陸拾壱.髪は女の命
俺は墨の頭に湯をかけてシャンプーを洗い流し、トリートメントとリンスを使った。墨の髪は肩にかからない程度しかないからシャンプーもすぐ終わる。
俺「お風呂から上がったら髪をきちんと乾かさないと、髪が痛んじゃうから気を付けないとだめなんだよ」
雪「分かりました」
俺「髪の乾かし方は後で教えるから」
雪「はい」
さて、これで墨は完了…、顔をまだ洗ってないけど、どうしようかな。
俺「墨。顔を洗うのがまだだけど、後で一緒に洗うから、しばらくお風呂に浸かってな」
墨「ま、まだあるんですか…」
さて、次は俺の番だ。髪が邪魔だから、まず最初にシャンプーから始めることにする。
(シャンプーは人にしてもらうのが一番気持ちいいんだけど…)
俺が雪のほうを見ると、雪は少し緊張したように微笑んだ。雪は小袖にタスキをかけたままで浴室まで入ってきていて、墨の身体を流した時に跳ねた湯で小袖の裾のほうがぴったりと張り付いている。風呂の熱気に当てられたのか、頬も上気して赤みが差していた。
俺「雪。髪を洗いたいんだけど、最初に髪を十分に湯で流してくれる?」
雪「かしこまりました」
そういうとおずおずと雪が髪の毛先の方から湯をかけ始めた。
俺「もっと大胆にかけちゃっていいよ。後、こっちの頭のほうにもかけて」
雪「はい。わかりました」
雪は意を決したように桶に湯を汲んで俺の頭から湯をかけた。
(ああ、しあわせ…)
さて、せっかくなので平安時代の髪のお手入れについて、もう少し説明しておこうと思う。平安時代では基本的に風呂に入らないので当然髪をシャンプーするという習慣もない。しかし、平安時代の人が髪の手入れに無頓着だったかというと決してそんなことはないのだ。
むしろその逆で、平安時代の貴族の女性はまっすぐに長く伸ばした黒髪ロングならぬ黒髪スーパーロングが美人の最重要条件だったため、髪のお手入れには現代の女性よりもずっと気を使っていたといっても過言ではない。
この時代の髪のお手入れはシャンプーで皮脂を落としてトリートメントとリンスで髪を保護するという発想ではなく、油を使って髪を保護して艶を出すという発想が基本になる。長い黒髪は常時椿油などの髪油がつけられていて、お手入れの時に新しい油をその上から重ねて、汚れや古い油を余分な油と一緒に取り除くという方法で髪を清潔に保つ。
ちなみにドライヤーなどという便利なものは存在しないので、引き摺るほどの長さの髪を風呂に入った時のようにしっかりと濡らしてしまったら、乾かすことは非常に難しくなってしまう。ごくたまに米のとぎ汁などで髪を濡らして櫛でとかすという方法で髪を洗うことがあるが、その後は髪を乾かすために長い間じっと伏せたまま、女房が火桶で髪を乾かすのを待つ必要があるのだ。
そんな調子で常にしっかり油の染みわたった髪は、現代のさらさら黒髪ロングのイメージとはかなりかけ離れていて、しっかりと整髪料(つまり油)でまとめられていて、しっとりと重みがあり、手ぐしでふんわりというような真似はちょっと無理で、毛先がさらさらとばらけることもない。
ついでにいうと、常に重い髪に毛根が引っ張られ続ける上に、頭皮の皮脂をきちんと落とすという習慣がないため、年をとると必然的に髪が薄くなってしまう。そういう意味では、平安時代の女性にとって、長い黒髪とは若さの象徴といってもいいのだ。
(はうー。気持ちいぃー)
さて、解説している間に俺は雪に頭皮を洗ってもらっていた。シャンプーをつけて指の腹で円を描く用に頭皮をマッサージする。最初はぎこちなかったが、墨を使って実演しながら丁寧に教えるうちにどんどん上達してとても上手くなった。
俺「雪。とっても気持ちいいよ」
雪「ふぅ。ありがとう、んっ、ございます」
まだ力の加減に慣れないせいか、無駄な力が入ってしまっているけれど、もう少し練習すればそれもなくなると思う。…、なぜかちょっともったいない気がしたけど、きっと気のせいだ。
ちなみに、平安時代にもかつらはありました。髪が縮れ毛で美しくなかったり、短かったり薄くなってきたりといった理由で、つけ毛のようなものを使っていたようです。かつらは抜けた自分の毛や他人の毛を集めて作ったようです。