糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
03月15日の「今日のダーリン」
・不自由は安心感。自由は不安。
昔むかしの時代から、人は空を見上げてさ、
「鳥はいいなぁ、自由に空を飛べて」と憧れてきた。
それは、いまを生きてるぼくだって思うことだ。
ドローンというものが世に現れて、
空を飛ぶって、ずいぶん簡単なものなのねと思った。
あれで、荷物を運ぼうとしているのだから、
人を乗せて飛ぶことだって、すぐにもできそうだ。
ドローンか、そんなふうな乗り物で、
自由に空を飛べるようになったとしても、
それはなかなか社会では認められにくいだろうと思う。
これはぼくの想像なのだけれど、
空を飛ぶというのは、他のことに比べて、
おそらく、自由過ぎるのである。
汽車も電車も、鉄道という線路を走る。
その線路の上しか走らないという不自由を前提に、
「どこへでも行ける」とか言っちゃってるわけだ。
「ぼくらは線路も要らないもんね」という自動車だって、
他人の家のなかを突っ切るわけにはいかない。
なんやかんや言うたかて、道路を走ってるわけやないか。
これまで、自由そうに見えていた陸上の乗り物に比べて、
空を飛ぶドローンには、まったく道がない。
高さも低さも、方向も、速度も、知ったこっちゃない。
だからこそ、不安で怖いのだろうと思う。
すべて自由である空を飛ぶという行為には、
無数に近いくらいの「規則や規制」を背負わせないと、
あっちでガチャン、こっちでドスン、おまけにボカン、
みたいなことになってしまいそうだと考えるのだろう。
「まったく自由」みたいなものには、
人間は、たぶんとても弱いのだ。
だから、線路といわず、道路といわず、
制約するものに従って、安心をキープしていたいのだ。
いまこの時期の、人びとのこころには、
「自由は苦しい、制約を決めてくれ」という願いが、
そこはかとなく漂っているような気がする。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
でも、鳥は空に道路がないことを、怖いと感じてないよな。
昔むかしの時代から、人は空を見上げてさ、
「鳥はいいなぁ、自由に空を飛べて」と憧れてきた。
それは、いまを生きてるぼくだって思うことだ。
ドローンというものが世に現れて、
空を飛ぶって、ずいぶん簡単なものなのねと思った。
あれで、荷物を運ぼうとしているのだから、
人を乗せて飛ぶことだって、すぐにもできそうだ。
ドローンか、そんなふうな乗り物で、
自由に空を飛べるようになったとしても、
それはなかなか社会では認められにくいだろうと思う。
これはぼくの想像なのだけれど、
空を飛ぶというのは、他のことに比べて、
おそらく、自由過ぎるのである。
汽車も電車も、鉄道という線路を走る。
その線路の上しか走らないという不自由を前提に、
「どこへでも行ける」とか言っちゃってるわけだ。
「ぼくらは線路も要らないもんね」という自動車だって、
他人の家のなかを突っ切るわけにはいかない。
なんやかんや言うたかて、道路を走ってるわけやないか。
これまで、自由そうに見えていた陸上の乗り物に比べて、
空を飛ぶドローンには、まったく道がない。
高さも低さも、方向も、速度も、知ったこっちゃない。
だからこそ、不安で怖いのだろうと思う。
すべて自由である空を飛ぶという行為には、
無数に近いくらいの「規則や規制」を背負わせないと、
あっちでガチャン、こっちでドスン、おまけにボカン、
みたいなことになってしまいそうだと考えるのだろう。
「まったく自由」みたいなものには、
人間は、たぶんとても弱いのだ。
だから、線路といわず、道路といわず、
制約するものに従って、安心をキープしていたいのだ。
いまこの時期の、人びとのこころには、
「自由は苦しい、制約を決めてくれ」という願いが、
そこはかとなく漂っているような気がする。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
でも、鳥は空に道路がないことを、怖いと感じてないよな。