ほぼ日刊イトイ新聞

2020-03-16

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・全休符の音。

 音楽の授業のなかで、楽典についても少し習う。
 音楽にも文法のようなものがあって、
 それを理解することでいろんな可能性が増すわけだ。
 ぼくは、妙に「休符」というやつが好きだった。
 音を出さないで休むということを表している。
 音がないのだけれど、休符という記号で表現はある。
 こどもだったから、そういうことが気になる
 (同じように、「白は色だよ」も気になっていた)。
 休符は、いくら並べても、細かく分けても、
 それだけでは、なにかのやりようもない。
 だけど、楽譜のなかに休符を入れないと音楽にならない。
 おもしろいものだなぁと、けっこういまでも好きなのだ。

 社会も人生も、楽譜のようには表せないけれど、
 休符で表現するようなことが、きっとあるはずだ。
 楽隊はそこにいて、次の音を出すのだけれど、
 その前の、音を出さずにいる時間。
 そういう休符のような時間はたくさんあるのだと思う。
 それを、「音が止まった」と受け身で聴くのではなく、
 演奏家として「音を止めている」と考えると、
 休符のとらえ方は、ずいぶんおもしろくなりそうだ。

 いや、毎日言っているようなことを、今日も言っている。
 中国が、日本がということでなく、もう、
 世界が音を立てないようになっている。
 あえて楽譜で表現するなら、いまは全休符の時期だ。
 音を出さないけれど、音楽の過程のなかにいる。
 恋人どうしの「会えない時間」のようではないか。
 おいしい食事の前の、ほどよい空腹にも喩えてみよう。
 こどもが成長するといわれる夏休みのようでもある。
 次にどんな旋律が演奏されるのかは、
 いまの休符との関係で決まってくるにちがいない。
 唐突に転調するのかもしれないし、
 リズムも変わる可能性だってあるはずだ。
 それを決める人は、あなたの音楽については、あなただ。

 この全休符の時間に、なにを企んでいようか。
 元に戻る以上のことを、望んでもいいのではないか。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
2020年、だれがこんな騒動を予言したろうか。だれも、だ。


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