その4
石崎東国
適宜改行、読点を加えています。
△今日に於ては太平天国の事蹟すら正史には極めて漠然たるもので、其の真を知ることが出来ない、只多くは水滸伝式の裨史に依て窺ふのみである、されば遡て其の根本の上帝会の如きは殆んど見るべきの伝がない、正史に依れば、広東の人朱九濤といふ者が、道光の初年に天地教と前後して開始されたもので、天地会の盛な当時は全く其影に陰れて居たのが、天地会の解散より天地会の残徒が之に集つて朱九濤を教首として広東広州に樹立したといふ事だけは事実である、所謂天を以て父とし、地を以て母とし、四海を兄弟と為すといふ天地会より一歩を進めて、上帝を立てたゞけ新らしく成つたものであつた。
△吾輩が往年支那に遊んで居た頃、右に就て広東通の王文泰(日本人であるが)上帝会に関して面白い話をしたことがある、これは上帝会主朱九濤は「日本人であつた」といふのである、之が伝説だとして語る所に依れば、
一日上帝会に三人の卜者が訪問した、一人は洪秀全、一人は憑雲山、今一人は単に「東海の偉人」といふだけでツマリ洪、憑の先生である、憑氏は天地会の亡命者であるから、固より朱君とは相識の中であるので、二人を紹介して扨て云ふやう、今日来たのは外ではない、吾輩は久しく東海の仙郷に在て大に天地教を修めて帰国したが、是れなるが即ち我師「東海の偉人」である、若同じく道の為めに尽さんには「東海の偉人」と茲に問答を試み勝てるものこそ教主として上帝会を統率するこそ然らん、如何に、との事であつた。是に於て朱君は「東海の偉人」と先づ道教に就て論じ、次で禅道より仙術に及び、王覇の事より更に上帝(即ち耶蘇教)に就て三日間に亘て問答した、其の結果は「東海の偉人」が一々実学実行の上に就て論破したので、朱君遂に屈服し、上帝会は、「東海の偉人」に譲て朱君は遂に郎山を下て隠れた、
といふので、ヒドク昔の道教の然諾を重んじたのに感じたが、東海の偉人が若し日本人であつたとすれば、何者であつたか、面白い人物が居つたものではないかとの事であつた。
△吾等は十年前友人から此の話説を聞いたときに、一種の好奇心を残した外に、別に何等の注意をも払はなかつた、大方は何にかの小説にでもあるのだらう位で、今日まで斯る小説を見たことはないが、今日
此の問題に筆を着けると共に、此の亡友の話説の何より根本せるかを詮議せなんだのを遺憾とする、只併し吾等は僅に此の談片を記臆し得たことが、本篇の骨子となり得たのを感謝するものである。何となれば人は大胆といふこと勿れ、吾等は「東海の偉人」こそは我が「大塩先生」であつて、その慂(憑)雲山が長崎より同行せる周雲山の仮名であるものだと信ずる、此の結果は洪秀全が大塩格之助と言はれることになるものである。
△上帝会といふものは、斯る伝説のある所へ、専ら茲で修業したと称せられた洪秀全の事に就て、支那の歴史家はどういふ生立の人として居るかといふに、洪秀全は広東花県の人で慶嘉十七年を以て生れたが早く父母に死別れて孤となり四方に遊学す、天資豪邁、躯幹雄偉、才学あり卜易を以て業とす、同郷憑雲山と共に上帝会に投じ其の術を受けて教主となるとあつて、幼にして父母には別れ四方に遊学して居たといふので、花県の山中に生れたものであるといつても、殆んと誰れも知る人とては無いのである。