六話 大脱出
「……本当に見えなくなるものなんだね」
僕は、神殿を抜け出ると、森の中で一人ごちる。
つい先ほどまで、僕のすぐ後ろには石造りの荘厳な――とはいえ、何処か禍々しい――建造物があったはずなのだけど。
今では、鬱蒼と木々が生い茂っているだけにしか感じられない。
これは、一種の結界によるもので、意識していなければ認識を阻害する働きがあるのだ。
何せ、邪教だ。
弾圧を受けていて当然で、それから身を隠すための、いわば邪神の加護。
「出来れば、二度と戻ってきたくはないけれど」
背嚢の重さを確認しながら呟く。
幸い、神殿の見取り図は、シナリオのために僕が用意しておいた地図通りで、抜け出すのに大した時間はかからなかった。
それどころか、倉庫から外套やコンパス、地図といった旅の必需品を回収する余裕があったほど。
だというのに誰にも出くわさなかった辺り、教団の受けたダメージの深刻さが窺い知れる。
「すぐに追ってこられる心配はなさそうかな?」
『ブレード・ファンタジー』では魔法を使う度にサイコロで判定を行うのだけど、その際に消費魔力を倍払うことで出目にプラス修正をかけられるのだ。
僕がシアにかけた呪文はその恩恵を受けていて、膨大な魔力を注ぎ込んだためかなり強力なものとなっている。
常人であれば、三日か四日は目を覚まさないだろう。
流石に、叩かれたりすれば起きてしまうと思うけど……。
彼女が寝ているのはイナンナの私室だ。
さりげなく聞き出しておいたところ、許可なしに入室を許されるのは、傍仕えであるシア一人だけらしい。
えらく自慢げに語っていた。
まあ、そのおかげで発見が遅れるのは間違いなく、それまでに距離を稼いでしまえば、撒くことは難しくないはずだった。
ちなみに、出てくるときにちらりと見えたのだけど、馬小屋には馬が一匹たりともいなかった。
多分、バイモン教団が追撃を警戒してのこと。
襲撃を敢行する際に、前もって始末したのだろう。
おかげで、機動力で差を詰められることはまずないと思えた。
どうせ、僕は馬に乗れなんてしないのだ。
条件が五分になる分、むしろアドバンテージと言える。
「行き先を伝えてしまったのは失敗だったけど……」
やっぱり、後悔が残るのはその点か。
とはいえ、僕が向かうのは王都で、広大な面積を有しているのは間違いない。
すぐに見つかりはしないだろうし、上手く真一たちと合流できれば然したる問題はないはずだ。
僕は、夜空を見上げる。
幾つかの星が瞬いているものの、月の姿は見受けられなかった。
どうやら、今宵は新月のようだ。
……あまり嬉しい状況ではないけれど。
何はともあれ、今は進み続けなければ。
僕は改めて指針を決めると、指先に明かりを灯す呪文を唱え、少しだけ早足で歩き始めた。
◆
「……ふぅ」
それから十分ほど歩いてからのこと。
ようやく僕は開けた場所に出られて、ほっとした息をつく。
コンパスを頼りに一つの方角に向かって進み続けていたため、迷うはずはないのだけど……。
それでも、不安になるのが人の常というものだ。
一心不乱に歩き続けていたこともあって、喉がカラカラだった。
それに、眠り続けていたからか、身体が空腹を訴えてきている。
少し休憩しようか。
そんな考えと共に、僕が腰に提げた水袋に手をやった瞬間――
背筋に悪寒が走り、思わず硬直する。
……それは、殺気だった。
いや、僕に向けられてのものじゃない。
多分、別の――それも、複数いる――誰かへのもの。
続けて、微かにだけど、剣戟の音が聞こえてくる。
気になる状況だった。
アスタロト教団の神殿が存在するのは、『ゴエティア』と呼ばれる人里離れた山脈の麓。
どうしてこんな辺鄙なところに戦いの気配が……?
もしかすると、迷い込んだ馬車が魔物にでも襲われているのかもしれない。
……確認する価値はある。
僕は決断すると、一端明かりを消してから、足取りを気配のする方へと向けた。
◆
こうして、僕が辿り着いた先。
待ち構えていたのは、狂乱と叫喚が綯交ぜとなった地獄絵図だった。
一台の馬車を、数えきれないほどの緑の体色の巨人のような魔物――多分、オーガだ――が取り囲んでいて、耳障りな笑い声と共に勝鬨の声を上げていた。
その周囲には、血みどろになった冒険者たちの姿。
老若男女。
種族もバラバラで、人間にエルフ、ドワーフなど、どうやら混成パーティ
共通しているのは、粗末な初心者用装備である点と――
……誰もが、もうピクリとも動かない点。
事切れているのは明白だった。
オーガといえばレベル6の魔物で、上級冒険者の登竜門ともいえるモンスター。
知能はそれなりだけど、腕力だけはドラゴンといった最上位クラスの魔物とも引けを取らないほど。
つまり、まだ新人レベルで出会ってしまえば勝ち目はないわけで。
その上、数で劣る状況であれば劣勢が覆るはずがなく、抵抗虚しく彼らは命を落としたのだろう。
関わるべきではない。
見ず知らずの相手の仇討ちをする義理なんてないのだし。
僕の理性はそう告げていた。
だけど
「ひっ、た、助けてくれ……っ!」
縋るような、青年男性の声。
僕の存在に気づいているわけがないので、あてどもない、単なる祈りのようなものに違いない。
でも、それで僕には、馬車の中にまだ生存者がいるのだとわかってしまった。
「…………」
無言のまま、腰に提げた鞘から剣を引き抜く。
神殿の宝物庫から手に入れたもので、高品質かつ、魔剣と言える代物だ。
続けて、魔法による灯火を再点火。
今度は指先ではなく、剣の先端に。
妖しげな刀身の煌めきと共に僕の存在は丸わかりになり、魔物たちの視線が一気に集中する。
そして――。
「悪いけど、見過ごせないんだ」
僕の、イナンナとしての初陣が幕を開けた。