捌拾伍.末法
天照(そう。
雪「そんな恐ろしいところから?」
俺「いやいや、別に恐ろしくなんかないよ。むしろ、今よりずっと住みやすいと思うよ」
雪「でも、末法なんですよね?」
天照(人間は平民でも貴族より快適な生活ができるようになって、病に苦しめられることもずっと少なくなったんだ。そんな時代が末法かどうかなんて大した問題じゃないよ)
雪「仏法は? 仏法が滅びたら生きているうちにどれだけ快適な生活が送れても、死後極楽に行くことができないではないですか」
天照(仏法は残ってるよ。でも、もうほとんど誰も仏法を真剣に学ぼうとはしない。現世が十分満たされて、誰も死後の世界に望みを託さなくなったからね)
雪「……」
雪は天照の語る未来に衝撃を受けている様子だった。この時代の標準的な理解では、もうすぐ末法の世が来て、仏法は滅んで世界からは希望が失われるという未来が待ち受けているはずだ。それが実は今よりも満たされた未来が待ち受けているというのは、常識を真っ向から否定する見解だからだ。
雪「ちょっと待ってください。じゃあ、竹姫さまはどうしてそんなところからわざわざこの世にいらっしゃったのですか?」
俺「天照に拉致されて来たんだよ」
天照(そんなひどい言い方しなくてもいいじゃないか。あたしはただ姫ちゃんと遊びたかっただけなのに…、えぐえぐ)
俺「嘘泣きをするな」
雪「私は真面目に話してるんです。どうして竹姫さまを連れて来られたのですか?」
天照(んっとねー、ちょっとね、うふふ、遊び相手が欲しくって、てへっ)
雪「それだけのために?」
天照(……オッケー)
雪「そんなことのために竹姫さまを無理矢理連れてきたのですか?」
俺「雪」
雪は怒っていた。俺は、雪がこんなふうに怒るところを見たことがないかもしれない。そんなくらい明らかに怒っていた。
雪「竹姫さまはこんな時代に来たくなかったんじゃないですか? それなのに無理矢理連れてきたのですか?」
天照(いや、あのー、でもほら、姫ちゃんはこっち来てから魔法とか使えるようになったんだよ?)
雪「そんなことは関係がないです。…私、どうして竹姫さまがいつも寂しそうな表情をなさっているのか不思議でした。でも、そういうことだったんですね」
天照(姫ちゃん…)
天照は雪との議論で旗色が悪くなったと思ったのか俺の側に近づいてきて袖を引こうとしたが、雪は素早く俺と天照の間に割り込んで天照の手の邪魔をした。
雪「竹姫さまは渡しません」
天照(雪ちゃん。これはあたしと姫ちゃんの間の問題なの。雪ちゃんは関係ないわ)
雪「関係なくありません。私は竹姫さまにお願いされて、ずっと竹姫さまのお側にいると誓ったんです」
天照(関係ないよ。あなたはただの使用人でしょ。使用人は主人の命令だけ聞いていればいいの。主人のプライベートに入り込んでくるなんて何様のつもりかしら。引っ込んでなさいっ)
雪「あなたこそ神さまなら神さまらしく神社の奥に引きこもってればいいのよっ」
雪は顔面を真っ青にして叫んだ。神さま、それも天照太御神に啖呵を切って無事に済むとはとても思えないと、雪もわかっているはずだ。現に天照は顔がどんどん真っ赤になってきている。
俺は雪を避けて天照の正面に立って、天照のほっぺたに平手打ちを食らわせた。
天照(なんでっ!?)
俺「雪に謝れっ!」
天照(なんで? 本当のことを言っただけじゃない)
俺「本当のこととか関係ない。お前は雪にひどいことを言っただろ。だから謝るんだ」
天照(雪ちゃんだっておんなじ位ひどいことを言ったよ。だったら雪ちゃんも謝るべきじゃないの?)
俺「先に言ったのはお前だろ。だったら先に謝れ」
天照(いやっ!)
天照は俺の追及から逃れるように庭の空へと舞い上がった。
天照(どうしてわかってくれないの? あたしは何百年もの間、姫ちゃんのことだけ想ってきたんだよ。そんな女とは全然違うんだよ?)
俺「本当に俺のことを想ってるんだったら、今すぐ現代に帰らせてくれよ」
総合評価が800ポイントを超えました。いつもご愛読ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
末法というのは仏教の創始者である釈迦の死後2000年経ってから後の時代で、平安時代の日本では1052年以降とされていました。末法の世になると仏法は正しく伝わらなくなり、誰も正しい仏法の実践をできなくなると考えられていました。現代的にいうと、仏教暗黒時代というイメージです。
末法になると単に仏法が滅ぶだけでなく、天変地異も起こると考えられていました。一般の貴族や庶民はどちらかというとそっちのほうにより怯えていたような気がします。
末法という概念は貴族から庶民にいたるまでかなり広く浸透していたようで、弥勒信仰や阿弥陀信仰、鎌倉仏教の成立に深く寄与しています。修業によって自力で悟りに至らないならば、他力本願でいつか救済されるのを祈って待つというのが合理的な選択肢として受け入れられたのです。