拾肆.あんあんあん
雪に膝の上で抱っこをしてもらいながら、俺はさっきの本の内容について考えることにした。
(魔法って言っても、俺の想像してたものとはだいぶ違うな)
天照からもらった本に書いてあった『魔法』とは、広い意味では魔法と読んでいいのかもしれないけれど、微妙に違うジャンルっぽいものも結構、というか、沢山含んでいた。といっても、俺はそっち方面の知識はさっぱりなのでどういうジャンルかよく分からない。とりあえず、中二っぽい呪文を唱えたり魔法陣を描いたりするのは全体の1割強といった程度だった。
(まあ、でも超常現象を起こすって意味では魔法だよな)
例えばあのクソ変態式神を作るのも、昨日着た狩衣とかを作るのも、あの不思議な白い木箱だって、十分にこの世の法則を超えた超常現象なわけで、魔法と呼んでもおかしくはない。
式神とかは陰陽術というほうがそれっぽいが、それを区別することに意味があるかは別問題だ。陰陽術という名前をつけることで、何かが分かりやすくなるならそれもアリだが、あの本の中身は、カオスと言う他はないような内容だった。
例えば、火を生み出すというだけの基本的な魔法には、10通り以上の方法があって、そのどれ1つとして、何と言うか、似ていない。よくまあこんな脈絡のないバラバラの手順を考えつくものだと感心するようなものが、お互いに全く関連なく10通り以上。しかも効果は殆ど同じ。中にはほとんど正反対の手順まで含まれていた。
(あれが全部1人で考えたものだとしたら、何かと紙一重の天才だな。確実に)
むしろ、紙一重の向こう側という気がしなくもないが、どっちだって大差はない。とりあえずここで言えることは、魔法というのはすべて丸暗記。手順を工夫して改良しようなんて努力は、100%無駄だということだ。
(あ。なんか、これ、似たようなのを知ってるぞ。なんだっけ?)
カスタマイズ不可能で、似たような機能を持った全然別のものがいっぱいあって、系統立てた分類が不可能で、この世の法則を無視してて…
(…、ドラえもんのひみつ道具だ)
あ、なんか腑に落ちた気がする。なんにも解決してないけど。ひみつ道具と違うのは、ひみつ道具は使い方は奇抜でも単純なのに対して、魔法は手順がクソややこしいところだな。まあ、普通はそれが大問題なんだが、
(で、俺の脳みそが四次元ポケットか)
ここでも俺の異常な高スペックが大活躍だ。もうさすがに驚かなくなってきた。
俺が1日かけて本を読んだ結果、本の中身は全部俺の頭にコピーされた。1文字残らずだ。だから、どんなに底意地の悪い手順でも一瞬で思い出すことができる。どんな脈絡の無い音の羅列でできた呪文でも、間違えずに唱えることができる。
(問題は、この魔法をどう活用するかだな)
のび太はせっかく素晴らしいひみつ道具をドラえもんに貸してもらっているのにもかかわらず、使い方がダメなせいであの体たらくだ。もっとも、ドラえもん自身がそもそも道具の選択を間違っているという気がしなくもないが、とにかく使い方が悪ければせっかくの魔法も宝の持ち腐れなのだ。
残念なことに、高スペックなのは俺の記憶力だけで、思考力の方は大して変わっていないような気がする。例によって、記憶力は体に依存して、思考力は心に依存するということなのかな。
(まずは、あの太刀の保管方法で、次は衣食住の改善だな)
まだあの太刀は床下に隠したままだ。梅雨入りしてジメジメしてきたし、ほっとくとすぐに錆びてしまいそうだ。でも、まあ、その魔法はもう目処をつけたから今日の夜にでもやっておくとして、次に大事なのは生活環境の改善だ。平安時代風も風流でいいんだが、現代風のほうが圧倒的に快適だ。
(とりあえず、明日は結界を使って、屋敷を改良するか)
平安時代で魔法といえば、陰陽師として有名な安倍晴明がこの時代の人です。十二天将という式神を使うとか、家の家事一式を式神にやらせたとか、奥さんが怖がるから橋の下に式神を住まわせていたとかいうエピソードがあるそうです。同時代なのでいつか登場する機会があるかもしれません。