「東京裁判史観(自虐史観)を廃して本来の日本を取り戻そう!」
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する。
( 心が臨界質量を超えるとは → http://tinyurl.com/5kr6f )
( 東京裁判史観とは → https://tinyurl.com/ugz9qah )
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《 いま注目の論点 》
★安保に直結する米大統領選――阿比留瑠比さん
★政府の対応には言葉失う――西尾幹二教授
★日本を「感染大国」に仕立てる中国――石平さん
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●「騙」は中国の特色文化
『中国の正体』
【 黄文雄、徳間書店 (2020/1/31)、p112 】
台湾と海外メディアによる調査では、中国のメディアのニュースを信じるのは1%くらいで、残りの99%は「都是騙人的」、つまりすべてが人騙しだと思っていることが明らかになった。驚くのは、まだ100人に1人は中国のニュースを信じていることである。台湾では、そういうフェイクニュースを「烏龍(ウーロン)記事報道」と称している。
実際、全部が想像か捏造の記事も少なくないが、それ以外でも、真実とウソを巧妙に混ぜて、あたかも本当のようにニュースをデッチ上げる悪質な記者もいる。ウソ記事は年々進歩・進化しているのだ。
だから、民衆はメディアを信じるよりも、むしろ流言飛語を信じるので、ビヘイビアも表と裏、建前と本音をうまく使い分けられる。本当のことを半信半疑しているので、そこから疑心暗鬼の性格が生まれたのだろう。
日本人と中国人の教育は、幼少のころからまったく違う。「詐欺師だけが本物」の中国社会と神代から「純と誠」を生きる日本社会とは、教育面でも対照的である。中国では、親が子に「外に出たら、他人に騙されるな」としつこく、口うるさく注意する。
一方、日本の親は違う。ウソをついた子には、「ウソつきは泥棒の始まり」と戒めるのだ。童話も「花咲かじいさん」をはじめ、正直や正義、誠を教えるものばかりである。もちろん童謡も同じだ。子供たちは声を張り上げて斉唱する。これが「純と誠」の日本社会である。
「詐」の中国社会はどうだろう。最初に断っておくが、中国が詐の社会になったのは決して近代からではない。1880年代に出版された『支那人の性格』はアメリカ人伝道師、アーサー・スミスの著だが、その本のなかには「面従腹背」「疑心暗鬼」などが取り上げられている。
私は中国の文化人に、昔といまはいったいどのくらい、どこまで変わったのかとよく確認もしているが、残念ながら今日に至っても、ほとんど変わっていない。いわゆる「山は移し易し、性は変わり難し」ということだろう。それは、ほぼ数千年も前から、そうだった。ほぼ孔子と同時代に「詐道」ばかり唱えたのは、決して孫子と呉子の兵法だけではない。
世はあまりにも下克上で、乱れに乱れるが、孔子は『春秋』を著し、その詐欺師だらけの社会に世直しの理論として「克己復礼は仁なり」と唱えた。しかし、老子は「大道廃れて仁義あり、智慧出でて大偽あり」と乱世の根から生まれたのが「仁義」だと突き止め、孔子の世直しを否定し、「詐欺師だけが本物」という社会の仕組みを説く。しかも「絶仁棄義」、つまり「仁義を捨てろ!」と説き、捨てればペテンがなくなり世は泰平になるとアンチテーゼみたいな言説をとなえたのだ。
「詐欺師だけが本物」の社会だから、自然的に詐欺の学究的分析がホットな学問になる。なぜ「騙」を文化研究の対象として取り上げているのか。たとえば、厦門大学の林其泉教授(歴史学)の『騙文化』(台湾商務印書館)も、その代表的な好著の一つである。
林教授は、騙の範囲、歴史、内容、技術、意義、価値について、社会学、あるいは人間関係学(コミュニケーション)の分野から分析し、社会現象としての「騙」だけではなく、いかにして周りからの騙を防ぐか、そして騙の未来についてまで取り上げている。
中国の文化として、孔子学院が宣伝する孔孟の儒教文化、あるいは老荘思想の文化、一家言を成している諸子百家以外にも、古来の伝統文化の一つとして、虚々実々を知るための「騙学」があることを知り、これを学ぶべきではないだろうか。
日本人は「以心伝心」ができるだけでなく、「目は口ほどにものを言う」というように、目の表現力を重視する。しかし、それは中国の社会では通用しない。「腹を割って話せばわかる」というのも、日本人特有の風潮である。そんな考えは中国では通用しない。「いいカモ」にされるだけだ。だから、日本人は「騙されても、また騙される」のだ。中国人にとって、日本人が腹を割って話してくれるのは大歓迎である。相手を探らなくても済むからだ。
中国人の「騙の文化」から生まれた「術」や「方・法」は、決して古代からの実用的な兵書だけではない。「騙術」を教え、あるいはいかにして騙子(ペテン師)から身を守るのかを教える「騙」の古典も少なくない。
比較的読まれているものに、明代の張應兪が著した『鼎刻江湖歴覽杜騙新書』、清末小説家である呉趼人の『瞎騙奇聞』、雷君曜の『絵図清代騙術奇談』、許慕義の『古今騙術大観』、冬稔編著の『騙術大観―百種騙術掲秘』、涂争鳴の『欺騙論』、丁暁禾の『謊言研究』などがある。
「詐欺師だけが本物」という中国では、改革開放後に初めて、「資本主義の毒」によって中国が汚染されたわけではない。後述する「七害」「八毒」は、ただ伝統社会の復活が表面化したにすぎないのである。
中国人の権謀術数の生き様を小説として集大成し、巷談で民間の共鳴を得たのは、ほかならぬ通俗大河小説『三国志演義』である。このような生き様でしか生き残れない中国社会は、数千年来、帝国の時代であろうと、社会主義社会であろうと、変わりない。改革開放後の社会でも、「騙の文化」は国風や国魂として、中華文化・文明のコアとなり、中華文化の伝統を象徴するものとなる。
いくら国体や政体が変わっても、一貫して絶対不動なものというと、「騙の文化」だろう。以下の具体例をあげたい。
①政治の分野については、古来「有徳者」、つまり道徳を有する者が天命を受け、ニセの天子ではない「真命天子」となり、天下万民に君臨・統率する「徳治=人治」の理論は現実には存在しない。じつは、「陽儒陰法」や「外儒内法」と喝破されたので、「真命天子説」はあくまで建前である。始皇帝以後200人以上の天子(皇帝)のなかで、「有徳者」とされる者は一人もいなかった。すべてが骨肉の争いから、兄弟殺しか親子殺しの勝者が名君となっている。「人民共和国」の時代になっても、それは変わらない。党意・勝ち組こそ天意となり、民意はいかなる時代にも存在しないのだ。
②経済の分野については、昔もいまも経済数字に真実はなく、ウソだらけである。社会主義社会建設に夢中になった「大躍進」の時代から今日に至るまでウソにまみれてきた。だから、政治でさえ、そんな経済数字を微塵たりとも信用しない。当然、世界からも疑いの目で見られることになる。ニセの数字は「カネを騙し取るため」のひと言につきるだろう。
③社会の分野から見た場合、「すべてがニセモノで詐欺師だけが本物」という諧謔が巷の流行語になったのは、ニセモノと有毒商品が充満する社会になったからだけではない。「ダンナ、うちの店で売っているのは、ほとんどが本物ですよ。ほかの店とはまったく違う」と銘打つ商店街がある。そんな商店が多いということは、ニセモノを売る店がそこらじゅうに存在している社会だということを白状しているようなものだ。ニセ警官、ニセの「ニセモノ追放運動」、ニセの英雄まで出現する社会だから、政府への不信どころではない。人間不信の社会になっている。
④文化について、数千年来の歩みのなかで生まれた歴史産物としての「騙」の文化は、すでに古代の諸子百家の時代に文化の基層として根を下ろしていた。「易姓革命」という「強盗の論理」を「徳の盛衰」にすり替え、「騙文化」が中華帝国におけるイカサマの正当化論として中華世界に認知されるようになった。
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◆お勧め情報【 拡散希望 】
日本が東京裁判史観の呪縛から解き放たれるために
★「東京裁判史観」
★「WGIPの洗脳にかかったままの日本」
★「今も生きているプレス・コード」
★「GHQ焚書図書」
★「公職追放が『敗戦利得者』を生み出した」
★「『進歩的文化人』という名の国賊12人」
★「真珠湾攻撃の真実」
★「南京大虐殺というプロパガンダ」
★「歴史教科書問題から生まれた近隣諸国条項」
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《 いま注目の論点 》
★安保に直結する米大統領選――阿比留瑠比さん
★政府の対応には言葉失う――西尾幹二教授
★日本を「感染大国」に仕立てる中国――石平さん
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●「騙」は中国の特色文化
『中国の正体』
【 黄文雄、徳間書店 (2020/1/31)、p112 】
台湾と海外メディアによる調査では、中国のメディアのニュースを信じるのは1%くらいで、残りの99%は「都是騙人的」、つまりすべてが人騙しだと思っていることが明らかになった。驚くのは、まだ100人に1人は中国のニュースを信じていることである。台湾では、そういうフェイクニュースを「烏龍(ウーロン)記事報道」と称している。
実際、全部が想像か捏造の記事も少なくないが、それ以外でも、真実とウソを巧妙に混ぜて、あたかも本当のようにニュースをデッチ上げる悪質な記者もいる。ウソ記事は年々進歩・進化しているのだ。
だから、民衆はメディアを信じるよりも、むしろ流言飛語を信じるので、ビヘイビアも表と裏、建前と本音をうまく使い分けられる。本当のことを半信半疑しているので、そこから疑心暗鬼の性格が生まれたのだろう。
日本人と中国人の教育は、幼少のころからまったく違う。「詐欺師だけが本物」の中国社会と神代から「純と誠」を生きる日本社会とは、教育面でも対照的である。中国では、親が子に「外に出たら、他人に騙されるな」としつこく、口うるさく注意する。
一方、日本の親は違う。ウソをついた子には、「ウソつきは泥棒の始まり」と戒めるのだ。童話も「花咲かじいさん」をはじめ、正直や正義、誠を教えるものばかりである。もちろん童謡も同じだ。子供たちは声を張り上げて斉唱する。これが「純と誠」の日本社会である。
「詐」の中国社会はどうだろう。最初に断っておくが、中国が詐の社会になったのは決して近代からではない。1880年代に出版された『支那人の性格』はアメリカ人伝道師、アーサー・スミスの著だが、その本のなかには「面従腹背」「疑心暗鬼」などが取り上げられている。
私は中国の文化人に、昔といまはいったいどのくらい、どこまで変わったのかとよく確認もしているが、残念ながら今日に至っても、ほとんど変わっていない。いわゆる「山は移し易し、性は変わり難し」ということだろう。それは、ほぼ数千年も前から、そうだった。ほぼ孔子と同時代に「詐道」ばかり唱えたのは、決して孫子と呉子の兵法だけではない。
世はあまりにも下克上で、乱れに乱れるが、孔子は『春秋』を著し、その詐欺師だらけの社会に世直しの理論として「克己復礼は仁なり」と唱えた。しかし、老子は「大道廃れて仁義あり、智慧出でて大偽あり」と乱世の根から生まれたのが「仁義」だと突き止め、孔子の世直しを否定し、「詐欺師だけが本物」という社会の仕組みを説く。しかも「絶仁棄義」、つまり「仁義を捨てろ!」と説き、捨てればペテンがなくなり世は泰平になるとアンチテーゼみたいな言説をとなえたのだ。
「詐欺師だけが本物」の社会だから、自然的に詐欺の学究的分析がホットな学問になる。なぜ「騙」を文化研究の対象として取り上げているのか。たとえば、厦門大学の林其泉教授(歴史学)の『騙文化』(台湾商務印書館)も、その代表的な好著の一つである。
林教授は、騙の範囲、歴史、内容、技術、意義、価値について、社会学、あるいは人間関係学(コミュニケーション)の分野から分析し、社会現象としての「騙」だけではなく、いかにして周りからの騙を防ぐか、そして騙の未来についてまで取り上げている。
中国の文化として、孔子学院が宣伝する孔孟の儒教文化、あるいは老荘思想の文化、一家言を成している諸子百家以外にも、古来の伝統文化の一つとして、虚々実々を知るための「騙学」があることを知り、これを学ぶべきではないだろうか。
日本人は「以心伝心」ができるだけでなく、「目は口ほどにものを言う」というように、目の表現力を重視する。しかし、それは中国の社会では通用しない。「腹を割って話せばわかる」というのも、日本人特有の風潮である。そんな考えは中国では通用しない。「いいカモ」にされるだけだ。だから、日本人は「騙されても、また騙される」のだ。中国人にとって、日本人が腹を割って話してくれるのは大歓迎である。相手を探らなくても済むからだ。
中国人の「騙の文化」から生まれた「術」や「方・法」は、決して古代からの実用的な兵書だけではない。「騙術」を教え、あるいはいかにして騙子(ペテン師)から身を守るのかを教える「騙」の古典も少なくない。
比較的読まれているものに、明代の張應兪が著した『鼎刻江湖歴覽杜騙新書』、清末小説家である呉趼人の『瞎騙奇聞』、雷君曜の『絵図清代騙術奇談』、許慕義の『古今騙術大観』、冬稔編著の『騙術大観―百種騙術掲秘』、涂争鳴の『欺騙論』、丁暁禾の『謊言研究』などがある。
「詐欺師だけが本物」という中国では、改革開放後に初めて、「資本主義の毒」によって中国が汚染されたわけではない。後述する「七害」「八毒」は、ただ伝統社会の復活が表面化したにすぎないのである。
中国人の権謀術数の生き様を小説として集大成し、巷談で民間の共鳴を得たのは、ほかならぬ通俗大河小説『三国志演義』である。このような生き様でしか生き残れない中国社会は、数千年来、帝国の時代であろうと、社会主義社会であろうと、変わりない。改革開放後の社会でも、「騙の文化」は国風や国魂として、中華文化・文明のコアとなり、中華文化の伝統を象徴するものとなる。
いくら国体や政体が変わっても、一貫して絶対不動なものというと、「騙の文化」だろう。以下の具体例をあげたい。
①政治の分野については、古来「有徳者」、つまり道徳を有する者が天命を受け、ニセの天子ではない「真命天子」となり、天下万民に君臨・統率する「徳治=人治」の理論は現実には存在しない。じつは、「陽儒陰法」や「外儒内法」と喝破されたので、「真命天子説」はあくまで建前である。始皇帝以後200人以上の天子(皇帝)のなかで、「有徳者」とされる者は一人もいなかった。すべてが骨肉の争いから、兄弟殺しか親子殺しの勝者が名君となっている。「人民共和国」の時代になっても、それは変わらない。党意・勝ち組こそ天意となり、民意はいかなる時代にも存在しないのだ。
②経済の分野については、昔もいまも経済数字に真実はなく、ウソだらけである。社会主義社会建設に夢中になった「大躍進」の時代から今日に至るまでウソにまみれてきた。だから、政治でさえ、そんな経済数字を微塵たりとも信用しない。当然、世界からも疑いの目で見られることになる。ニセの数字は「カネを騙し取るため」のひと言につきるだろう。
③社会の分野から見た場合、「すべてがニセモノで詐欺師だけが本物」という諧謔が巷の流行語になったのは、ニセモノと有毒商品が充満する社会になったからだけではない。「ダンナ、うちの店で売っているのは、ほとんどが本物ですよ。ほかの店とはまったく違う」と銘打つ商店街がある。そんな商店が多いということは、ニセモノを売る店がそこらじゅうに存在している社会だということを白状しているようなものだ。ニセ警官、ニセの「ニセモノ追放運動」、ニセの英雄まで出現する社会だから、政府への不信どころではない。人間不信の社会になっている。
④文化について、数千年来の歩みのなかで生まれた歴史産物としての「騙」の文化は、すでに古代の諸子百家の時代に文化の基層として根を下ろしていた。「易姓革命」という「強盗の論理」を「徳の盛衰」にすり替え、「騙文化」が中華帝国におけるイカサマの正当化論として中華世界に認知されるようになった。
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◆お勧め情報【 拡散希望 】
日本が東京裁判史観の呪縛から解き放たれるために
★「東京裁判史観」
★「WGIPの洗脳にかかったままの日本」
★「今も生きているプレス・コード」
★「GHQ焚書図書」
★「公職追放が『敗戦利得者』を生み出した」
★「『進歩的文化人』という名の国賊12人」
★「真珠湾攻撃の真実」
★「南京大虐殺というプロパガンダ」
★「歴史教科書問題から生まれた近隣諸国条項」
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