BS1スペシャル「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた 昭和編」ロングインタビューを通し戦後の歩みを… New!



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出典:『BS1スペシャル「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた 昭和編」』の番組情報(EPGから引用)


BS1スペシャル「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた 昭和編」[字][再]


70年にわたって日本政治の実像を見つめ続けてきた読売新聞グループのトップ・渡辺恒雄氏へのロングインタビューを通して、戦後の歩みをたどる証言ドキュメント。


番組内容

読売新聞グループのトップ、渡辺恒雄氏(93)への独占インタビューが実現した。70年にわたって日本政治の実像を見つめ続けてきた渡辺氏。「昭和編」となる今回は、吉田茂政権から中曽根康弘政権に至るまで、その知られざる舞台裏が赤裸々に語られる。派閥の領袖たちの激しい権力闘争の虚実。日本外交の秘史。証言ドキュメントで戦後日本の歩みをたどる。インタビュアー・大越健介。

出演者

【出演】読売新聞グループ本社主筆…渡辺恒雄,【リポーター】大越健介,【語り】加賀美幸子



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BS1スペシャル「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた 昭
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  5. 日本
  6. 吉田
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  8. 当時
  9. 万歳
  10. スクープ
  11. 取材
  12. 西山
  13. トップ
  14. メンバー
  15. 影響
  16. 韓国
  17. 交渉
  18. 山村工作隊
  19. 戦後日本
  20. 戦争


『BS1スペシャル「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた 昭和編」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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いやあ どうも。
(大越)よろしくお願いいたします。

戦後の日本政治の表と裏を
知り尽くす人物が

初めて 映像メディアの
ロングインタビューに応じた。

読売新聞グループのトップ…

次々に明かされる戦後の知られざる内幕。

その語り口は 93歳の今も健在である。

総理大臣 吉田 茂の番記者を振り出しに

70年にわたって

時に取材者 時に当事者として

政治の虚々実々を

その目に焼き付けてきた。

そして 世界最大の部数を誇る新聞社の
トップとして

憲法改正試案を発表するなど

渡辺の動向は
日本社会に大きな影響を与えてきた。

一方 強烈な個性ゆえか

その行動や発言は
物議を醸すこともあった。

戦後政治は どのように作られ

私たちの現在地を
どのように もたらしたのか。

渡辺恒雄の独占告白から
戦後日本の自画像を探る。

<東京 大手町に本社を置く…>

<この日 私たちは 初めて
そのトップの部屋に足を踏み入れました>

失礼します。

お邪魔いたします。

<30年近くにわたり
グループを率いてきた渡辺恒雄氏です>

改めまして よろしくお願いいたします。
どうも どうも。

<93歳にして
記者たちの頂に立つ主筆の座にあり

社論の方針や重要事項を
今なお みずから指示しています>

いろいろ 項目別に… ねえ。

整理するの大変なんだよ これ。

よいしょ…。

<渡辺氏は
みずからの半生が刻まれた部屋の中を

縦横無尽に案内してくれました>

よいしょ…。

見えます 見えます。 ええ。

これ 暴漢が来たときのためですか?

なるほど。

なるほど。

<長年 時の権力者と密接な関係にある
渡辺氏は

私たちの国のかじ取りにも
強い影響を与え続けてきました>

小泉さん。

これは トランプだ。

こちらは 安倍さんですね。
安倍さん。

<中でも特に 渡辺氏が昵懇な関係を
築いたのが

去年 101歳で死去した
中曽根康弘元総理大臣でした>

墓地にあるんだよ。
これ もうすでに。

<渡辺氏は みずからの墓碑銘を
中曽根元総理に書いてもらうほど

深い盟友関係を結んできました>

<戦後日本は
どのように形づくられてきたのか。

そこで メディアは
どのような役割を果たしたのか>

<令和という新しい時代を迎えた
今だからこそ

改めて振り返るべきだと思いました>

<そのために
戦後日本の中枢を見つめてきた渡辺氏に

複数回にわたるロングインタビューを
行うことにしました>

インタビュー初日。

席に座った直後

渡辺恒雄が
おもむろに取り出したのは

古びた岩波文庫だった。

戦時中 軍隊に召集された際に
ひそかに持ち込んだ本だという。

インタビューの冒頭
渡辺が熱を込めて語り始めたのが

みずからの…

激動の昭和が幕を開ける1926年に
東京で生まれた渡辺。

満州事変が勃発し 日本が国際連盟を
脱退するなど

戦争の足音が近づく時代に
幼少期を過ごした。

11歳のときには
日中戦争が始まった。

軍国主義的な風潮の中で

渡辺は多感な青少年時代を過ごした。

軍隊への召集が現実味を帯びる
死と隣り合わせの青春時代。

渡辺が
生きる意味を求めたのが哲学だった。

当時 読みふけった本を
今も大切に保管している。

ドイツの哲学者 カントの著書
「実践理性批判」。

その一節に 渡辺は

みずからの生の意味を
見いだそうとしたという。

1945年4月

渡辺は
東京帝国大学文学部哲学科に入学した。

しかし その2か月後
若き哲学の徒の運命は暗転する。

…が届いたのだ。

入隊の前夜 渡辺は
自宅に後輩たちを集めて

ある音楽を聴いた。

そのときの感情を忘れまいと

みずからの葬儀で流す音楽を収めた
テープにも

その曲を入れている。

チャイコフスキーの「交響曲第6番 悲愴」。

この夜 渡辺は
痛切な思いを日記につづった。

太平洋戦争末期
日本は 深刻な兵力不足を補うため

大学の文系学部の学生たちを
在学途中 徴兵し 出征させた。

渡辺と同年代では
後に総理大臣を務める

竹下 登や村山富市

作家となる
司馬遼太郎

俳優となる
鶴田浩二らが

学徒出陣を
経験している。

天皇陛下 万歳!

(一同)万歳!

政府は
学徒出陣の人数を公表していないが

10万人以上の学生が
戦地に送られたといわれる。

渡辺が入隊したのは

東京 三宿の…

相模湾から上陸する米軍を
迎撃する任務だった。

二等兵として入隊した渡辺は
理不尽な仕打ちに直面する。

渡辺は 陸軍の内実なき精神主義に

戦前日本の病理を見たという。

(玉音放送)「堪え難きを堪え
忍び難きを忍び

もって万世のために太平を開かんと…」。

入隊から1か月余りたった
1945年8月15日

渡辺が憎しみを募らせた戦争は
終わりを迎えた。

「一億総懺悔」が唱えられ

戦前からの体制が
一変する機運に満ちていた

終戦直後の日本。

現在は 象徴天皇制を肯定的に捉える渡辺。

東大に復学した当時には
戦争と軍隊への憎悪から

体制の抜本改革が必要だと
考えていた。

そして 日本共産党に入党する。

やがて 渡辺は 大学内の共産党支部
「東大細胞」のトップに就き

およそ200人のメンバーを
率いることになる。

この時期の東大細胞には

後に 共に読売新聞に入社し

日本テレビ社長となる

盟友の氏家齊一郎

セゾングループを
築き上げる

堤 清二らも
在籍していた。

進歩的な学生の多くが

共産主義に
シンパシーを抱いていた時代だった。

しかし 渡辺は 次第に

個人よりも組織を重視するように見えた
党の方針に

違和感を抱くようになっていく。

渡辺は 新たな党内組織
「東大新人会」を立ち上げる。

規律よりも個人の主体性が
優先されるべきとして

党本部と激しく対立。

除名処分を受ける。

しかし
共産党での激しい抗争の経験から

組織を動かす技術を学んだという。

哲学者を志していた渡辺。

しかし 職業とする道は険しく

選択したのは…

1950年
渡辺は 24歳で読売新聞社に入社する。

70年後の現在まで続く
記者人生の始まりである。

東京大学名誉教授の御厨 貴は

20年前に
オーラルヒストリーを行うなど

渡辺と日本政治との関わりを
検証してきた。

御厨は 渡辺の特異な記者人生と
日本政治の歴史を重ねることで

戦後史の重要な視座が得られると

考えてきた。

入社から1年半後。

渡辺は 記者人生の黎明期の
忘れえぬ仕事として

ある人物との出会いを
記憶している。

1950年代

共産党内の一部の勢力が
武力闘争の方針を掲げ

工作隊を
各地の山中に潜ませたことがあった。

彼らは「山村工作隊」と呼ばれたが

その実態は謎に包まれていた。

スクープを狙う若き日の渡辺は

一人 奥多摩山中にあるといわれていた
山村工作隊のアジトに赴いた。

こんにちは。 失礼します。
よろしくお願いします。

このとき 山村工作隊グループの
リーダーだったのが

渡辺の記憶に
今も残る人物である。

後に 作家として

人間が生きる意味を問い続けてきた
高史明だ。

アジトの炭焼き小屋に近づいた渡辺は

山村工作隊のメンバー10人ほどに
囲まれた。

それで そうすると ぼうっとね…

監視されてたわけですね。

うん。
「囲まれたな…」。

渡辺を警察のスパイと見なした
山村工作隊のメンバーは

突然の闖入者を殺害しようとしたという。

そのとき 渡辺を殺そうとするメンバーを
制止したのが

高だった。

「この記者を殺せ」と。

渡辺を小屋に招き入れ 取材に応じた高。

二人の間に
時を置かず流れていったのは

戦争で 一度は破滅した…

山村工作隊の潜入取材を記した
渡辺のスクープは

社会面のトップを飾った。

このスクープをきっかけに
渡辺は政治部へと異動。

高とは 全く異なる道を
歩んでゆくことになる。

1952年 26歳の渡辺は

政治記者として
永田町に初めて足を踏み入れた。

生き馬の目を抜く政治の世界で目撃した
原体験を

生々しく記憶している。

当時の総理大臣は
サンフランシスコ講和条約で

日本を国際社会に復帰させた
吉田 茂。

渡辺は 吉田の番記者から
キャリアをスタートさせた。

その渡辺が 最初に懐に飛び込み
親しくなったのは

吉田と対立し
冷や飯を食わされていた…

吉田の後の総理大臣となる。

戦争の爪痕からの復興が進み

後に「三種の神器」として
もてはやされる

白黒テレビ 冷蔵庫 洗濯機が
登場し始めた1950年代中盤。

このころ
渡辺と共に永田町を取材していた

若手記者には

後に 佐藤栄作の
首席秘書官として活躍する

楠田 實。

田中角栄の秘書として名をはせる

早坂茂三。

渡辺の親友であり

政治評論家として活動する

三宅久之らがいた。

激しい取材合戦の中 吉田と鳩山ら
保守勢力同士が争っていた戦後政治に

地殻変動が生じる。

(一同)万歳! 万歳! 万歳!

吉田が率いていた自由党と
鳩山が率いていた日本民主党の

2つの保守勢力が合同し

現在に連なる自由民主党が誕生したのだ。

以来 派閥単位で 熾烈な権力闘争を
繰り返すことになる自民党。

このころ
渡辺は ある派閥の領袖の寵愛を得て

政治記者として 一気に頭角を現してゆく。

…って書いてありますね。

浪花節のような言葉が

豪快な筆致でつづられた掛け軸。

この書を渡辺に贈ったのは

自民党初代副総裁や衆議院議長を務めた

重鎮…

40名以上擁する有力派閥
大野派を率いる領袖だった。

NHKに残されていた
大野が官邸に入る様子を収めた映像。

大野の傍らに寄り添って歩く渡辺の姿が
記録されていた。

渡辺は 大野の信頼を得て

政局の進言や 他派閥との交渉まで
任されるようになっていた。

渡辺と 政治取材で
しのぎを削った人物がいた。

渡辺の大野への食い込みは

ライバル社とは
桁違いのものだったという。

国際派の記者として

NHKの「ニュースセンター9時」の
キャスターを務めた…

こんばんは。
どうも 気のせいでしょうか…。

パリ駐在の海外特派員から 突然
政治部の 大野派担当となった磯村は

渡辺の影響力に圧倒されたという。

権謀術数の渦巻く政治の世界に飛び込み

大野伴睦の懐刀となった渡辺。

このあと
名だたる大物政治家と渡り合いながら

戦後日本の舞台裏に
深く関わってゆくことになる。

歴代の総理大臣など

時の権力者との親密な関係に
焦点が当てられることの多い

渡辺恒雄。

実は 渡辺は 政治部記者として

多くの先駆け的な仕事を残してきた。

その一つが 書籍の執筆。

処女作「派閥」は

保守政党の行動原理を
社会科学的に分析し

今なお
政治学の世界で参照されることも多い。

東京大学名誉教授の御厨 貴は

政治家の懐に食い込む
人たらしの側面と

冷徹に人間を観察する
その二面性が

渡辺の真骨頂だと
指摘する。

渡辺が 著書「派閥」を書いたころ

政権を担っていたのは…

岸が
政権最大の課題として取り組んだのが…

しかし 条約の国会承認をめぐり

反対運動である安保闘争が
空前の広がりを見せた。

安保改定は
かろうじて実現させたものの

岸は 退陣を余儀なくされた。

実は この退陣の1年半前に

驚くべき秘密文書が
取り交わされていた。

岸が 党内の派閥領袖たちと

後継総理の順序を取り決めた密約書だ。

その存在を突き止めた渡辺は

密約書を みずから写真に収めていた。

密約書には
「岸の次には大野伴睦

次いで 河野一郎

佐藤栄作の順で

総理大臣になる」と
書かれていた。

安保闘争が激化する中
岸との対決姿勢を強めていた大野。

これに対し 岸は

安保改定に協力する見返りに

次の総理を譲るという密約を

大野と交わしていたのだ。

しかし
密約とは裏腹の政治の非情な世界を

渡辺は目の当たりにする。

岸が退陣を決めた直後の自民党総裁選挙。

岸からの支援を信じて疑わない大野は
次期総裁に名乗りを上げた。

大野のもとには 派閥のメンバーから

予定どおり 岸の支援が得られ
総裁選で勝てるとの情報が

次々に もたらされていた。

しかし 渡辺は全く異なる情報を得ていた。

岸に接触した渡辺は その言葉に戦慄した。

その言葉は
4年前の総裁選で

岸から 協力を
求められた大野が

「派としての態度は白紙だ」と

暗に協力を拒否した際に
言ったせりふだった。

4年前の意趣返しとして

岸は このせりふを渡辺に告げたのだ。

総裁選で岸は 大野との密約を反故にし
池田勇人を支援。

大野は
立候補すらできない状況に追い込まれた。

≪池田先生 万歳!
(一同)万歳!

権謀術数の駆け引きの中で
なきものにされた密約。

熾烈な権力闘争の末に誕生したのは
池田政権だった。

経済成長を軌道に乗せた1960年代の日本。

大きな政治課題はアジア諸国との…

その中でも
交渉に10年以上を要したのが…

1962年12月 極秘に行われていたはずの
韓国との交渉内容の詳細が

読売新聞にスクープされた。

この極秘交渉をスクープしたのは
渡辺だった。

1950年代初頭から 外務省を中心とする
さまざまなルートで進められていた

韓国との交渉。

この交渉の後半に 渡辺は
取材者としてだけでなく

当事者としても関与していたという。

1960年代初め
韓国で誕生した軍事政権は

疲弊した経済を立て直すために

日本との国交正常化を急いでいた。

一方 国内に目を転じると

与党 自民党内には
交渉に消極的な意見も少なくなかった。

その筆頭が
党の副総裁となっていた大野伴睦だった。

この自民党の最高実力者の一人と

韓国政府要人を橋渡ししたのが
渡辺だったという。

渡辺が 大野に引き合わせたのが

軍事政権のナンバーツーの座にあった…

韓国版CIAといわれた
中央情報部の初代トップを務めていた。

金鐘泌と意気投合した大野は
韓国を訪問することとなった。

渡辺の仲介によって

もう1つの交渉ルートが作られたのだ。

当時 渡辺と共に
外務省記者クラブに籍を置き

毎週のように飲み歩いていた…

日韓の極秘交渉をすっぱ抜いた
渡辺のスクープは

たび重なる接触で
信頼関係を築いていた金鐘泌から

情報を得たものだった。

最終局面を迎えた日韓国交正常化交渉。

そこに壁として立ちはだかったのが…

困難の末に至った経済協力額の合意を

池田は 1か月以上 承認しなかったのだ。

池田は
大平正芳と同じ派閥 宏池会の領袖で

2人は師弟関係にあった。

時の最高権力者の嫉妬。

渡辺は 事態を打開すべく水面下で動いた。

その動きが 韓国中央情報部の
機密文書に記されていた。

「中央情報部 報告事項」。

渡辺は 大野を通じて

池田に
合意を承認するよう迫っていたのだ。

池田は その後 大平と金の合意を承認。

3年後 日韓基本条約が結ばれ

日本と韓国は国交を正常化させた。

ないですよね。

要するに…

1970年代 GNPが 西ドイツを抜いて

世界第2位となっていた日本は
豊かさの中にあった。

しかし その一方で 公害問題など

経済成長のひずみも顕在化していった。

1972年 沖縄返還によって

日本の戦後史に 一つの節目が刻まれた。

この沖縄返還をめぐって
ジャーナリズムの在り方が問われ

渡辺自身も 後に関わることになる
ある事件が発生した。

当時 アメリカ ワシントン支局長に
転じていた渡辺は

沖縄返還をめぐる 本音と建て前の実態を
目の当たりにしていた。

これ。

毎日新聞の西山太吉は

佐藤政権下で進められていた
沖縄返還交渉の取材に当たっていた。

その過程で 西山は

アメリカが負担するとされていた
軍用地を原状回復する費用を

日本側が肩代わりするとした密約文書を
入手した。

西山が入手した密約文書は
思わぬ展開をたどる。

西山が 問題追及のため

文書を
野党議員に渡したことをきっかけに

情報源が
外務省の女性職員だったことが発覚。

西山は 国家公務員を唆して
機密を入手した疑いで

逮捕・起訴された。

裁判で焦点になったのが

政府が持つ「機密情報」と
取材による「知る権利」の関係だった。

しかし 問題は 次第に
文書入手の経緯をめぐって

男女のスキャンダルに
すり替えられていった。

このとき 渡辺は
西山の弁護側証人として出廷し

政府が隠そうとする情報を

取材で記者が入手することの必要性を
訴える。

その裁判記録が
東京大学の図書館に保管されていた。

自身の取材経験をもとに
渡辺は 次のように証言した。

西山は 一審では無罪となったものの

最終的に執行猶予付きの有罪判決が確定。

その後 長く筆を折ることになる。

さらに
渡辺は 外務省機密漏洩事件の背景を

独自の視点で推測した。

昭和 平成 令和の
日本政治を見続けてきた渡辺。

70年にわたる記者人生の中で
名実ともに盟友関係だったのが

去年 101歳で
この世を去った…

2人の出会いは 1956年。

当時 38歳だった中曽根は
憲法改正を積極的に唱え

「青年将校」とも
呼ばれていた。

思想・信条は異なっていたが
質素で飾らない中曽根の人柄に

渡辺は 次第に ひかれていったという。

中曽根が 自民党内で存在感を高めてゆく
きっかけとなったのは

41歳の若さで 科学技術庁長官として
初入閣したことだった。

中曽根が大臣ポストに就くために

総理大臣の岸に橋渡しをしたのが
渡辺だった。

中曽根は 科学技術庁長官として
原発導入を推進し

現在にまで続く

日本の原子力行政の方向性を
決めた。

それで…

若いころから「総理大臣を目指す」と
公言していた中曽根。

1960年代に入ると
渡辺と共に その準備を進めていく。

当時 アメリカ大統領として
人気を博していた…

後に 渡辺が翻訳し 出版することになる
英語の原書で

ケネディの選挙戦略や演出方法を
学んだこともあった。

総理の座を見据え 周到な準備を始めた
中曽根と渡辺。

その成果は 後に結実することになる。

1982年 自民党で 最大派閥を率い
絶大な権力を握っていたのが

「闇将軍」「キングメーカー」と呼ばれた
田中角栄だった。

中曽根が名乗りを上げるこの年の
総裁選挙の舞台裏が明かされた。

中曽根康弘君を 内閣総理大臣に
任命することに決しました。

(拍手)

5年近くに及んだ中曽根政権。

政治学者の御厨 貴は

その最大の特徴は
官邸に権限を集め

大統領型といわれる

統治スタイルをとったことだったと
指摘する。

そのことで
自民党内の反対意見を封印し

国鉄や電電公社の民営化など

大胆な政策を実行することが
可能になったという。

そこには渡辺の影響もあったと分析する。

時に「風見鶏」と
称された中曽根の

現実主義的な側面が最も発揮されたのが

憲法改正に対する態度だった。

中曽根は
総理大臣就任から僅か10日余りで

政治家としての自説を封印したのである。

自身も憲法改正論者である渡辺。

一方で
中曽根の現実主義的な姿勢こそが

長期政権を可能にしたと振り返る。

<当時としては異例の長期に及んだ
中曽根政権を支えた渡辺氏>

<渡辺氏の行動は もはや
一政治記者の枠組みを超えて

日本社会の方向性にすら
影響を与えると言っても

過言ではなくなっていました>

<同じ政治記者として
永田町を取材してきた私は

ジャーナリストとしての意識と
どのようにすみ分けが図られているのか

知りたいと思いました>

<吉田 茂内閣に始まり

リクルート事件で退陣する
竹下 登内閣に至るまで

昭和の政権の興亡を間近に見てきた
渡辺氏>

<私は インタビューを通して

渡辺氏や 戦後日本を動かした政治家が
醸し出す空気と

昭和という時代の空気が
とても似通っていると感じました>

<中曽根氏の総理退任の4年後の
1991年 平成3年

渡辺氏は 読売新聞社の社長に就任。

世界最大の発行部数を誇る新聞社の
頂点に立ちました>

<平成以後も その主張や動向は
日本社会に大きな影響を与えました>

<文字どおりの激動となった
平成の日本政治。

渡辺氏は その30年を
どのように捉え どう動いてきたのか>

よっこいしょ。

<「独占告白 渡辺恒雄」。

後編は
平成以後の日本を見つめていきます>

♬~


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