篠田博之(月刊『創』編集長)

 日本中を震撼させた津久井やまゆり園での障害者殺傷事件から1年余を迎えた。『創』は2016年10月号で総特集を組んだのを皮切りに、11月号、2017年2月号、5・6月号と継続してこの事件を取り上げてきた。雑誌メディアでは最も多く誌面を割いてきたのではないだろうか。そして今回、事件から1年を迎えて、その事件を引き起こした植松聖被告の獄中からの手紙を公開することにした。彼はこの間、多くのマスコミの依頼に応じて自分の気持ちを手紙に書いているのだが、趣旨は概ね同じだ。2016年2月に衆院議長あての文書に書いたのと同じ、障害者殺傷を目論んだ自分の信念を表明したものだ。事件から1年経っても、それは変わっていないのだ。

 発生1年を機に多くの新聞が相模原事件を特集し、植松被告の手紙を紹介しているが、ほとんどがその要旨を紹介しただけで全文掲載はしていない。その内容が改めて被害者や遺族を傷つけることへの配慮からだろう。その姿勢はひとつの見識だと思う。ただ『創』は独自の判断で、植松被告の手紙をなるべく詳細に掲載していこうと思う。なぜそうするのか、その説明の前にまず、この半年間ほど植松被告がどんな行動をとってきたか振り返っておこう。
津久井やまゆり園前に設置された献花台=2017年12月、相模原市緑区
津久井やまゆり園前に設置された献花台=2017年12月、相模原市緑区
 2016年9月21日から17年2月20日まで、植松被告は精神鑑定を受けていた。その結果、責任能力を問えると判断して横浜地検は2月24日、彼を起訴したのだった。その直後、世間を驚かせたのは、植松被告が続けざまに新聞記者の接見に応じたことだ。起訴と同時に接見禁止が解かれたようなのだが、24日金曜日の後、週明けの27日月曜から連日、彼は取材に応じていった。27日は東京新聞、28日は朝日新聞、そして3月1日に毎日新聞、2日に神奈川新聞という具合だ。接見が行われたのは津久井警察署だが、接見は1日1組と決められている。朝一番で各社が接見申し込みを行い、そのうち1社だけが認められる。彼が接見に応じていることはすぐに各社に知れ渡り、申し込みが連日殺到することになった。

 混乱を避けるために記者クラブで調整がなされたようで、3日以降も共同通信、その後はテレビ局などと接見の予定順番が決まっていた。しかし、植松被告は4日間応じた後、5日目から記者との接見を拒否するようになった。接見時間は15分以内とされていたが、実際には植松被告があらかじめ言いたいと考えていたことを話して10分弱で終わってしまうことが多かったようだ。裁判で争うべき事件の内容に触れることは原則禁止という条件だったから、あまり踏み込んだ取材はできていない。ただその接見で植松被告が謝罪したことだけは報道によって明らかにされた。