肆拾弐.上上下下左右左右×○
中納言の屋敷の庭は素晴らしかった。俺の家も爺の財力のお陰でなかなかのものになっているとは思うが、ほんのここ1ヶ月ほどで作ったなにせ急ごしらえの屋敷だ。それに引き換え中納言の屋敷は何十年も手をかけてきた時間の積み重ねがあった。
たとえば庭に置かれた岩にむす苔であるとか、立派な枝振りの松とか、池の鯉と共生する様々な生き物とか、手をかけ時間をかけることで得られる風情が感じられる立派な庭だった。
(やっぱり公卿というだけのことはあるなー)
まるで京都のお寺のような庭を一望できる一間に通された俺は、中納言の帰りを待つように言われて、お菓子と共に放置された。初めて他人の家に上がったということで、人目がなくなったのを確認してから興味津々であちこちを観察していた。
俺(おい。三羽烏)
ちょっと中納言の様子が気になった俺は、偵察をさせるために三羽烏をテレパシーで呼び出した。
三羽烏(ど、どうか致しましたでしょうか?)
俺(誰か1羽、内裏の方へ行って清涼殿の中を見てくれ)
三羽烏(分かりました)
カラスが1羽、清涼殿に到着すると俺は使い魔のもう一つの便利能力であるクレアボヤンスを発動した。これは使い魔が見た光景をそのまま主人に転送して見せるという能力で、今、俺の目には内裏の清涼殿の様子が映っている。
(うーん。なんか、まだ忙しそうだな)
中納言は清涼殿の中で書類と格闘していた。貴族といえば優雅に和歌を詠んで遊び暮らしているようなイメージがあるかもしれないが、意外に実務に忙しく働いているのだ。中納言となればあちこちから上がってくる膨大な報告や陳情を効率よく処理していかなければならず、その上に宮中の行事の準備やらなんやら、結構バカにならない量の文書を捌いていく必要がある。
(なんか捕まっちゃってるっぽいな。こりゃー待ってると遅くなっちゃうかな)
朝からずっと歩き通しですっかり疲れてしまったのでごろごろしたくなってきたし、ちょっと早いけどお腹もすいてきてお菓子じゃ足りない。本当ならそろそろ切り上げてさっさと帰ってご飯を食べて雪に甘えて墨を抱き枕にしていつもより早く寝る予定だったのだ。
(といっても、せっかく招待されたのに勝手に抜けだしてこっそり帰るってのもまずいよな…。そうだ! 俺の身代わりにちょっとしたプレゼントを置いて帰ろう。うん。俺って天才)
俺は懐から天照にもらった紙を一枚取り出して、手頃な大きさの正方形に紙を整形すると折り紙を折り始めた。
手順を忘れている部分があったので少し試行錯誤して20分ほどで折り上げると、それを部屋の真ん中において三羽烏にテレパシーを送った。
俺(そろそろ帰るから、足駄を取ってきてくれる?)
三羽烏(り、了解致しました)
縁側に立って美しい庭を名残惜しく見ていると、三羽烏が足駄を加えて飛んできた。
(よし、じゃあ帰りますか)
俺は懐から、式神の精神攻撃に耐えながら作った八咫烏の羽を取り出すと、足駄を履いて庭に降りた。三羽烏も何事が起きるのかと興味津々で見ている。俺は羽を右手に持って前に突き出し、一息深呼吸すると、
上上下下左右左右×○
俺「空へ」
俺は羽を空へ高く掲げて、一言つぶやいた。刹那、背中に虹色のオーラを纏った漆黒の羽が出現する。幅が3メートルほどもある巨大な羽だった。
九字といえば有名なのは臨兵闘者皆陣烈在前というやつです。手で印を組んだり、身体の前で手を縦横に切ったりして行う呪術の一種です。