事になりました。こうして将門と、武蔵武芝とのそれぞれの娘が秩父平氏の子を産み、その子孫が豊嶋氏を通じて足立遠元へと、その血脈を伝えてきた事が明らかになってきたのです。

では、物語の世界へ・・・・・どうぞ