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三つ子事件、なぜ「実刑」 半世紀続く構図<2> (社会部・今村節)

人生の明暗が「母の懐」にかかっている、と説く大正10年の日本児童協会時報。育児の全てを母親一人に押しつける時代はこの頃から

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 「やっぱり子どもを産んだ女性は強いなあ」

 私が発熱、嘔吐(おうと)しながらも赤ちゃんに授乳した話をすると、知人は感嘆した。心の中で反論した。「強いわけじゃない。私だって横たわりたかった」。ただ、それを状況が許さなかっただけだ。

 愛知県豊田市の三つ子事件を取材しながら、こうした根強い「母性神話」を強く意識するようになった。事件は、半年間の夫の育休が明け、母親がゼロ歳児の三つ子とともに一人取り残された、エレベーターのないマンション四階の一室で起きた。

 母親なら一人でもちゃんと育てられるはず。そう社会が思考停止した先に、あの実刑判決はあったのではないか。支援を得られなかった母親一人に責任を全て押しつけていいのか。

 疑問をぶつける私に恵泉女学園大学長で発達心理学の研究者大日向(おおひなた)雅美さんは、静かに語りだした。

 「母性神話は、明らかに政策なんです」

 大日向さんは順を追ってこの国の家族の成り立ちを解き始めた。

 「かつて日本は村落共同体で、母親は貴重な働き手。主に育児を担ったのは祖父母で、みんなで寄ってたかって子どもを育てていました。若い世代は専業主婦なんてさせてもらえず、自分が祖父母になったら育児する、という社会だった」

 明治の文明開化と富国強兵、その後の重工業政策。村落共同体が崩れ、「夫が外で働き、妻が家事育児を担う『新中間層』と呼ばれる豊かな層が、都市部で生まれました」。資本主義社会が進んだ、そんな大正時代(一九一二~二六年)半ばが「母性神話」の始まりだった。

◆育児の勉強説く雑誌

 大日向さんがたどりついたのは、台頭してきた新中間層のサラリーマン家族向けにそのころ創刊された育児雑誌「日本児童協会時報」だった。大日向さんは、当時の母親たちが乳児の世話をまともにできないことを、筆者たちが嘆く記述が、あちこちにみられることに気付いた。

 「『母親たちは勉強して育児をしなくてはいけない』といったことが書かれていました」

 大日向さんの印象に残った一つは、大学医学部小児科講師による「赤ん坊のお母さんに対する不平」と題する論稿だ。

 「皆さん、私は赤ん坊であります」から始まり、子どもの視点から、当時の母親が「泣き声の意味も聞き分けず、おむつもろくに替えず、乳を与える時間も定かでない」ことを嘆いていた。

 大正時代半ばといえば、今からほぼ一世紀前。そのころの母親たちは、それまでの世代が経験しなかった「一人での育児」を「勉強」するよう要求されたのだ。大日向さんが紹介した、その古びた雑誌を、私も手に取ってみた。

 読み進むうち、当時の母親たちが、初めての新生児を前に、うろたえる姿が目に浮かんだ。と同時に、おぼつかない手つきで子どもに服を着せていた、かつての自分を思い出した。そして、初めての育児に直面して「赤ちゃんがよく泣くことに驚く」と初々しい様子が裁判資料に記された、事件の母親が重なった。

 昭和の戦争を経て、高度経済成長期、夫は企業戦士に、妻は専業主婦に、という家族のかたちが一般化していった。専業主婦世帯を前提に、社会保障制度などがつくられた。少数派だった専業主婦は多数派となり、母親一人が子育てを担うのが、当たり前になった。

◆家庭内労働は全て女性

 その後、経済が低成長期に入った七〇年代、政府は家庭が子育てと介護を担う「日本型福祉社会」を掲げ、高齢者福祉と乳幼児保育の予算が削減された。家庭内労働の全てを女性に委ねなければ成り立たない財政状況の中、母性神話が流布された。

 「財政難を、女性に子育てと介護を担わせることで乗り越えようとした。政府はそれを政策としてではなく、『子どもはお母さんが育てなければいけない』と、情緒的に訴えたのです」

 大日向さんは、母性神話の中核をなす、もう一つの神話が広がったと指摘する。「根拠のない『三歳までは母親の手で育てないと子どもがゆがむ』という三歳児神話が、働くお母さんたちを恐怖に陥れた」

 その七〇年代前半に相次いだのが、コインロッカーベイビー事件だった。

       ◇ 

 支援の乏しさを棚に上げ、追い詰められた母親だけを牢(ろう)につなぐことが、この時代にふさわしい司法のあり方なのか。育児破綻の「罪」と「罰」を考える。

 <豊田の三つ子事件> 愛知県豊田市で2018年1月、生後11カ月の次男を畳にたたきつけて死なせたとして、三つ子の母親が傷害致死罪に問われ、19年3月、名古屋地裁岡崎支部の裁判員裁判で懲役3年6月(求刑懲役6年)の実刑判決。同年9月の名古屋高裁は控訴を棄却し、被告側が上告せずに刑が確定した。

 

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