「センメルヴェイス」と言っても、聞いたことがない人が多いかもしれません。

 

「センメルヴェイス・イグナーツ」(1818-1865)はハンガリー人の医師。消毒法及び院内感染の先駆者として、「院内感染予防の父」とも呼ばれています。しかし、センメルヴェイスが評価されたのは死んだあと。生存している間、センメルヴェイスの方法論はまったく相手にされませんでした。「手洗い」の大切さを訴え、現在の消毒法、院内感染予防の基礎を作りあげたセンメルヴェイスの功績から紹介しましょう。

 

■分娩時の死亡率が20%でも問題なかった!?
19世紀の半ば、分娩時の死亡率が20%もあっても、「モンダイないよね」とされていました。20%というと5人に1人の妊婦は死亡するということですから、かなり高い確率です。当時は、分娩時に亡くなるのはそんなに珍しいことではなかったのです。まさに出産は“命がけ”でした。ちなみに、2011年の日本の妊産婦死亡率は、10万人中3.8人。当時の死亡率がいかに高かったかわかります。

 

この高い死亡率の原因は「産褥熱(さんじょくねつ)」。「産褥熱」とは、胎盤が剥離(はくり)した際の子宮壁や産道などの傷面からの細菌感染による発熱です。今のような衛生管理が徹底していない時代は、感染症による死亡が大多数でした。当時は感染症を、「『瘴気(しょうき)』という『悪い空気』を吸って起こる病気である」などオカルトチックな考えが蔓延しており、感染という概念がまったくなかったのです。

 

■死亡率の違いから原因を導く
ウィーン総合病院には、第一産科と第二産科と2つの産科がありました。第一産科は医師と医大生、第二産科は助産婦が行っていました。センメルヴェイスは1846年に第一産科の助手となりますが、第一産科の分娩時死亡率が20%だったのに対し、第二産科の分娩時死亡率が2%であったことに驚きます。

 

第一産科と第二産科の違いは、第一産科は「解剖」のあとに「お産」を行っていたことでした。また、第一産科では研修医の実験台になると給付金が出ると伝えられていましたが、一部の妊婦は第一産科で何かマズイことが起こっていることに感づいていました。給付金だけせしめて、病院に行く前に出産するという妊婦がいるということをセンメルヴェイスは耳にするのです。そして、その妊婦の死亡率はゼロに近いことを聞いて驚愕します。

 

彼の考えは、友人の法医学教授ヤコブ・コレチカが1847年に亡くなったとき、疑心が確信に変わりました。コレチカは、第一産科で死亡した妊婦の解剖指導を学生にしていた際に、学生のメスで誤って傷つけられたことが原因で亡くなったのです。その症状はまさに産褥熱と同じもの。つまり、死体から運び込まれた何ものかが体内に入ることで亡くなるということに気付いたのです。