陸拾肆.泣いてない
そのことがあってから、俺は雪の顔が見れなくなってしまった。雪の方も俺と微妙に距離をとっていつもよりも気を使って接してきている。
俺「はぁ」
夕食を食べ終わった俺は、縁側に腰をかけて日が暮れかけてきた庭をぼーっと眺めていた。すぐ隣には墨が身体をぴったりと寄せて丸くなって寝ている。いつもなら怖がってなかなか寄り付かない墨も今日は俺が静かなので警戒心を解いて近づいてくるようになった。
(どうしよう。雪と顔を合わせづらいよ)
平安時代に転生して2ヶ月と半月、最も長い時間そばにいて最も気を許して付き合ってきたのが雪だった。天照も墨も、それから式神も三羽烏も爺も婆も、雪ほどに長い時間気を許して付き合える仲ではなかった。
俺「墨。どう思う?」
尋ねても墨は寝ているので返事をしてくれない。起きていても参考になることを言ってくれるかは全く分からないが。
(雪はどう思ってるのかなあ)
雪が何も思っていないのなら、俺がこんな所で悶々としているのなんてバカみたいなことだ。いつものように話しかければいい。それだけだ。でも、得体の知れない術を使う俺に対して恐ろしいと思っていたり不気味だと思っていたりしたら…。
俺の視線は自然に夕焼け空から足元へと落ちていっていた。
(人の心の中が見れる魔法があればいいのに)
俺の頭の中の魔法事典を隅から隅まで探しても、心を読む魔法だけは存在しない。平安京を一夜にして廃墟にできる力があっても、雪の心の中を知ることはできないのだ。
(…、もしかして天照なら?)
天照ならもしかしたら俺の知らない魔法を知っているかもしれない。それに、知らなくても話し相手くらいにはなるだろう。なんだかんだ言っても、この世界では雪の他には天照くらいしかまともに話ができる相手はいないのだし。
(よし、決めた。今日の夜、上賀茂神社に行こう)
ふと顔を上げると、もう太陽は地平線の下に沈んで、空は少しずつ夜の闇に閉ざされ始めていた。真夏の照りつける太陽がいなくなったことで、あたりは夕涼みに包まれる。これが現代なら絶好の花火タイムだ。
(花火か。雪とやったら楽しいだろうな)
また感傷的な気分に落ち込んでしまいそうだったので、自分を元気づけるためにそばで寝ている墨を抱き上げて、後ろから猫耳の生えた後頭部に勢いよく顔を埋めた。
墨「にゃうっ?」
俺「すーはー」
墨「な、な、な、ひ、ひ、ひ、姫さま?」
寝ているところをいきなり起こされた墨が驚いて抵抗するが、俺はそれを無視して抱きかかえる腕に力を込めた。
墨「姫さま…」
俺「…」
墨「泣いてるんですか?」
俺「泣いてない」
墨「でも…」
俺「泣いてないよ」
墨「そうですか」
当たり前だ。高校生にもなった男が泣くなんて変なことがあるわけがない。