立木写真舘の歴史
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立木写真舘
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立木写真舘の主人たちは、徳島の古い方言の 「キョトウ(枠にはまらない、突拍子もない、個性的な)」 という言葉で表現されることが多かったと言われます。
そんな歴代のプロフィールをほんの少しだけご紹介します。 あなたから見て、どの辺が「キョトウ」ですか?
初代 ・ 立木信造 たつき しんぞう

1855(嘉永8)年10月12日 ~ 1921年(大正10)年10月3日

明治16(1883)年、29歳で立木写真舘を創業。
兄・立木文龍は徳島藩・蜂須賀家の典医(立木家七代目)で、慶応2(1866)年に藩からの留学生として長崎へ医学修行に出ているが、そのとき日本写真術の創始者・上野彦馬と出会っている。 このことが、やがて事業家肌の信造に写真舘創業を決意させたのだろう。
事業家の血は、本業の写真舘だけで満足できなかったのか、「かやいらず」という駆虫剤を作って中国・九州地方まで販売していた。
当時は、時代の先端をゆく職業を選んだ人らしく、明治の終わりには 赤レンガの「マンサード式」洋館の社屋を建て、蔦を這わせていた。
明治39(1906)年、電話が開通した。

机の右端に見えるのが、当時の電話機。
立木写真舘の電話番号は、「(長)3番」。 「長」は、長距離通話もできるという意味。 「3番」は、県庁の「1番」、市役所の「2番」に次ぐ番号ということで、新しい技術が好きだった信造の自慢の種だったらしい。
1909(明治42)年

赤レンガ作りの「マンサード式」
洋館スタジオを新築。
二代目 ・ 立木真一 たつき しんいち

1883(明治16)年10月6日 ~ 1957年(昭和32)年8月4日

正義漢で、多方面に活躍した人であった。
京都法政学校(のちの立命館大学)で法律学を学び、渡米してイリノイス写真学校で 技術を修得中、 皇太子殿下(のちの大正天皇)の徳島御行啓に際して立木が写真の御用命を賜ったということで呼び戻される。
その後、市会議員・県会議員をつとめ、社会の不正に立ち向かう『公憤』という月刊誌も刊行した。
徳島初のオーケストラ「エンゲル楽団」を組織し、日本最初の野外シンフォニー発表会を開いたのも彼。
写真館の仕事はあまり顧みず、さまざまの活動で家産を傾けたが、1945(昭和20)年7月の空襲直後、「この姿は残しておかなければならない」と、焼け野原の徳島市街を眉山中腹から撮影した。
「自転車に打ち乗って出張撮影に伺います」という新聞広告。

自転車すら珍しかった当時の市民の目には、真一の雄姿はスーパーマンと映じた。 大正10年頃にはサイドカーも利用したという。
この頃本店は紺屋町にあり、支店が新町に、分館が香川の善通寺にあった。
1918(大正7)年 真一と雅江の婚礼写真。

当時の婚礼衣裳は、ほとんど留袖で、角隠しを冠ることもほとんどなかった。 雅江の実家は裕福だったらしく、打掛けに角隠しという、当時としては豪華な花嫁衣裳である。 また帯のお太鼓結びをからだの前に結んで、その中に手を隠している。 二人とも、ぞうりを脱いで、ジュウタンの上に立っている。
1946(昭和21)年7月

焼け野原に白塗りの
コテージ風スタジオを新築。
三代目 ・ 立木真六郎 たつき しんろくろう

1899(明治32)年4月27日 ~ 1971年(昭和46)年3月21日

朝日新聞社で『アサヒグラフ』や『アサヒカメラ』を創刊した成沢玲川の末弟。
結婚当事は、文部大臣賞後、さまざまな 写真雑誌にその作品が掲載される新進写真家だった。
17歳年の違う香都子にとっては、夫であると同時に写真の師でもあった。
絵画にも詳しく、営業写真の家系に芸術の感覚を持ち込んだ。
終戦後、疎開先でそのまま野菜づくりなどをして暮らしたいとも思ったようだが、立木写真舘を香都子と共に、再建、再興させた。
晩年の真六郎は病床に臥すことが多かったが、気分の良い時はカメラを覗き、ガラスコップや手製の万華鏡、鏡の破片などを使いながら次第に非具象(アンフォルメル)の世界に没入していった。
暗室で作業中の真六郎。

煙草とコーヒーが大好きだったが、ここではパイプをくわえている。
暗室技術については一家言持っており、事実ズバ抜けた技術を持っていたが、戦後の進駐軍相手の仕事では、インド兵のポートレートには乾板の顔にベニを打ち、顔色を白く仕上げて喜ばれたという。 (当時はインド兵を撮って肌を白く仕上げることが、技術が良いということだった)
1933(昭和8)年
三代目・香都子と成澤真六郎の婚礼写真。

香都子は黒振袖を着ている。 この頃の新郎の衣裳と言えば羽織ハカマだが、真六郎は東京で仕事をしていたハイカラな人だったせいか、モーニングを着ている。
昭和40年ごろまでは、このように角隠しの上にかんざしをたらすことが多かった。
写真館創業の信造から、立木家はクリスチャン(イギリス聖公会)になっていたため、富田橋のインマヌエル教会で式を挙げた。 20日後には東京の山王ホテルで披露宴を開いた。
香都子は徳女時代、
全国大会も出場した庭球選手だったが、
「庭球の立木さん」という、見出しで
その結婚が新聞でも報道された。
「富子」は、改名する前の香都子の名前。
三代目 ・ 立木香都子 たつき かつこ

1915(大正4)年3月28日 ~ 1986年(昭和61)年2月14日

父が政治にのめり込んで家業は傾いていたが、当時女学生に大人気だった他の写真館の写真を見て、奮起、 立木写真舘を夫と共に再興し、70歳で亡くなる直前まで現役でシャッターを押し続けた。
次男の義浩がテレビ番組で「ただいまのところ生存が確認されております」と妙な紹介をしたことから、 敗戦の日に「これで大声で歌が歌える」と子供たちを河原に連れ出して共に大声で歌ったなどの明るいエピソードが注目され、 その半生が1980(昭和55)年、NHKの連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」のモデルになった。
病弱の夫のため20種類以上の民間療法を研究していた。
社員に打掛姿の花嫁の振付けを講習する香都子。

日本の伝統衣裳である和装を格調高く写すには多くの約束ごとがあるが、 香都子は長年にわたる経験をもとに撮影ポーズごとにラインに記号をつけるなどして、 社員の誰もが美しく、すばやく振り付けられるように独自のマニュアルを完成させた。
また請われれば惜しむことなく、企業秘密とも言える技術のすべてを全国に講演して歩いた。
1952(昭和27)年 37歳ごろ。

真六郎の「関西写真家連合」の入賞作品。
四代目 ・ 立木利治 たつき としはる

1934(昭和9)年4月10日 ~ 1993年(平成5)年6月23日

多くは「家業」であった写真館に「経営」を導入する、あるいは新技術を研究する――「印画紙研究所」や「PGC(パイオニア・グリーン・サークル)」などの、 昭和の中期から、相次いで産声をあげた、そんな団体のほとんどに創設当初から関わり、ときには代表も務めながら、全国へネットワークを広げた。
また「PPJ(日本職業写真家協会)」会長として国際的な交流の必要性を提唱し、 1974(昭和49)年から2年続けて「PPA(アメリカ営業写真家協会)」の写真展に日本人で初めて招待作品に選ばれ、 翌1976年にはその写真展に 日本人として初の入賞を果たしている。
さまざまな講師の要請を受け、全国を忙しく飛び回っていたが、一方でジャズをこよなく愛するビブラフォーン・プレイヤーでもあった。
「PPA(アメリカ営業写真家協会)」の写真展に入賞し、日本人として初めてその機関紙(昭和52年10月号)の表紙に採用された写真。
記事の中の写真と共に、PPAが初めて出版した優秀作品集(全40点)に収録された。
記事では、日本の和装の説明、優雅に格調高く撮影するための工夫などを利治が紹介している。
1958(昭和33)年 四代目・利治と桜木恵美子の婚礼写真

結婚式の前日に撮ったこの写真が、いまでは全国に広まった『 婚礼写真前写し(前撮り)』の 第1号となった。 当時、衣裳のレンタルはまだなかったため、神戸で生地を買い求め、ネックレスやイヤリングも購入した。 仕立ては香都子の旧友の徳島のデザイナー、池上さんにお願いした。 継ぎ目が見えないようレースの模様に合わせる手の込んだ縫製をしていただいた。
花束はストックだけ。のちに二人の次女が結婚するときも、その手にストックだけの花束を持った。
新郎・利治はブラックスーツを着ている。
撮影中の利治と、妻・恵美子。

恵美子(現・立木写真舘社長)は、利治とは高校の同級生。
写真の仕事を始めたのは結婚してからだが、1982(昭和57)年にはアメリカ・ワシントンで行われた国際婚礼写真家協会(WPI)主催のフォトコンテストで、 初応募でグランプリを受賞。
七人の審査員が全員一致で百点満点を与えたのは前例がない ということで話題になった。
1990(平成2)年

鉄筋7階建の新社屋落成。
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