昔、とんでもなくアマゴが釣れる秘密の
渓流があった。
ほとんど人も入らず、ウハウハに釣れた。
今は通行止めになっている。

まるで入り込んだら帰ってこれない魔鏡
のような入り口になっている。
この道を舗装道路がなくなる地点まで、
ここから8キロほど上流に向かう。
途中、車の離合はできないので、対向車
が来たらアウトだ。車1台分しかない道
をバックで8キロ後退することはできない。
舗装道路エンドでは待避エリアがあるので
そこに車を停めて、そこから渓流に降りて
川の中を遡上する。
天然アマゴが物凄く釣れる。
フライを投げたら食い、投げたら食いだ。
カタも良い。
だが、ここはクマも多く出る。
その日も、釣りをやめて車まで戻ったら
車の周囲がクマの足跡だらけだった。
しかし、その日は、もっと別なことがあった。
あまりに釣れるのだ。
そして、どんどんと上流の奥へ引き込ま
れるようになった。
何かが「おいで。おいで」と言っている
ように。
カタの良いヒレピンの天然アマゴが爆釣
なので、普段はリリースが多いが、何匹
かベースキャンプに持ち帰って焼いて食べ
ようとした。
1匹をその場でしめてハラワタを抜いて血
あいも洗ってキープした。
シメ方は、ナイフを脳天に突き立てる。
ビクビクっと動くが、すぐに動かなくなり
死ぬ。
生き物を食べるということは、生き物を
殺すということだ。
最初から肉が肉屋に並んでいるのではな
い。
魚屋などは魚の死体が並んでいるのだ。
野菜にしても、肉類にしても、人間が生き
るためには生命体の生命を奪ってる生きる
ということをやっている。綺麗事ではな
い。
1尾シメて、次のカタの良い1尾をまたシメ
ようとした時だった。
アマゴは釣り上げられたらションボリと
したような目をする。
それを手に取って、ナイフで脳天に狙いを
定めた瞬間に、ギラリと睨むように目を
反転させてこちらを見た。
うわっ!と私は声を上げて魚を放した。
明らかにこちらを見据えていたのだ。
それまで、なにかいや〜な雰囲気が増して
いたのだ。
異様に釣れる。こんな場所は滅多にない。
そして、どんどん谷の奥に引き込まれる。
何かの力でオイデオイデと引っ張られる
ように。
気持ち悪くなっているところ、前方遥かに
釣り人の影を見た。
こちらを向いていた。
黒っぽいウエーダーに白いシャツを着て
いた。
すぐに見えなくなった。
先行者がいたのか、と思ったが、よく考え
ると車は1台もない。谷を下りた場所にも
停まってはいなかった。
何十キロもあんな軽装で歩いて来たのだろ
うか、何だか気持ちわりー、とか思って、
マスをキープして帰ろうっと、と思った
矢先に魚が私を睨んだのだった。
本当に不気味で気持ち悪くなって、まだ
日は高い真夏の太陽だったが、早々に引き
上げることにした。
ベースキャンプのキャンプ場に帰って来て
から、キープしたアマゴは自分で食べずに
食べたがったキャンプ場のスタッフにあげ
た。
その晩が大変だった。
40度以上の熱が出た。咳も鼻水も一切
無し。高熱だけが出た。
寝込んだ。
スタッフに介護されるように三日三晩その
ロッヂで寝込んだ。
ようやく回復して、下山して帰宅した後、
フライフィッシング仲間にその奇妙な顛末
を話した。
すると、その人は「え?もしかして、あそ
この川?」と言う。
話を聞いて私は凍りついた。
その人は、ある時、行ったことのない
不思議な道を見つけた。
どんどん登って行くと、恰好の渓相の谷川
がある。
早速、舗装道路最上部まで行って車を停
め、川に降りて釣り上がることにした。
ウハウハ釣れる。なんじゃこりゃー!
と思った。
どんどん釣り上がって行くと、ある浅瀬
と小さな淵が連なる所に出た。
そこで、一人の頭のはげたおじさんが、
水面から顔を出してニコニコ笑っていた。
こんちわー!と声をかけてもニコニコと
してこちらを見ているだけだ。
暑いから渓流で水浴びでもしてるのだろ
う、酔狂なおっちゃんだなあ、とか思った
が、人が入っていてはこれから先、釣果は
期待できない。引き上げることにした。
車まで戻って、下山して帰宅する途中、
とんでもない事に気づいた。
あのおじさんが水面から首を出していた
場所は、淵ではなく浅瀬で、水深は足の
くるぶしほどしかない場所だったのだ。
背筋に冷たい物を覚え、事故を起こさな
いように慎重に彼は帰宅した。
だが、その晩から原因不明の高熱が出て
三日三晩寝込んだのだった。
「同じ川だよ」
と彼は言う。
あまりその手の話には動じないつもりの
私だったが、この時ばかりはドッシェー!
となった。
後日、漁協に連絡を入れた。
あまりに釣れる渓流だったので、場所を
言って禁漁区かどうか確認しようと思った
のだった。
禁漁区ではなかった。
だが、漁協の人の対応に、またおぞけが
走った。
「え?・・・本当にあそこに行ったの
ですか?」
と。
「ええ。遊漁年券も持ってますし、禁漁
区ではないと今おっしゃったそこに行き
ました。違反ではないですよね?」
と私は言った。
「ええ。違反ではないですけど・・・」
と漁協の女性は口ごもる。
「何か問題でも?」
と私が問うと、女性によると、その谷道
は先月クマが出て人が襲われて、その人
は今も病院で意識不明のままなのだとい
う。
そして、地元の人たちは、その谷には昔
から絶対に入らない、と。
それを聴いて、私は再びドッシェ〜!の
ドッヒョーーン!となったのだった。
ここは「行ってはならない谷」だ。
オイデオイデとどんどん上流に引きずり
込まれるが、下手すると帰ってこれなく
なる。自分が餌になって。山と山神の
使者たるクマの餌食となって。
そして、精霊がそれを手招きしている。