2004.12.04
○ 清朝は源義経の裔なり
 清の太祖は姓を愛親覚羅と称し、その先、成吉思汗に出た.一説に曰く愛親覚羅は士音アシハラと訓読みすると。我が日本の別名を葦原の國というその語音に 通じるのもまた偶然であると云う可らず。愛親覚羅氏、性勇猛果断兵を用いるに神の如くであった。年25にして兵を満洲に起し、遼河以東70餘城を下し、遼 陽に遷都し、幾ばくもへずして廣寧に攻入り、40餘城堡を下し、更に都を瀋陽に遷して大祖はこの地に崩じた。その子皇太極立つ、これを太宗皇帝と云う。乃 ち父帝の志を継いで明を攻め、錦州を下し大凌河に戦いて大に明兵を破り、明の諸将相前後して降る者多く、これよりその勢威益々盛になって、國號を清と改め た。時に太宗の崇禎十年、我朝の紀元2297年に當る。それより26年後の康熈元年に清朝中興の聖祖が即位する。康熈の末年をへだたる15年にして乾隆元 年となり高宗が即位した。いずれも建国後間もない時代の人であるから、曾祖成吉思汗に関する口碑伝説はなおその胸底に活存していたこと疑を容れない。中国 文華の最も隆盛であった康熈の後を承けて帝位を継いだ明君乾隆皇帝が、康熈帝の欽定、古今図書集成一萬巻の中の図書輯勘録に、自ら序を書いて、「朕姓源、義経之裔也、其発出清和故號國清. と宜し給いしことは、我が国中国古學の大家伊藤才蔵の記録、及び伴信友の中外経緯傅、その他吉良義風の温故集談并に鎌倉実記等にもこれを明記している。成 吉思汗の源姓なることは、清朝歴代の夙に知るところであるが、苛も一國の體面に関することであるから、実傅は宮中秘府の秘録として外に洩さず史官が史を修 めたる時に、「金櫃之書.悉入秘於府として口を緘し、秘府にありても「法不於外と して皇族と雖も之を上梓すること能はなかったが、図らずも制序の一句に、朕姓源云々の一事密かに外に洩れたのである、しかも此の序文は、後に清朝に異議が 起り清國政府は多くの章句を削って此書の流布を許したけれども、たまたま原文の手写せるものが残って彼國學者の論議に上る諸家の學説日本にも傅はった。後 ち帝国政府は其の流布を認めたが此書が始めて我が国に舶来したのは明和元年(1764)のことで、清人汪縄武が之をもたらし時の官府に買上げられて今、紅 葉山文庫に所蔵されている。また明治年代に竹添天津領事が其筋の命に依りこの書を購入して帰朝したと云ふ。清國が古今図書集成を他国に出すに當り「朕姓 源、義経之裔也、其先出清和、故號國清」 云々と記載した原文のである勅序を添えたと考へた本邦の読書人は迂闊千萬なものであって、舶来の此書の序文に噂のような明文がななかったが為に事実無根な りとした學者の没常識も亦極まれりというべきか。家斉公の侍医桂川中良及び伊勢貞丈等は、鎮國退嬰主義の幕府の政策に迎合してか、或はこれに依って清國が 日本に野心を懐くものと推測してか頻りに義経の高館自侭説を主張し、彼の大陸復興が偽りである事を拳げて、これを弁駁するに至った。著者の聞くところに依 ると其頃より陸奥の平泉地方に於て年中行事の一つである義経高館落にまつわる劍舞いの拳行を禁ぜられたと云う(この舞は現在も盛岡市に傅はること第三章に 詳説す)。近代にあっても高館自刄説を唱える學者があるのは畢竟義経復興の事蹟を調査してこれを論證する人が無がが故である。しかして
「此の問題は今日史家の間には殆ど全く否定されたものなである」
云々と大正四年博文館發行の成吉思汗伝にその書の著者が断定的に告白したのは、その根底なき史眼を燐むととも、に我が學界の為め歎惜に堪えない。舊套を脱 す事のできない學者の常としてその身一歩も書窓の外に出でずして、口碑傅説の遣る沿海洲と満蒙の地に臨検して実際的研究をすることもなく、漠然権威の無い 言説及び蠢餘の断簡零編にのみ拠ってみだりに臆断を下し、殊に重野博士の如きは
「其の時に義経が諷然として赴き王たりしとは嗤笑に堪へず」
と論じ、或は又
「その心は所謂小心翼々たる人なり。即ち其證とは頼朝と不和の後、頼朝が院宣を得て討伐せんとせし際、恰も鼠の如く微服して逃げたり。其時若し大志あらば 平家の餘類等を招集して必ず為すことあらんのみ。其小心なる推して知るべし。」(前記成吉思汗傅の附禄重野博士講義録の一節)
云々と言うが如きは理不尽の甚だしきものとする。義経が既往の言行に顧みれば、彼には院宣に抗し朝廷に弓を引くこともなく、父なき後は兄頼朝を父と頼んだ その兄に対して飽まで雌雄を決せんとする不逞の心も持っていなかった、逮捕の院宣下るや微服して逃れたのは海外に雄飛して再興を試みる志があって為したこ とであったから、彼には区々たる平家の余燼を糾合するが如き蝸牛角上の争ひを潔しとせず、世を覆い尽くすほどの手腕や気力を持って大志があるのに想い至ら ず、軽率に之を臆断して自国の名将を辱かしめ、ひいては後進をあやまらしめた責任は免れる事はできない。人はその身一代で終るけれども、しかし人類は世傅 代承して永遠に続くものであるから、國家及び後昆に重大なる関係を有する史実の断案は容易に決し去るべきものではない、要は多くの星霜を之が研鑽に費しし こうしてその結晶である明確不動の眞相を世に傅得るのでなければ史家の天職を尽したという事にはならない。清朝は我が義経の裔であるとの説を聴いて苛も一 國を代表して我が国に駐剳した時の清国公使黎庶昌にその実否を訊ねるなどの迂潤なる行動に出ず、敢然として北京に到り清廷に職事する碩學の書庫に御製序文 の削られていない原本を探るか、或は太祖の興隆した満蒙の地に入り、口碑を探り傳説に索め、或は民俗に遣る風習言語の事実に就て研究し、其の実践を慥めて 之を世に發表し、日本民族は欧亜に跨がる重要事項には皆な交渉聯絡あることを宜明し、併せて日本と中国とは古来友邦の義の存在すること及び、日中両国の提 携共存は東亜の危機を支える一大眼目であることを彼國に傅ふるの拳に出るべき筈なのに、學実両面に捗り深く吟味するところも無く漫然としてこれ之を放棄し て顧みないに至るのは無責任と謂はずして何なんと云うべきか。彼の高館自刄説を唱える學者が世に存在するのも亦之が一原因なのである。重野博士はまた義経 を貶斥して
 「頼朝が院宣を得て討伐せんとせし際恰も鼠の如く微服して逃げたり」
と論ぜしも,兄の頼朝は石橋山の戦に敗れ暗夜髻を剪り落し売僧に扮して逃げたのも、成功の後ち大将軍たる器に缺ける所がなかったのに想い至らないのはこれ 又自己の浅慮を告白する様なものである。頼朝の其時の髻は現に鎌倉八幡宮の寶物殿に由緒書を添へて所蔵してあるから事実は蔽ふべくもない。然るに義経はた とい山伏姿とは云へ亀井、片岡等の股肱の臣と北の方をも加へて一行十六人甲胄其他の武具を笈に収め、整粛の態度、沈然の勇気をもって、堂々として落延びた ではないか。博士の言は何で古英雄をこのように讒誣するのであろうか。
 知る者は言はず、言ふ者は知らずとは千古の金言である。蒙古に在っても成吉思汗を以て全くの蒙古人なりと信じて疑はないことなを我が國の史家が源九郎義 経を以て高館に自刄したものと做すに等しいものである。成吉思汗はニロン族即ち日の族から出た人として蒙古に傅へられるも、「ニ」と「ン」との中間である 「ホ」音を正しく「ホ」と發音し得ない蒙古人は「ニロン」と云ふのは「ニホン」であることを覚らず、又た現代でも彼等の多くは日本と云ふ國の東海に卓立す ることをも知らず、大汗ゲン・ギ・スは其名の文字を音読し、ゲン・ギ・ケイと名乗った日本の源義経と同人なる事などはもとより知らず、こうして成吉思汗が 常に白旗を軍に用ひ、特に彼が一世の光栄である即位の時に白旗九流をオノン河畔に翻し己れの源九郎であることを表示しても蒙古人は其の何の故であるのかを 解せず、成吉思汗の別名をクローと称し、その軍職の名をタイショーと云いて之を今に蒙古に傅えるも、その依って起った由緒を辨へず、汗は笹龍膽の紋章を貴 び九の数を好むのもそれは已が名の九郎に由来する為であるを覚らず、その他夫人をフジンと呼び、長女を阿眞といひ、長子をオゴ即ち御子と傅へ、麾下の股肱 に鷲尾の名の音読であるシウビの訛ったものと吾人が解するシイペ、伊勢に通するイサ、駿河の訛転とも解されるチャガ、西塔に通するサイトなどと称する勇将 があり。汗は蒙古人に信仰の念を持たせるる為め、ホトケ即ち土俗ホトケトと称する佛教を布き、アエイオウとするアイウエオの五十音字を傅へ、正月元旦には 烏帽子に似たものを冠りて廻禮の式を教へ、武道を奨励する為に相撲及び巻狩を行った等の事は其の淵源悉く我が鎌倉時代に發して源九郎義経がもたらしたもの である事を覚らず、平然として是等は皆な蒙古固有のもであると言にに至っては其の健忘症をむしろ隣れむべきである。