「もう、殺して」
とそういうことを彼女に言われたのは一度や二度のことではない。その度に私は、
「もしそのときが来たら、おれがやってやるよ」と返すのだった。「約束だからね」と言う彼女に、「約束するから勝手に死なないでね」と返していた。
私たちは何がなくとも「死にたい、死にたい」などと年がら年じゅう口にして、「もう疲れたよね」などと言ってはお互いを慰め合う関係だった。
死ねば現在の苦しみから解放される、最後の手段がある、というそのこと自体が救いだった。けれども、もうそんな段階はとうに過ぎてしまっていた。私たちの日常には、いつも傍らに死があった。
*
H子とは、5年前に婚活をしていた時期に知り合った。早生まれで学年は私のひとつ上、誕生日は、日にちが同じだったからすぐに覚えることができた。
何度かデートは重ねたものの、お互い失恋したてであり付き合うことはなかった。その後それぞれ別の異性と付き合うことになり、私たちは気心のしれた相談相手となった。
170cm近い長身に長髪をなびかせていて、タイトな服とミニスカートをいつも好んで着ていた。一見派手な服装と絵に描いたようなナイスバディだったので、一緒に歩いていると頻繁にナンパをされていた。
複雑な出自や家庭環境にもかかわらず偏差値70近い私大理系を現役ストレートで卒業し、英語を始めたと思えばすぐにTOEIC800点台を叩きだし、簿記を始めればふた月足らずで2級に受かった。
就職氷河期に巻き込まれブラック企業や非正規職を転々としていたが、某金融機関の非正規から正規雇用に登用される狭き門を通り、正社員として働いていた。
彼女は美しく聡明な努力家だった。だが、その自負が彼女自身を苦しめることになる。
かつて彼女には目指した夢があり、深く愛した人がいたらしい。しかしそのどちらも叶うことはなかった。
私たちはよく似ていた。真面目な割に要領が悪くて、卑屈で報われない人生を送っていること、いつも愛されたい人に愛されないこと、その結果うつうつとした人間性を獲得してしまったこと等々、根の部分において。
だから話がよく合った。
知り合ってから5年の間、ささいなことから、重大なことまで毎日のようにラインをした。やりとりした文章の量はきっと数万通ではきかない。
やがて信頼し合うようになり、親友になった。
私たちは旅行くらいが唯一の趣味だったから、休みが合うたびに一緒に出かけた。
どちらからともなく旅券を調べ、「○日で○万って、安くない?」などと言い出して、貧乏旅行をした。
いつも、大して広くもない小汚いツインの一室で過ごした。同じ部屋に寝泊まりしても、私たちに肉体関係はなかった。お互い何かを匂わせるようなこともなかったし、プラトニックでいることがずっと一緒にいる術なのだと理解していた。
友人同士だから過度に期待し合わず、丁度良い距離感でいられた。語学力や異国を歩き回る体力、好奇心や急場の対応能力が同じくらいだったから、絶妙のコンビネーションで補い合い、毎回思うままの旅をすることができた。旅先で揉めたことはほとんど無い。
パリ、台湾、韓国、その他国内、それは彼女が結婚するまで続いた。
旅行している間だけは、日本で自分の身にふりかかったこと、或いはこれからふりかかるであろうあれこれを忘れることができた。
だけど、結局それは一時的な現実逃避に過ぎない。どの国に何日一緒に行ったとしても、私たちの人生が根治されるようなことはなかった。
私たちは気持ちをちゃんと言葉にして伝えることの大事さを知っていた。
だからお互いが大事な存在であり、報われない人生ではあったけれど、少なくとも得がたい友人を得たというただその一点については間違いなく恵まれているんだと、しつこいくらい言葉にしていたし、彼女も言葉にしてくれた。
「死にたい、死にたい」とは言い合うものの、それはさておき私はあなたが死んだら辛いし悲しいし寂しいんだ、ということを伝え合った。それはこの世に魂をつなぎ止めるもやいのようなものだった。
だけど私たちが本当に欲しいものは、お互いに満たし合うことがどうしてもできないものだった。
*
私たちは婚活仲間でもあったから、異性を紹介し合うようなこともしていた。
あるとき私はH子に、Yという30代半ばの友人を紹介した。一流大学一流企業、高収入でユーモアもあってちょっと変人で、彼女が付き合うのに丁度いいと思った。
思惑どおり、彼らは巧くいった。
しかし彼女は、いや私たちはとことんツキに見放されていた。
彼らの関係性がまだ浅いうちに、H子はYの子どもを妊娠してしまった。ふたりとも未だ子どもを持つ覚悟ができておらず、合意のうえ中絶することになった。
結局、それで二人の関係は終わった。
施術の日、私は新宿の産婦人科に同行した。医者や看護婦の視線が痛かった。
中絶の施術の内容は調べるだに苛酷で辛いものだったから、彼女は入院するのだとばかり思っていた。けれど実際はその日のうちに帰宅することになった。
意識がもうろうとしているH子の肩を支え、タクシーで家まで送り届けた。
「明日は会社休みなよ」と伝えたけれど、それがまるで何でもないことなんだと誇示するように、H子は翌日も普通に出勤した。
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悪いことは重なる。その時期、H子は職場でパワハラを受けていた。
少しずつ心を持ち崩す彼女を見かね、私は弁護士の友人を紹介した。
それから彼女は仕事を辞め、転職活動をしたけれど、口下手な彼女の転職は中々うまくゆかなかった。非正規の仕事を転々としているうちに、彼女は自分が組織に向いていないと確信するようになり、そのうち働こうという意欲もなくなってしまった。
その後、知り合いに紹介された男性と結婚し、専業主婦となった。
それは「結婚すれば労働から解放されるし、何かが変わるのかな」「ずっと一緒に過ごしていれば愛情は生まれるはずだろう」等というどちらかといえば消極的な結婚で、私が聞く限りではあまり夫婦仲も巧く行っていたとは言いづらいものだった。そこからも色々なことがあった。
旦那さんの転勤に合わせて地方住みとなり直接会うことは殆どなくなったけれど、LINEだけは定期的に連絡を取り合う関係を続けていた。H子はこのブログも読んでくれていて、一昨年私が相場で大損したときにはたくさんカロリーメイトを送ってくれた。
H子が結婚してから、2年の月日が流れた。
相変わらずうつうつとしていて、外界との関りがなくなったためか徐々に悪化さえしていた。といって働いたり、何かサークルのようなものに嵩じる場所も、地方の田舎ゆえになかった。
数少ない東京に来る機会に多少食事をするくらいのことはしていたけれど、H子は会う度に目に見えてやつれていった。
彼女の精神がミシミシと軋む音がしているのは判っていた。けれど、私にできることは何もなかった。
そのことが歯がゆい、と伝えると、「(私の周りの人も)みんなそう思ってるよ」と返された。
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今年になり、彼女から「もう限界だ」という告白をされた。
一昨年、私はH子の預かり知らないところで自殺を幾度か図り、いずれも失敗していた。けれど、彼女もまた同様にして私の知らないところで未遂を経験していたらしい。
かつて私たちは、理想の死に方についてよく語り合った。
それは、眠剤入りの酒を飲み昏倒したH子の首を私が締め、絞殺のうえ死亡を確認する。私はH子を殺した勢いで同じく眠剤入りの酒を飲んでから首を吊る、というものだった。
H子は苦も無く美しい体のまま確実に死ぬことができ、私は死ぬのに足りない勇気を得ることができる。
とはいえ机上の空論なので、大抵適当に話を実現に向けていくといずれ他の話題に移り、実行はお流れになるのがいつものことだった。
けれど、今回はそうならなかった。
長年苦痛に耐えてきたけれど、もう耐えきれない。あの方法で私を殺して欲しい、一緒に死んで欲しい、と言われ私は、「わかった。」と応えた。
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死ぬ前に、彼女は旦那さんとともに台湾に一週間ほど行くことにした。それは、かなり前から計画されている予定だった。
台湾は温かいから、あわよくばそれでもう少し生きてみようかなという気持ちになるかもしれない。と私だけでなくH子自身も期待していた。
しかし実際には、旅先でさえほんの僅かにも心躍らないことを発見し、心が完全に死んだことを再確認することになってしまうだけだった。
もはや現実逃避の方法さえ失われていることに、彼女は寧ろ安堵を覚えた。この世に未練がないことを確信した、と言った。
*
仮にやるとしても、具体的な手順について話し合いをしなければいけない。
3月6日金曜、夜20時に川崎駅で待ち合わせ、かつてパリで、台湾で、韓国等そうしたように、ホテルのツインの一室で私たちは一晩中話し合った。それだけでは足りず、翌朝になっても川崎の町を延々散歩しながら、何時間も話をした。
それは私たちの人生について、ともに過ごした時間について。
話題がそんなにあるはずはない。これまで何度も話した同じ話を、何度もした。それどころかさっきした話もしていた。
「私たち、頑張ったよね、必死に生きようとしたよね」と確認する彼女に、「ほんとにね」と返す。何度も何度も、何度も何度も。
ただただ離れ難かった。ここで別れたら、明日が来てしまう。明日が来たら、いずれその日が来てしまうんだ。
「痩せるために、ロッテリアも甘いものも我慢したのに、一体なんの為にそんなことしてたんだろう、どうせ死ぬのに」
お昼頃になり、商店街の店を遠目にみてH子は呟いた。
「もう食べて良いんだよ、食べようよ。一口だけ食べてみて、気に入らなかったらおれが全部食べるから」
「もういいの、食べて良いと思ったら逆に食べる気なくなっちゃった」
その気持ち、わかるよ。と返す代わりに言った。
「H子、おれは一緒には死なない。君の死を理由にして死にたくない。」
私だって今すぐ死にたい。一人で死ぬのは寂しいし不安だから、一緒に死ぬ人がいたら安心する。でも私が死ぬことを理由にしてH子に死なれるのはご免だった。
それに全てが終わったあとで、釈明する人間が要るだろう。
「そう。でも私、もう耐えられないから、一人でもやるよ。」
私たちには一般的な治療も精神薬も効かなかった。例えいっとき薬でしのいでも、結局まのびした苦しみによって真綿に締められるように日々を送るだけなのだと私たちは知っている。もし希望があるとすれば違法薬物くらいのものだろう。それも試していないだけで、怪しいものだ。
精神病棟に閉じ込められるくらいなら、それこそ死んだ方がマシだと思った。
「そうだ、ねえ、もんじゃ食べに行こうよ」とH子は言った。
*
ひとつめのもんじゃは、私が焼いた。
「美味しいんだね、もんじゃって。初めて食べた」
「また一緒に食べにいこうよ」
ふたつめもんじゃは、H子が焼いてくれた。
「もう多分、これでお腹一杯だよ」
H子はコテでもんじゃの土手をハートの形に整えた。
「ねえ、H子、」と私が言おうとすると、
「『もんじゃを一緒に食べたらずっと友達でいられる』んでしょ、知ってるよ。読んだから」
以前、私はもんじゃを一緒に食べたら生涯友人でいられる、という話をブログに書いた。そのことをH子は覚えていた。
「間に合って良かったよね」とH子は言った。
寂しいからって私たちは結婚しなくて良かった。お互い友人でいたから、丁度良い距離感で、無二の理解者でいられた。それは私たちの共通理解だった。
私たちにとって、この世は苦界だ。
治療は試した、趣味も作ろうとした、資格の勉強もした。だけど心が楽になることも、何かを楽しいと思う気持ちも、そして転職して再び働く勇気もわかなかった。
ただ生きて呼吸しているだけのことが、火の粉を吸わされているような耐え難い苦痛で、それがこれからもずっと続いていく絶望ばかりがどうやっても消えてくれない。私はそのことをよく心得ていた。
それでも、私にとって彼女は間違いなくゴミ溜めの中で見つけた宝石のような存在だ。
彼女を失うことが耐えられない。けれど、生きて苦しみ悶える姿も見ていられない。矛盾した思いが渦を巻いていた。
でも、もし彼女があんなに嫌った孤独の中、ひとりで死んでいくのをただ見送るようなことになったら、私は自分を一生許せないと思った。
「おれは死なない。その代わりに、最後まで一緒にいる。気が変わるのを祈ってる。でも絶対一人にしない。約束する。」
3月の中旬に、H子は31歳になる。その前にやるのだと言っていた。その具体的な日について、彼女は「今日」だとか「じゃあ明日」だとか言っていたけれど、「おれの心の準備がつかないから」といって一週間だけ待って欲しいと告げ、その日は別れた。
*
その日、彼女と別れてから思案を巡らせた。本当に解決策はないのか。
辛いだけの5年ではなかったはずだ。楽しいこともあった。彼女の置かれている現状は決して世界の相対的に超大の不幸とはいえないはずだ。
ああでも……。
でもきっと、人は他人からみたら「そんなこと」で死ぬんだろう。「そんなこと」が連続したり、タイミングが悪かったり、この世の自死の大半がきっと、本当は「そんなこと」なんだろう。
「そんなこと」なんて存在しない。犬にほえられたり、急な雨に降られたり、どんなきっかけでも人は絶望しうるし、死ぬときに死ぬんだろう。
いや違う、違う違う!!
自分のために自殺を正当化しようと考えた手製の矮小な屁理屈が、思考の邪魔をする。どうして私はこんなことばかり考えてしまったんだろう、と思った。彼女を苦しませずに生かす方法を思いつかない。私では彼女を救えない。
何かないか、何かないか…。
ネットで検索したり、SNSや職場の同僚に「死ぬのを思いとどまるくらい楽しい何か」を訊いて回った。
でも結局、諦めた。
そんなものが存在しないなんてことは私が一番知っているし、それに私が彼女の最期に立ち会うことを許されるのは、私が彼女の絶望を理解できる数少ない人間だからなんだろう。
「最後だと思って家族と話したら?」
と提案したけれど、H子は拒んだ。血縁の家族に、私たちのことを理解するのは難しい。それは家族仲が良いとか悪いとか、優しいとか優しくないとかということとは全く別の問題だ。私が自分の最期を自覚していても、きっと家族とは話さないだろう。相手が絶対に理解できない、しようとしないことを説明するのは骨が折れる。それをする体力はもう彼女には残っていなかった。
もう、彼女が救われるには遅すぎた。
*
一昨日、13日の金曜日、私は会社を休み、昼間から彼女と会って話すことにした。
いつものスーツにいつものカバン、いつものクツにいつもの通勤経路、違うのは私の嵐のような心中だけだ。そしてそんな日に限って、春日和の優しい風が吹いていた。
若葉や桜、つつじ、菜の花の色の鮮やかさがいやに目についた。私の隣を近所の保育園の園児たちの乗るオレンジの手押しのカートが通り過ぎてゆく。
「あ、ちょうちょ!」と誰かが叫び、保育士さんが何かを言うと、子供たちはきらきら笑っていた。
この世界は希望がこんなに溢れてるじゃないか、それに比べてお前たちの態度は何なんだ、どうしてそんな卑屈な顔をして、今から何をするつもりなんだ?そう突き付けられているようだ。私は苦痛を感じた。
時間通りH子と落ち合い、カフェで話していた。
「13日の金曜日なんて呪われてて私らしいよね」
とH子は笑った。彼女の意思は固かったし、私も一週間で彼女の死を受け入れる覚悟を決めていた。まるで1分1秒が、ゴルゴダの丘を登るように感じていた。
近くの席に、子連れの家族が座り、まだ5歳くらいの少女が「しゅいまちぇん」などと言って舌たらずな声で店員を呼んだ。
H子はそれを見て、「私、子供の声を聞くと吐き気がするようになったんだ」と言って顔を顰めた。
「じゃあもう、行こう」
そうして私たちは、H子が予約した川崎駅の近くに在るホテルにチェックインした。
*
しばらく酒を飲みながら話をしていたが、日付が変わった頃になって、H子が「いっかい、実験してみよう」と言い出し、ドアノブに持参したロープを結び、首をかけて座り込んだ。
私はそれを傍で見ていたが、ものの数秒でH子は目を見開いた。見たことのないH子、H子の顔をした恐ろしい形相の何かが、両手足をバタバタ動かし脱力していた。
「うわあああああああ!!」
私はH子の名前を何度も叫び、H子を抱え首の紐を解いた。H子をベッドに運び、頬を叩いた。
「え?私、どうしたの?」
気付いたH子が訊いた。
「今、今、、、あっちに行きかけてたよ、あっちに行ってた、、、」
全身に戦慄が走り、震えが止まらなかった。H子の死を受け入れる覚悟なんて、ものの一瞬で吹き飛んでしまっていた。
「なんで、止めたの?そんなことしなくて良かったのに。どうして、どうして、、、私、死ぬことも許されないの?死なせてよ、もう殺して、お願い、、、」
泣き始めるH子に、私は言った。
「死なないでH子、死なないで欲しい。君のことが大事なんだ、やめようよ、辞めて欲しい。今辞めても誰もH子の意思の強さは疑わない。明日になったら、会社なんてほっといてスペイン行こう。屋久島も行こうよ。死んだら終わりなんだ、一緒にいて欲しい。君のことが大事なんだ、頼む、頼むよ、何でもするから、お願いだよ」
私はベッドの下に跪き、H子の手を握り懇願していた。目から涙が溢れて止まらなかった。
「もうだめなの。私もだっちゃんのことが大事だよ。私の大切な人にこんな思いをさせてごめんって思ってる。でももう、許して。」
「だとしても今日に拘る必要なんてないじゃないか、3月14日なんてなんでもない日じゃないか、君の誕生日まであと数日ある。せめてそれだけ生きてくれよ」
「意味はあるの、大事な日なの。3.14は円周率、だっちゃんの心の中で私はずっと終わらないってこと」
H子もベッドを降り、私を抱きしめた。
「何だよそれ、ギャグじゃないか、、、」
私は思わず笑った。
「後悔してる。だっちゃんと結婚してれば良かった。本当はね、だっちゃんのことを愛してた。でも半端な気持ちでだっちゃんと結婚して、失うのが怖かったの」
そんなこと今さら言うの、ずるいよ。なんて自分勝手なんだ、、、。
火傷するように熱いH子の身体を抱き、失うものの大きさを思った。
この先私は、もっとたくさんのものを失うことになると思う。ずっと一人きりかもしれない。孤独の道の途中で立ち止まるとき、この熱の記憶だけが太陽かもしれない、と思った。
震えは止まっていた。
*
永遠のように長い夜が明け、気がつくと、安からな顔をしたH子の魂の抜け殻がそこにあった。
カーテンの隙間から朝陽が差し込んでいた。
H子、お疲れさま。どうか安らかに。