「東京裁判史観(自虐史観)を廃して本来の日本を取り戻そう!」
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する。
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( 東京裁判史観とは → http://tinyurl.com/kkdd29p )
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《 いま注目の論点 》
★戦勝国史観見直しの好機逃すな――江崎道朗さん
★教科書検定 見えた左派の根――阿比留瑠比さん
★官製メディア「コロナ制御」の嘘――矢板明夫さん
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『読む年表 日本の歴史』
【 渡部昇一、ワック (2011/6/3)、p232 】
1937(昭和12)年
《 盧溝橋(ろこうきょう)事件 》
「漁夫(ぎょふ)の利(り)」を狙(ねら)って中国共産党が仕掛けたワナ
2・26事件以後、軍の意図に逆らうような政治家は、ごく一部の例外を除いていなくなった。日本は国家社会主義への道を驀進(ばくしん)し、ついにシナ事変が起こる。
だが、それが日本軍による“侵略”であったかといえば、これは違う。敗戦後に連合軍によって行われた東京裁判は、日本を悪と決めつけるために行われたものであったから、「シナ事変はすべて日本軍の陰謀(いんぼう)で起こされた」という主旨の判決が出た。そして、その結論がそのまま戦後の歴史観に反映された。しかし、ことはそう単純ではない。
シナ事変の発端(ほったん)となった盧溝橋(ろこうきょう)事件は、昭和12年7月7日の夜10時、盧溝橋に駐屯していた日本軍の一個中隊に向けて、何者かが発砲したことから始まった。周囲にシナ軍(国民政府軍)が駐屯していたから、かれらの仕業(しわざ)ではないかと、日本軍は軍使を派遣することにした。ところが翌8日の早朝4時、再び日本軍に向けた発砲事件が起こった。さすがに日本軍は戦闘態勢にはいるのだが、事件が拡大することを恐れて、直前で攻撃を中止する。すると今度は、日本軍が攻撃を始めたと思ったのか、中国軍が攻撃を開始した。これが事件勃発(ぼっぱつ)の真相であった。
この経過を見てもわかるとおり、盧溝橋にいた日本軍には武力衝突を起こそうという意図はまったくなかった。これは日本にとってはまったくの偶発(ぐうはつ)事件であったし、また事件勃発後も、これを拡大して全面的なシナとの武力対決に広げようというつもりはなかった。
さらに、盧溝橋事件については、戦後になって重大な事実が明らかになってきた。
それは、この事件が中国共産党の仕組んだワナであったということである。つまり、日本軍と国民政府軍の衝突を意図的に作り出して中国共産党が「漁夫(ぎょふ)の利(り)」を得ようとしたのだ。盧溝橋の国民政府軍の中に中共軍のスパイが入り込んで、日本軍に向けて発砲したということは、公刊された中国側資料の中に記述されているし、また、日本側でも盧溝橋事件直後、中共軍司令部に向けて「成功せり」という緊急電報が打たれたのを傍受(ぼうじゅ)したという証言もある。
重要なことは、東京裁判も盧溝橋事件の論告とそれにもとづく審査を途中でやめてしまったのである。この事件の発端をよく調べると、責任が日本軍になかったことが明らかになるからだ。やはり、日本軍は盧溝橋事件に「巻き込まれた」のである。
これに対し、「そもそも、そんなところに日本軍がいたこと自体が悪いのだ」という意見が日本で見られる。しかし、日本軍部隊は条約によって駐留(ちゅうりゅう)を認められていたのだ。現在でも、日本や韓国には条約によってアメリカ軍が駐留している。このアメリカ軍に対し、暗夜に発砲すれば、事件が起こって当然であろう。盧溝橋事件はそれと同じであり、また事件から4日目の7月11日に事態収拾(しゅうしゅう)のため現地協定を成立させたのは、ほめられてよいことであった。
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日本が東京裁判史観の呪縛から解き放たれるために
★「東京裁判史観」
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★「『進歩的文化人』という名の国賊12人」
★「真珠湾攻撃の真実」
★「南京大虐殺というプロパガンダ」
★「歴史教科書問題から生まれた近隣諸国条項」
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1937(昭和12)年
《 盧溝橋(ろこうきょう)事件 》
「漁夫(ぎょふ)の利(り)」を狙(ねら)って中国共産党が仕掛けたワナ
2・26事件以後、軍の意図に逆らうような政治家は、ごく一部の例外を除いていなくなった。日本は国家社会主義への道を驀進(ばくしん)し、ついにシナ事変が起こる。
だが、それが日本軍による“侵略”であったかといえば、これは違う。敗戦後に連合軍によって行われた東京裁判は、日本を悪と決めつけるために行われたものであったから、「シナ事変はすべて日本軍の陰謀(いんぼう)で起こされた」という主旨の判決が出た。そして、その結論がそのまま戦後の歴史観に反映された。しかし、ことはそう単純ではない。
シナ事変の発端(ほったん)となった盧溝橋(ろこうきょう)事件は、昭和12年7月7日の夜10時、盧溝橋に駐屯していた日本軍の一個中隊に向けて、何者かが発砲したことから始まった。周囲にシナ軍(国民政府軍)が駐屯していたから、かれらの仕業(しわざ)ではないかと、日本軍は軍使を派遣することにした。ところが翌8日の早朝4時、再び日本軍に向けた発砲事件が起こった。さすがに日本軍は戦闘態勢にはいるのだが、事件が拡大することを恐れて、直前で攻撃を中止する。すると今度は、日本軍が攻撃を始めたと思ったのか、中国軍が攻撃を開始した。これが事件勃発(ぼっぱつ)の真相であった。
この経過を見てもわかるとおり、盧溝橋にいた日本軍には武力衝突を起こそうという意図はまったくなかった。これは日本にとってはまったくの偶発(ぐうはつ)事件であったし、また事件勃発後も、これを拡大して全面的なシナとの武力対決に広げようというつもりはなかった。
さらに、盧溝橋事件については、戦後になって重大な事実が明らかになってきた。
それは、この事件が中国共産党の仕組んだワナであったということである。つまり、日本軍と国民政府軍の衝突を意図的に作り出して中国共産党が「漁夫(ぎょふ)の利(り)」を得ようとしたのだ。盧溝橋の国民政府軍の中に中共軍のスパイが入り込んで、日本軍に向けて発砲したということは、公刊された中国側資料の中に記述されているし、また、日本側でも盧溝橋事件直後、中共軍司令部に向けて「成功せり」という緊急電報が打たれたのを傍受(ぼうじゅ)したという証言もある。
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これに対し、「そもそも、そんなところに日本軍がいたこと自体が悪いのだ」という意見が日本で見られる。しかし、日本軍部隊は条約によって駐留(ちゅうりゅう)を認められていたのだ。現在でも、日本や韓国には条約によってアメリカ軍が駐留している。このアメリカ軍に対し、暗夜に発砲すれば、事件が起こって当然であろう。盧溝橋事件はそれと同じであり、また事件から4日目の7月11日に事態収拾(しゅうしゅう)のため現地協定を成立させたのは、ほめられてよいことであった。
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