第3章-高専はモデルにあらず!(1)数学力・英語力の欠如、そして学力問題-

1.ある小論から 

 かつて、学力低下と「ゆとり」教育批判の文脈で、西村和雄ほか編『分数ができない大学生』が話題となった。この時代の、これらの問題提起は、その後の教育政策にも影響を及ぼした。

 ところで、同じく西村氏が編者となった『ゆとりを奪った「ゆとり教育」』という本に、実は、高専とはどういうものであるか、を示した小論がおさめられれている。それが、ある高専教員による小論「モデルは高専にあり」である(以下、『モデル』)。この小論で述べられている、著者本人があげる高専についての「事実」は、第一に、高専とはどの程度のものかを示している。第二に、これらの著者本人が美点と思って挙げている事実は、よく事情を知った者や教育についての一定の知見を持った者なら、高専の美点ではなくて「欠点」であるに過ぎない、あるいは、なぜそのような高専についての事実が美点であるかの論理的説明が欠如している。そもそも、せっかく西村氏らが本質をとらえた問題提起をしているのに、ここで述べられている一編の高専教育論に限っては、学力低下という教育問題を問題として論じていないのではないだろうか。これまで高専教育に向けられてきた批判を一切理解していないのではないか。創立以来ジワジワ学力が低下している当の高専が、学力低下にかこつけて、高専制度の欠陥に蓋をして高専こそモデルあるというのもいかがなものか。この小論を題材に、教養問題のほかに、高専およびその学生の学力問題を扱っていく。

 ちなみに、この『モデル』が書かれた年次は2001年と新しいものではないが、よく、高専教育の内容をよく表しており、また、書籍におさめられているという便利さもあって、あえて、題材にした次第である。現在の高専教育の実情は、わたくし筆者が批判した価値的部分を除き、この本の内容とそんなに変わらないと考えている。

2.高専の一般科目は、高校理数系の約6割の時間数。数学でさえ危ない!

 『モデル』91頁では、一般科目が、高校理数系102単位(当時)に対して、高専66単位であることを素直に認めている。普通の人なら、6割5分という事実に驚愕するであろう。ところが著者はオカマナイなしに、高専では、数学だけは「同じく18単位」で、高校の内容を「二年生までにすべて学習し」、三年次には大学1年生が学ぶ内容を学ぶことを強調している。さらに、95頁では、物理などについて、大学受験の勉強を差し引いても、「少ない」ことを認めている。『モデル』では述べられていないが、化学については、物理以下である。

 以上の内容だけでも、高専とはどういうものか、どうも高専教員の問題意識は低いのではないか、ということはわかるのであるが、さらに、高専の実態に即して述べていこう。

 ゆとり教育で揺らいだ時期があったとはいえ、国立大理工系入試や一部の名門私学理工系入試では、多くの場合、理科を2科目選択させられる。さらに多くは物理か化学は必須、物理・化学両方選択もありうる。大学工学部で物理と化学の理解を欠如すれば、学ぶ資格がないというわけで、入試によってその学力を担保しているわけである。そして、入試問題も、センター試験の基礎から二次試験の応用まで決して易しい水準ではない。名門私学の理工系でも理系科目については同様に難しい。ところが、高専では、そもそも、単位数が少なく、高校生が入試のために時間をかける問題演習の時間が乏しくなっている。確かに高専は物理と化学が必修だが、その能力担保は、授業さえ聞いていれば何とかなる学内試験のみであり、また、実際の習熟度も高校理数系よりも低いとみてよい。

 さて、数学力である。まず、高校生で国立大学工学部や名門私立大学工学部や中堅私立理工系大学に入学しようとする者は、数学Ⅰから数学Ⅲまで必須であり、その入学試験内容は、上記で述べた物理や化学同様、高い学力水準を要求している。したがって、しかるべき水準以上の高校生は、教科書だけでは足らず分厚い受験参考書で勉強しているのである。ところが、ここからが、物理や化学と若干違うところであるが、高専の場合、なるほど、3年生までに扱う範囲は高校よりも多いが、難しめの問題を解いてみる等の時間が少なく数学的思考(試行)の深度が浅い。また演習が少なく習熟度も低い。つまり、高専の数学はとにかく工学科目に間に合わせるため、数学概念を高速でなぞりつつ、やさしい練習問題を解いているというのが実情なのである。早期に専門科目の実習やレポートが開始されるため、他の基礎科目特に英語同様に、授業外での数学の課題学習の時間が圧迫されてる、あるいは、高専の宣伝通り生徒に「余裕」を持たせすぎなのも、理由ではある。物理や化学の入試問題を解くことは、数学よりも技術的側面が強いが、しかし、数学でこのような勉強スタイルでよいのであろうか。筆者などが言うに及ばず、理工学の問題は、最後は数学の問題である。さらに、数学そのもので養われた抽象的思考は、理工学分野の応用問題を考える際の大きな武器になる。ところが、そういう「思想」でもあるのであろうか、あまりに、数学で養われる潜在能力の開発や応用的展開に顧慮を払えていないのである。そして、ついには、企業側の評価でも、高専出身者(転換試験などを経て、あるいは編入学を経て大学院修了したものでさえ)が研究開発部門に抜擢された場合でも、彼らは「(微積分等の)数学力が劣る」部分があるなどと評価されているケースがあるのである。大学工学部並みの専門的学力を標榜する割には、専門科目と基本となる数学の学力が理数系または理工系志望の高校生と比べて、応用力において劣るのではないかという問題もまた、高専に内在する問題なのである(もっとも、高専とはそういう学校であるというのであれば、「大学工学部」などの標語は外してもらわねばなるまい。あるいは、大学工学部にはいりたければ、他の一般受験生同様の学力を担保してもらわねばなるまい)。なるほど、分数や小数が出来ない大学生はいるかもしれないがが、逆に、高専出身者では大学入試センター試験や二次試験の数学の問題を解けないものがほとんどである(そういうトレーニングを受けていないから、やむをない、というのは理由にならない。何故なら、彼らは、数学が出来ると自称しているからである。”出来る”というなら並み以上にやってみせろ、ということだ)。

 数学の基礎学力面でも問題がある。西村氏らの前著『分数ができない大学生』では、大学生に行われた簡単な算数や数学の学力調査が公表されているが、ここでは、大学生のおそるべき学力低下が示されている。しかし、よく考えてみたい。国立大学や名門私学の理系出身者については、分数や小数の計算ができるようにはならなかったということは絶対にあり得ず、もしそういう事実が現象として見られたならば、単に分数計算法や小数計算法を忘れてしまっているという程度のこであろう。この程度のことは、中学卒業後には基本的に入学試験を課せられることとない高専生にも当てはまると見てよい、否、その可能性大である。高専生の学力低下あるいは気質の劣化問題については、高専内部の紀要やまれに教育雑誌などに掲載されることがあるから、各自で参照されればよいが、実際、かねてより高専3年生の数学力の低下は問題とされてきたし(ところどころ言及する、中だるみ問題)、近時に至っては入学者の数学基礎学力、つまり中学生までに習熟すべき基礎計算力の著しい低下(同じく、学力の二山化)を示す教育実践例さえ見られる。なにしろ、大学受験生が紙と鉛筆で数学を勉強しているとき、高専生は計算機を与えられていることも影響しているであろう。この基礎学力問題は高専制度そのものとの関係でも問題を指摘できる。第一。筆者は「工学科目に間に合わせるために高速で・・・」と言った。ところが、間に合わせるために高速で習ったはずの数学の理解が表面的あるいはそもそも実についておらず、かつ、高専自慢の楔形カリキュラムで専門科目の方が先行してしまうことも重なって、大部分の生徒にとって数学と専門科目が連動しない結果をもたらすというものである。第二。たとえ、そうであっても、企業側は高専卒を中下級技術者・技能労働者としてしか期待していないから、就職自体は可能。就職自体は下級職としてなら可能だから、一部の生徒を除いて生徒側がますます数学および数学と工学科目との連動に無頓着になる。敢えて言うなら、勉強しなくなるわけである。高専教員は、外に向かっては、基礎科学教育という確たる基盤の上に・・・などと宣伝しているが、内では、こういう負の連鎖に直面していることが非常に多いのではあるまいか。これが負の連鎖でなければ、高専とはそういう学校であると言わざるを得ない。

 高専の数学教員のレベルは現在ではちゃんと高等教育レベルを保っていることは間違いなく、形式的な面でも、現在では博士号を持っている者が多い。筆者の如きに教育課程を批判されるのは、それこそ噴飯ものなのかもしれない。しかし、半分、同情もしていることを述べさせて頂きたい。筆者が知る、複数の数学教員(これらの人も大学教育経験者や修士・博士の学位取得者であった)に、まさに、「(高専1・2年次でやる内容を指して)これは高校の範囲ではない」という言動があった一方、「表面を・・・」「ひねった面白い問題もやらせてみたいのだが・・・」「ここで、一歩踏み込みたいのに、省かれている」「高校生で理学部数学科や物理学科、工学部応用物理志望者ならこの問題には食いついてくるのに・・・高専生は・・・」といった言動もあったのである。筆者の知り合いには、数学を本格的に学ぶために高専を退学して、理学部数学科を受験したものがあった。高専にも稀に天才が入学してくることがあるが、彼は、「高専の数学」に文句は言っていなかった。天才は天才だから、勝手に「大学への数学」等をどんどん解いて喜んでいたのである。天才にとっては教科書や教授内容・方法はどうでもいいのである。こういう天才は、そもそも高校や高専の数学教科書を”やれやれ”といってバカにするわけだから、サンプルにはなりえない。もっとも、高専教員が執筆する「高専の数学」教科書には思わぬ効用もある。例えば、社会人が金融工学を学ぶために数学概念を復習しようとする場合に、高校から大学工学部までの数学を取捨選択して絞ってあり大学工学部1年生程度には及ぶ「高専の数学」は役に立つ(佐藤優『危機を覆す情報分析』改め『勉強法-教養講座「情報分析とは何か」』212頁)。しかし、そうはいっても、幅広く厚く学ぶ高校から大学工学部に入った連中との数学の学力比較の問題はなお残ると言わざるを得ない。

3.基礎基本科目を軽視しているのは、高専である

 『モデル』95頁では、高専の過密?(この点については、後述)カリキュラムを解消するために、高専でも「カリキュラム削減」が行われたという。そこでは、「基礎・基本科目(小学校ならば国語・算数)には手を付けず後で、効率よく学べる科目(社会など)を削減すべきである」という。では、高専で、どのような科目を削ったかについては、記述がない。数学だけは、最低限の水準を保とうとするはずであるが、それでも、大問題あり、ということは上述のとおりである。そして、削られるのは、真っ先には社会というのであるが、次に、”すでに”徹底的に削られているものがある。それが、「小学校ならば国語」の「国語」である。

 なるほど、高専の教養軽視問題はすでに追及し、これが、ここに当事者によって自任されたのであるが、筆者が本当に言いたいのは、次の視点である。専門科目や実習科目などの応用的な科目をなるべく増やす一方、中途半端な数学力や理科科目の理解、そして「小学校なら国語」の国語を無駄なものとして削るなどして「基礎・基本科目」の習熟に致命的な欠陥を生じてきた高専が、何の資格があって、このようなこを言うのであろうーその欺瞞性である。さらに言うなら、「社会」を削って、後で効率よく学べるというが、学校教育内でそれが保障せずにおいて、「後で効率よく学べる」などというのも欺瞞である。往々にして”後で学ぶ”ことなどはない。この欺瞞性の指摘は、もちろん、著者個人に向けたものではなく、高専制度一般についての論評である。

 ちなみに、数学の教科書は全国の高専でほぼ高専用の共通教科書(検定教科書は高専には設定されていない)を使う場合が多いが、物理や化学は、担当教官の方針で、高専用の教科書や検定教科書を使用せず、大学の教科書又は専門書を使用するケースがある。しかし、年齢的には高校生向けで、かつ、授業時間がすくないため、ほぼモノにならない。高専生は、分厚い大学向けの教科書や研究的教科書を手元において、勝手に「スゴイ」と思っているが、学力水準は全く追いついていないのである。むろん、青年が難しい研究的教科書や専門書を手元に置いて背伸びをする効用は筆者も認めるし(高校や予備校でも、大学レベルのお話や参考書を紹介して、知的な関心を呼び起こすことが結構ある)、一般科目理系の教員の知的な反抗と捉えられないこともないから、規制すべきことではない。しかし、高専が全体として、そのような教育になっているとしたらやり過ぎだろう。高専教育には後期中等教育の内容が多く含まれているのであって、この内容を保証することも考慮しなければならないからである。また、そういうケースは、そういう先生がいて一部の生徒がこれに呼応するに過ぎないとしても、これに寛容になればいいことであって、別に「高専がスゴイ」わけではないことは念を押しておかねばなるまい。本当にスゴイ人は高専生でも高校生でも、教科書が何であろうと、勝手に専門書を読み込んでいくものである。

 ここまで述べれば、「高専があまり動かない間に」「周囲が自然に落ちていった」という見解の危機意識の無さとオメデタさを一々論破する必要性はない。

4.高専とは理念が反対の学校-アメリカ・リベラルアーツカレッジ

 『モデル』99頁は、蓮實重彦前東大学長の「アメリカでは大学院を持たない、いわゆるカレッジがたくさんあって」、その卒業後は、ハーバードやMITなどの「優れた研究型大学にどんどん人材を送り込んでいるのです」との言動を肯定的にとらえたうえ、カレッジを高専に準え、高専の「高大一貫」教育に意義を見出している。

 この理解にはは、大きな誤謬が含まれている。ここで蓮實重彦前東大学長が挙げておられる「アメリカのカレッジ」と呼ばれているものは、アメリカの「4年制」「リベラルアーツカレッジのことと見て間違いない。このリベラルアーツカレッジの特長は、確かに専攻や実験実習もありうるが、早期に専門科目を専門家になるために教え込むことに意味を見出さず、20歳や22歳までは、まさに広く一般教養を磨くことに重点を置き、卒業後に大学院で本格的に専門科目を学ぶことを前提にしている学校群なのである。いうなれば、「すぐ役立つことは、すぐに役立たななくなる」という理念があるのだが、これは、まさに高専の教育とは正反対の理念ではないか。日本にも、このリベラルアーツカレッジの理念を受け継いだ大学はたくさんあるが、例えば、ICU教養学部しかないのがその典型例である。

 気力を振り絞って、一言付け加えると、アメリカにはカレッジとはいっても、様々なレベルのものがあり、そこから、ユニバーシティに何らかの形で入学することもあるから、これに高専を準えたのあろうか。しかし、蓮實重彦前学長の発言が、「リベラルアーツカレッジ」を念頭に置いていないことは絶対にありえず、敢えて、批判した次第である。

 近時、アメリリベラルアーツカレッジに言及したものとして、池上彰池上彰の教養のススメ 東京工業大学リベラルアーツセンター編』がある。実は、この本には高専についての皮肉な記述ー著者らは堂々たる教養人であるが、図らずも皮肉となっているーが見られる。つまり、みんながみんな頭でっかちになって、さらには大学を目指す必要などはない、多様な人がいてよいという、という文脈の中で、高専生は「身体的には頭がよい」というのである。しかし、この記述には二面性があるのだ。ほんの数行、必ずしも意図せず何気なく行われた対談内容についてコメントするのは気が引けるが、一応述べておきたい。

 「身体」で身についた「教養」、あるいは、前章において言及した阿部謹也「農夫の教養」というのは確かにあるのである。では、わずか1パーセントの特殊な枠に、「身体的に」優秀さ?をカムフラージュに、精神的な面でも知的能力の高いはずの人間を押し込んでよいのか。後述するが「身体的に」優れた層が厚く存在すべきというなら、この枠に全体の3割以上の人間を誘いつつ(しかも高専のような欺瞞的な宣伝をせずにである)、また「精神の教養」を持った一定層も必要なのである。しかし知識階級は前者の層に入るのを望まないであろう。あたかも、この本の著者たちは自分の子弟を、身体的に優れる?="実践的"“実学的”?教育を標榜する学校ではなく、教養教育を徹底するする名門ウェルズリー大学に行かせたいと、はしゃぎながら言っている。そもそも、この本は、すぐに役立つことはすぐに役立たなくなるとか、MITでは芸術や音楽も大切にするとか、実学重視が柔軟な思考を奪うとか、先のリベラルアーツカレッジのところでも述べたように正に高専教育とは正反対の思考のオンパレードの本なのである。彼らは、高専カリキュラムが教養ないし一般教育軽視の土台の上に成り立ち、中でも、高専の芸術や音楽の授業が極めて少なく薄いことをご存じなのであろうか(筆者の経験では、専任教員は皆無で非常勤講師がやれやれという感じで出講し、適当にスケッチして、音楽聞いて、という感じだったと思う。中学校の方がまだ厚い内容であった。国語が軽視されている以上の程度で軽視されているのである。もっとも逆に、高専でも音楽や芸術の授業がちょっとはあるのですね、と言われた時の方がショックだったが・・・)。芸術といえば、野村正實氏は自身のHP上で自分が大学生になったときに大学同級生がみな知っていた「エコールドパリ」を自分のみが知らなかったことを述懐している。池上氏らに限らず一般の知識人層は、この野村氏が感じたような(もちろん筆者も同じ以上の経験がある)ある種の“みじめさ″を理解できるのであろうか・・・。この池上氏らの本はまあ面白く読めるものだが、たまたま高専のことがほんの数行だけ話題になったにつれて、万が一にも高専関係者がこれを面白がって読んでいるとすれば(東工大つながりで、いずれ、誰かが言及するであろう)、よほど能天気である。高等教育機関と称してはいるが「教養」の存在そのものが問われている学校に、「身体」的な「教養」ならあるとしたり、ましてやこれに優秀層を誘うというのは例によって例のごとく欺瞞なのである。ちなみに、一時的には「身体的」には頭のよい連中が、通常ルートを歩んだ連中よりも、最終的にはたとえ「身体的」「実践的」な面でも優れているとは限らないことは、本章3章と次章4章で、「多様性」のワナについては第6章で言及してある。また、第1章の『アメリカの大学の裏側』という本に言及した箇所も参照したい。

5.高専生に自己学習能力があるか?

 『モデル』100頁では、高専には、その勉強のための学習塾や受験参考書がないため、高専生は「自己学習能力」の意識が高いという。

 これは一面をみたものである。高専の生徒間には、実は、過去問が流通していて、これで勉強している。高専の教員は1人当たりの担当科目数が多く、かつ、基本的に異動がないので過去問の効果は絶大である。大学入試でも過去問は重視されその分析は大学入試の合否に影響するものだが、さすがに全く同じ問題が毎年でるということはない。大学入試における過去問対策は、まさにある受験シリーズと同じ題名「傾向と対策」なのである。この過去問重視については大学入試でもそう、あるいは大学入試こそそうなのであるから評価が難しい部分があるが、では高専生に「自己学習能力」があるかというと、そういう問題でもあるまい。また、前章までに述べた「教養」問題と関連させれば、自己学習能力があるとは言い難い。高専のカリキュラムは一般教養が軽視されている。そこで教養がないなら、自分で教養を身につけるようにしてもらいたいところだが、これはしないのである。高専生のメンタリティには役に立たないものはやらない、生徒間の雰囲気としても教養を軽視あるいは蔑視する風潮があるからである。さらに、高専の教育は短期間に多くのことをやろうとしすぎるあまり、これをこなす勉強になってしまっていることも見逃せない。

 そもそも、マニュアル受験勉強というが、その受験勉強さえも、工夫してやらないと、つまり、自学の意識が低いと、成功しないものである。受験勉強も高次のものになると、今日はここまで覚えたが、こういう解き方をしたが、次は、こういう方法でやってみようというプロセスがないと身につかないのである。また、その過程で本物の知に目覚める場合もあるのである。

 そして、受験勉強を経た高校生も、ちゃんとした大学に入ったら、ものすごい密度で勉強する。工学部や医学部が実習で忙しいのは有名な話である。かれらは、大学という管理を解かれた放任の場で、やらなければ落ちるだけという場で、結局は、自学自習になるのである。自学自習できない者は落ちるだけという結果が待っている。確かに、高専は、高校と比べたら、やらなければ落ちるところまで落ちる。凄まじく堕落する者がいるのは大学と一緒だろう。しかし、逆に、これさえやってくれれば落とさない、という風にもなっている。19歳や20歳にもなって担任教師がHRを行ってくれる。高専からの脱落者は「自由」の産物であろうか。本当は「自由」がないところに勝手に自由を感じ、そして、自由そのものを履き違えているだけではないのか。

 もう一つ見逃せない問題がある。高専の中だるみ問題である(「中だるみ」はある意味では高専用語である)。①高専は長期5年間の在学で、②大学受験がないこと、③高専の専門技術教育重視の特殊な教育内容への適合不安も重なって、早い例になると2年生あたりから、本格的には、進学高校生が受験勉強している期間である3年生あたりから、勉強に意義を見出せず、留年・退学・自堕落・非行が目立つようになる。このことは他の章で述べることになるし、全国の高専教員の共通した悩みである。自己学習能力どころか、学習への意欲を失っているのである。筆者は思うのである。18歳で区切ってやれば、こんなことは起こらないのではないか、逆に、18歳で区切ったからといって工学教育が受けられなくなるわけではないのではないか、むしろ、区切ってあげた方が、よい教育効果を生むのではないか?

6.高専生は英語ができない
 『モデル』101頁は、高専教育の問題点を「例えば英語」で片付けている。この英語については、多くの高専生の英語力は、大学工学部に一般入試で入学した者の英語力と比較にならないほど低いと言わざるを得ない。受験英語は、語彙の増加、大量の英文を高速で読む訓練、抽象度の高い英文を読みこなす訓練、英作文の訓練になるが、高専には受験がないので、ついつい、おろそかになるのである。受験勉強というのは、先の数学の例と合わせて思わぬ効用を生むものであるが(受験英語の効用については、渡部昇一平泉渉『英語教育大論争』。特に渡部は、先の数学の例同様、受験英語による読解と文法重視の英語学習はこれによる語学習熟に加えて人間の「知」を開く働きがあるという。英文和訳や和文英訳つまり英作文などは、知的格闘技とまで言う。しかるべき水準の英文を読みこなし、作文も出来るようになり、しかも「知」に目覚めたければ、受験英語をやればよいのである。受験がないので幸せ?などとんでもない。筆者などは、受験英語が当たり前にある高校生は何と幸せなことかと思った。)、高専生のほとんどはこの効用に気づいていないか、たとえ気づいたとしても、やる動機が働かない。大学工学部教員の間でも、高専出身者は英語が弱すぎることが、定説となっているのは間違いない。なお、編入学者が飛躍的に増えた現在、応用数学演習のような基礎科学的な授業についていけないのも高専出身者が多いということである(昔の編入生はそうではなかった)。代わりに実験などはできるそうだが、修士課程の終盤になると高校出身者-というよりも、この方が圧倒的に多いのであるがーも実践力が身についてくるため特に差はつかないそうだが、英語力や数学力は最後の最後まで差となって残るようである)。

 次に筆者なりに気づいた点を申し上げていくと、高専の英語教師の質は必ずしも低くはない。①ところが、受験がないここと教養を軽視する高専生の気質が相まって、彼ら教師が独自の教室運営に走ってしまう傾向がある。例えば、「LL教室の運営について」とか「特定目的(工業英語)のための英語」などの研究成果を、受験がないことをいいことに、試そうとする傾向がある。受験英語は少なくとも、日本という多くの国民が英語を使う必要性に乏しい国柄の国家にとって、少なくとも”読む””書く”ことの能力の基礎を作ってくれ、その基礎があってのLLなり特定目的の英語なのであるが、繰り返すが、受験がないので受験英語さえ蔑ろにされて基礎がないところに応用を組み入れようとするため、モノにならないのである。生徒がモノにしていないのに、LL教室だけは立派で、そういう題名の教育実践論文だけやたら多いというのが(それを言えば大学の語学教師一般がそうだが・・・)高専という学校である。付け加えるならば、工学分野という特定分野の英語に間に合えばよいというのでは、その特定分野においてさえ足りていない結果を生み出すだろう。②第二、英語の学力を高めるためには、家庭での学習が重要である。一応、高専の英語の授業時間数は高校理数系の7割から8割程度を確保してはいる。ところが、この授業時間数だけで高専生の英語力を量ってはいけない。現在の高校生の在宅学習の多くは英語に振り向けられているのである。ところが、高専は、受験がないことに加えて、高校生の同時期に専門科目側からのの時間的・心理的圧迫があって(専門科目のレポートが忙しいことにかまける)、授業時間外の予習・復習・自己学習にあまり時間をさく風潮がないのである。このことをも大きいと考えられる。高専生の英語力は、平均していえば、高専5年間で、高校2年生が身につけるべき英語力に及んでいないであろう。中学生レベルで止まっていると指摘されることさえもある。受験英語あるいはこの理念に基づく英語教育さえも放棄したら、どの程度の学生が生まれるかという好例である。もちろん、古色蒼然たる受験英語には批判もあるのだが、読解・英文法、あるいはその題材としての英文学や内容あるエッセイを読むのは無駄という発想で、都合良く、TOEICだけ得点を上げようというのは、いかにも寂しい発想で、また、効果はあがるまい。ただ、最近では、TOEICが英語力の指標にされていることもあって努力目標を立てているようである。また、一流大学ではさすがにTOEIC400点では相手にされず、そこを目指す生徒は高スコアを得る努力をしているようである。しかし、一流大学を含めて大学編入学をする者でさえ、一般入試組より、抽象度の高い英文の読解力・解釈力、語彙力、英作文等の英語力一般が格段に劣っていると考える。

 受験英語自体をやらなくて済むこともさることながら、さらには、受験に影響を受けないため、“しゃべれる英語”“技術の現場で使える英語”などのスローガンを掲げてきたのは、むしろ高専の方であったわけだが、近時の英語教育改革はこれと似たようなものである。その英語教育改革がどのような帰結をもたらすかは、むしろ筆者などの方が切迫感をもって理解できる。逆に高専生にとっては朗報である。「モデル氏」ではないが、「高校生が勝手に落ちて」くれるからである。

7.後期中等教育年齢における一般教育

 ところで、この「モデル」氏のことではないが、高専教員の中には、後期中等教育年齢の生徒に人文社会分野の一般教育を行うのでも、学位を持った教員が教えていることを高専教育の特質に挙げている者もいる。例えば、高校の内容を教えるのに学術的な内容を基盤にして、興味を喚起することが出来るなど、と。

 この点については、筆者の経験を述べておく。

 国語の教員は2~3名ぐらいいたと思うが、そろって文学修士であり博士課程修了者もいたはずである。それぞれ、近代文学、古文、漢文の各分野で、本数的には学者とまでは言えなくても、自校の紀要を中心に、ときには学術雑誌に、いくつか論文があったと思う。確かに、その専門分野の話を組み入れるのであるが、クラスの生徒の”誰一人として”古文や漢文を読めるようならなかったことを断言しておく(後に、筆者ともう一人のクラスメンバ-のみが大学受験のため、相応に読めるようになった)。徒然草の文学的鑑賞、老子の思想等は、趣味的にお話ししてくれたが、それで終わり。では、論理的文章を書くトレーニングでもしているのかというと、これも余りしていない。理系の人が文章が苦手という段ではなく、高専の場合、もともと中学校の時国語などもよくできたはずなのに書く文章が恐ろしく〝稚拙゛ということも珍しくない。他の教科分野も似たり寄ったりだった。Fランク大学でも、一応、担当教員は博士課程修了者であろうが、受講生はみんな居眠り。むしろ、こちらの状態に近かったのではあるまいか。

 ところが、学部卒で高校教員をしていたという、ある文系分野の担当教員の授業はオーソドックスに教科書に沿っていくのであるが、非常に興味深く、筆者もその分野の本を手に取ったことがあった。クラスの人気も非常に高かったし、学力もよく伸びたと思う。この人はほとん学術論文はなかったと思う。それでも生徒を納得させる教育力と学問があったのである。

 つまり、中等教育段階における教育は、天下に通る、しかるべき王道の内容について、「教育者」が教室で出来ることに「徹して」もらえばよいのである。その中で、意識の高い教員は、「知」への扉を開いてくれる。中等教育段階における一般教育というのは、そういうものなのである。

 だいたい、今時、高校教員でも、専修免状で修士号を持った者が多いのである。オーバードクターで高校教師になった者さえ珍しくない。しかるべき水準の高校では、学部卒業者であれ、修士号取得者であれ、その高校教員の授業によって、数学や物理の面白さに目覚め理学部や工学部志望になったりするのである(ただ、高等学校普通科教員にも、理科等の分野で工学部出身者がもう少し多くなって工学部志望へはずみをつけてくれればとは思う)。一般科目理系では、学位取得者による授業によって、多少の厚みを加えることが出来るかもしれないが、基本的には同じことが言えると思う。また、上述の通り、高専の一般科目理系は、カリキュラム的に意外に基盤が弱い。

 ちなみに、筆者のいた東日本地区の高専では、奇妙なことが行われていた。若い博士号や修士号をもった教員が高校生の範囲に相当する1年生基礎数学の授業をもち、修士や博士号どころか一編の学術論文もない、教授法研究にもほど遠い単なる教育実践例の小論数本のみが御業績というベテラン教員が工学部相当と称する3年生「応用数学」の授業を担当し続けていた(この教員は県下2番の進学校で教えていたことだけが自慢のようであった(自身も県下2番の高校卒業生か?)。50を過ぎて高校から高専に来たようだった。他の世界を知らない当の高専生さえ不満を漏らす者があったほど講義内容は薄い。与えられた個室の研究室には研究書さえないという噂であった。散々、高専をこっ酷く批判してきた筆者であるが、県下2番(実際は学区があるから2番の集団ではない)の進学校というのは大したことがないものだと思った。一般科目理科系の教員なら、何も一流学会誌に何本も論文を載せろとまでは言わない。載せる人は沢山いるし、そのこと自体は大変なことではるが、研究機関ではない高専においては、紀要等に学術的な内容の論文又は学術的な裏付けのある教授法・教科教育法に関する論文を生涯で1ダースでもいいから書いていれば、あるいは、旧制高等学校よろしく論文こそ書かないが研究室には蔵書が山程あり学識の方は大したものだ、と思わせるような教育力でもあれば、生徒側の方も納得するものなのにそれさえもしない。高専設立50年において少なくとも40年近くこういうことが長く続けられていた。先の文系分野の学部卒元高校教員の例とは反対に、理工系専門・理工系基礎教育と称する分野でこのようなバカげたことが行われていたのである。一般に高専の教員のレベルは低くはなく、現在では学位をもった者が多数を占めることは先に述べたが、歴史的にはこのようなことも多発していたのである。冒頭で述べた「学者による教育」などは実は高専の歴史において根付いてきたものではない、むしろ、高等教育としてはオカシなことが長く行われてきたことを述懐の形で述べさせて頂いた。また、筆者が専門分野の担当教員なら、文系であれ理系であれ基礎科目をちゃんと先生に習ってから上がって来いという。三文学者による趣味的な文系科目の講義などは不要である。そういう講義は、高校の内容をちゃんと固めてから受けるのであれば、何某かの益はあるだろう。

8.楽しい高専生活?

 『モデル』は、最後に、高専は「忙しい学校」であるが、クラブ活動や音楽などの趣味に楽しみを見出している者が多いという。「忙しさがゆとりを生み出している」だという。このような、受験がない分、専門科目の学習が充実しているというのも、高専入学者を誘う文句になっているようである。

 まず、高専で受験から開放されて趣味に楽しみを見出す時間があるというのであれば、英語や数学をちゃんと勉強しろと言いたいところだ。次に、「忙しい」というが、その忙しさは、高校3年生の受験生の比ではないはずだ。さらに、クラブ活動の充実というのは、進学高校でも見られるところで、何も高専に限ったことではない。そう考えると、ちゃんとした高校生の方が、忙しく苦しくもある受験勉強の合間に、よく、クラブ活動もやっているということにならないか。さらに、大学生になったら、教養課程で中だるみが生じる場合があるにしても、少なくとも、理系では、非常に忙しい日々を送り、なお、恐ろしいのは、担任教師の御計らいも何もなしに退学・留年が普通に行われることである。

 筆者は何も、進学高校の連中が偉いと言いたいのではない。彼らの中には空回りした空虚なエリート意識が強いものもいて、それだけの人間を軽蔑している。また、進学校と称する群の中には、大量の強制学習の割には大学合格率は大したことがない学校群もあってこれも軽侮の対象である。しかし、『モデル』は、あまりにも後期中等教育普通課程及びこれにある者の姿を見ていない。今の時代、低学力者を探せばいくらでもいるが、どの時代でもちゃんとした者も大勢いるのだ。例えば、普通高校でも科学部や物理部がある。彼らは、それらが純粋に好きで、科学コンテストなどで大学生顔負けの研究発表をしたりする。京都市堀川高校のように、研究課題をもちながら京大に一般入試で大勢合格するような学校もある。高専は理系科目・専門科目を先行して学び自由時間もある割に、科学コンテスト等への入賞率が低いように見受ける。逆に、ロボットコンテストはよくやっていると評価できるが、しかし、「堀川の奇跡」はあっても「高専の奇跡」はない。そのロボット工学の分野でも一般入試を突破している者がほとんどだし、最初の大学が文系だったりする例もある。

 戦前日本はすでに、世界有数の科学技術・工業技術をもっていた。トップレベルと言ってよい。アジア・有色人種では唯一とも言える。その中心的役割を担ったのは、言うまでもなく、旧帝大や私学を含む旧制大学・文理科大学・工業大学、さらには旧制専門学校出身者であった。かれらのほとんどは、“旧制中学卒業後”に専門科目を学び始めるか、“教養”主義的な高等学校や高等師範学校を経てその後の専門課程に入った。また、実業学校からの入学もありえたが、そもそも実業学校に進んだ時点でその時代は選抜されたエリートであったし、入学試験はむしろ難しくなる方に作用した。そのために、ハードな受験勉強も当然突破している。彼らに対して、受験勉強ばかりしているから、戦争に負けるような工業技術しか持ち得なかったと批判ができようか。文系官僚や軍人については、その批判は当てはまるかもしれないが・・。

9.編入学問題

(1)最後に、高専生は、その辺の平均的な高校生やいわゆるFランク大学生よりは、マシだという意見があり、これと比較すべきだというかもしれない。しかし、(国立)大学工学部に相当する学力や地位などという、以上の論によれば虚偽の宣伝をして比較的優秀者を誘ってきたのは、当の高専側である。

 高専の設立には、戦後、旧制専門学校が大学となり、また、産業界から見て彼らの実践力が落ちているように見えたので、それに代わる学校を、との経緯があるようである(原典資料の他に、天野郁夫『日本的大学像を求めて』にもこのことは書いてある)。しかし、旧制工業専門学校は、後述するように、新制大学工学部としてその理念を継承しながら残り、増大した新興大学にもちゃんと大学院課程及びそれに相応しい体裁を形式上整えてる。高専は結局、旧制大学新制大学、そして大衆化した新設大学の工学部の次の第三群以下の地位に陥った。また、この第三群には、そこへの入学時を除きその後の受験的選抜が想定されていないし、一般教育も薄いため、潜在能力を磨く時期が失われている。

(2)ところで、高専には受験的選抜が想定されていないと述べたが、これに対しては、「編入学試験」があると言われるかもしれない。しかし、高専からの編入学試験は内容・質・量の点で、一般入試より、ハードルが下がっている(ただし、最後の留保事項でも述べるが、学業劣位者にゲタを履かせているという意味ではない。もっとも、結果的に下記④のような例が発生する。あくまで、試験の「内容」「質」「量」の問題である)。

高専から大学へ編入学する際の試験は、英語や数学については、難易度が一般受験生よりかなり低い。是非、試験問題をご覧になって頂きたい。例えば、数学は範囲の限定された応用数学のみであったり、そもそも数学が試験になっていない大学さえある。内容的には、一部の超難関校を除き基礎的な問題が多い。②英語は、外部試験を使用する場合を除き、はっきりいって易しい。国立2次試験のように長文で時間切れということもないし、ごく一部の大学を除き英作文も課されない。課したところでほとんど書けない(とは言いすぎかもしれないが、一般入試受験生よりも圧倒的に出来が悪いのは間違いない)。③理科も1科目のみでいいことがほとんどである。理科では物理が課されるケースが多いが、一部の大学を除き、伝統学科の基礎と重なる力学、電磁気学、熱力学の問題がほとんどである。もちろん、一般入試でもそれらはメインでありヤマでもある。しかし、一般入試でも少なからず課せられる波動や原子物理などはすっぽり抜け落ちているか、出題されても捨ててどうにかなる(後記・注)。④次に専門科目である。専門科目で受験させるということ自体が、「潜在能力」をはかっておらず、単に「到達度試験」になっている面がある。もちろん、到達度を評価尺度にすべきというのも理解できるが、潜在能力あるいは一般的学力の評価が甘くなってはいまいか。旧帝大や名門工業大学あたりになると、電気系に化学や応用物理を課す等して能力を見極めようとすることがあるが、それでも、学科によっては内申点を重視したり極端に志望者が少なかったり高専の不人気学科でたまたまクラス上位だったりして、専門科目の最低理解到達点に達してさえいれば、かなり一般的な学力が低いものでも合格する例が時々あり、この点が一般入試と異なる。⑤さらに、「競争的」な要素も低い。これは高専自体に内在する問題でもある。学力を競争的結果で評価することに異論を唱える教育学者もいるが、競争には、健全な競争もある。 たとえば、「受験勉強したのは4年生の終わりの春休みからだった。高専の1年生の時から勉強をしていた人はいなかった」という類の述懐が高専生に見られる。一般入試を受ける平均的な受験生からすると、勉強時間がかなり短いし、競争や切磋琢磨の意識を欠いている。その他、高専生がよく言うことを挙げると「高専生に余裕があるのは受験がないからです。編入試験に多くの時間を取りません」とういう例もあるのだが、本人は悪びれてはいない。⑥科目数・量は重要である。旧帝大などは難問が課されることがある。しかし、その旧帝大の中にさえ3科目試験の大学があり負担が軽い。一般受験生と比べて、いくらなんでも科目数及び科目内における量が軽すぎる。試験というのは、ある程度「量」を課さないと、記憶力や事務処理能力を含めた学力一般を涵養できない。

 一般入試が仮に「広くて浅い入試」だとしても、編入試験の方は単に「狭くて浅い」と言わざるを得ない。それどころか、一般入試も2次試験まで見込めば、「浅い」などとは言えまい。逆に、一般入試のみを突破してきたものは、自分たちの受けてきた入試がいかに「深い」ものであるかを認識できていないのである。高専で得られる専門科目についても、その知見とやらは、実際は、基礎教育が疎かなため、意外に「浅い」ものである。もちろん、そのような高専教育や編入試験がすっぽりはまる特異な人たちもいるにはいて、高専の実態やボリュームゾーンを知らない人たちに、誤解を与えているわけである。実は、編入試験の方が比較的易しいということを一番よくわかっているのは、高専教員である。高専専門科目の担当教員は、専門学科に1~2割いる高専生え抜き教員を除き、国立大学や難関大学の出身者であり一般入試を経験している。その彼らこそが、編入試験と一般入試を比較出来ているのである。そして、彼らは、高専という組織体の一員として、誰のためになるかは知らないが、こちらが「有利」などと宣伝し始めるわけである。

(3)高専生は、1年生から専門科目をやるのだから、それを突破していくだけでも大変だというかもしれない。しかし、それは違う。それは能力の問題というよりは適性の問題に過ぎない。例えば、平均以下の大学の工学部生でもそれしか道はないと考えて専門科目は突破する。また、一般の工学部受験の高校生は数学や物理で大学の範囲に及ぼうかという難易度の試験を課せられたうえ、古文さえ読めるようにしなければならず、その準備に追われる。百歩譲って特別入試や推薦入試を導入するというならば、彼らにこそ、その範囲で到達度試験か数学の超難問を5時間かけて解かせるなどの完全純粋な才能試験を課してくれればよいのだが、その母数に比べて機会が極めて少ない(例えば、数学オリンピック入賞者に科目入試を課さない等)。

 大学工学部側は、高専生が専門科目を早くから履修していることを重視して、編入学試験内容を考えているのは間違いない。専門科目の能力を学校の成績で観察しつつ、基礎学力に致命的な欠落がないか、専門分野の最低の理解があるかを試すために上記のような内容の編入学試験を課すのであると。しかし、そうであっても、その大学の一般入試入学者より高専編入生の方が学業において「努力」してきたと言い切れるであろうか。「幅広く」勉強してきたと言えるだろうか。「最低限」が低すぎないか、「最低限」の基準を満たしていればよいというのでれば、一般入試組にもそうしてあげればよいのではないか。努力している者自体は絶えなくして僅かにある。しかし、筆者は、概して、そうとは言い切れないと考えている。このことは、高専側が宣伝で、高専には受験がなくて・・・、余裕があって・・・、などとやっていることからも伺える。こういう入試でよいならば、一般入試の連中にも、二次試験の内容のみを課せば足りることになる。

(4)初期の高専生では、きわめて優秀だったにもかかわらず進路の袋小路が大きな問題となった。そこで、国は高専向けに長岡豊橋の両技術科学大学を作った。一部大学も呼応し僅かに編入学を認め出した。これによって、高専最上位層をすくだいすことが出来る。しかし、編入学希望者が徐々に広がり高専中堅学力層や偏差値の低い学科の者に及び出す中で、少数科目やボリューム減された英数による一般大学への編入学措置は試験内容的にポジティブアクションが過ぎるのではあるまいか。今の高専からの編入学試験は、あえて言うならば、工学研究科大学院入試 に近いだろう。しかし、大学院修士修了が普通になった今日、高専生が大きなワンステップを回避する結果となっているのは間違いない。もっとも、普通の国立大学さらには国立難関大学でも普通科高校生向けにセンター試験を課さないAO入試等の特典が結構あり、入試の多様化・簡素化は高専だけの問題ではなさそうである。しかし、高専生のメンタリティとして「好きなことだけして」「お買い得」というものがあるとすれば、いかにも、さもしい考えである。あたかも、高専カリキュラムと編入学試験の特質によって、一部の優秀層を除き、概して、編入生は数学・物理・英語が弱いのである。

(5)高専からの編入学者はその大学で優秀な成績を治めているという指摘がされる。しかし、これは、比較的優秀である高専の中のさらに優秀層が、早くから専門科目を履修しそれを重視(偏重?)し、しかも、入学試験さえもが専門科目で行われているのであるから、当たり前の話である。国立や名門私学の大学工学部定員の多くを占める一般入試者はその人数が多いのであるから当然学力に一定の幅があり、しかも、専門科目の導入が遅い。一方、高専出身者は研究室に1名等少数であり学力幅が小さいうえに、専門科目を先行している。となれば、高専出身者が一時的に優れて見えるという奇妙な現象が生まれるわけである。人口比率的にほとんど出くわすことなない高専生の、しかも、なんとか社会の上層に食いん込んだ極少数派を観察して、何か珍しいものでも見つけたように「優秀」などと言ってる者の多くは、この類である。その程度の優秀層はよく考えたら自分の周りに大勢いたことを忘れて・・・。この筆者の見方が偏見だと言われれば偏見である。しかし、筆者はあまりに多くの高専生の実態を知っており、その真実を伝えてしまうのは、致し方のないことだ。

 さて、高い?とされている高専生の学力については、英語や数学を含めればそうとは言えない可能性も大であるが、しかし我々が着目しなければならないのは、むしろ、当たり前が当たり前になっていないという事実である。つまり、高専からの編入学者が、専門科目を一度やっているはずなのに学力不振に陥いる例が多くなってきているのである。例えば、あまりにも周りが勉強しない中、真面目にノートを取り続けてクラス上位、推薦を得て大学に編入したはよかったが、大学の授業に全く付いていけず、大学院にも受からず、というケースを結構聞く。かわいそうなケースは、一般入試入学者とあまりにも数学や英語の学力がかけ離れていているため、自分の方で勝手に自信を失ってしまう、という事例さえ見聞する。上位ではない、高専ボリュームゾーンの生徒は大したことがないという評価も聞く。高専専用の技科大は学科の1番が入学していて周りもほぼ全員高専出身者であるからあまり問題にはならない。むしろ、推薦や内申重視がうまく機能しているだろう。あるいは、近時はそうではなくなっていても内部的な問題で済む。また、他の一般大学でも一握りの優秀者のみが編入学していた時代では、実際成績が良い者が多かったろうし、そうでなくても員数が少ないこともあってあまり問題にならない。しかし、これだけ、一般大学への進学者が多くなった今日では、学力不振は受験学力の否定と無関係ではないと考えられないだろうか。筆者は、序章で、高専はあまり人に知られないがために、不当に扱われていると感じた高専関係者の宣伝用の美辞麗句が一人歩きしているのではないかと言った。高専からの編入学生は優秀というのにも、その傾向が現れていると見ている。大学教員側に申し上げておくと、自校の大部分を占める一般入試突破者(彼らもこの大学に入って工学の勉強がしたいと大変な努力をし、念願かなって入学してきたのだ。またご自分もそうであったはずだ)に、最低限センター試験を課すぐらいは当然として選抜方法の工夫や、大学での勉強の心がけを説くことや、工夫した教育を行わず、その責任を棚に上げて、以上のような性質をもつ高専出身者を重宝して見せるのは、どうであろうか。学生は実験助手ではないのだ。まっさらな人間を伸ばしてやることこそ大学教育だろう。高専教員や一部大学教員で、高専生は既に専門科目を修めているいるから大学で「教育しやすい」というメリットがある等と言っているケースがあるが、笑止千万である。工学部3年生というのはすでに社会にある技術者や研究者から見たら誠に頼りない。受験勉強を引きずっている者もいる。工業高校3年生と比べても頼りない。しかし、その頼りない人間が、高校からの基礎学問の上に専門科目を学び卒業研究や修士課程を経て「育」っていくプロセスを彼ら大学教員は知っているはずである。受験に失敗してこの大学に来たと言っている連中も、そもそも理工系志望なのだから専門科目に接すると目の色を変え始める。私は、大学2年生あたりまでは受験に失敗してクダを巻いていた人間が、優れた教員と研究課題に出会い学会で賞を貰い一流企業に就職していった例を知っている(工学部では当たり前の光景だが・・・)。そして、そうでなければ、戦前既に日本が技術立国だったことを説明できない。高度成長を説明できない。いつしか、大学工学者が高専生を「しっかりもの」に仕立ててしまうのは、自身の義務である教育を面倒がった挙句の教育放棄の所業といっても過言ではない。1年生からの入学者に実践力がないだの、手を動かさないだの批判する前に、ちゃんと、本来の工学教育らしく、そのように教育すべきなのである。あるいは、長い目で見てあげて、最初は頭だの口だのが先に動いてもそれに手がついていくようになるのが工学教育なのである。そのように教育すれば、理論の上に実践、実践につながる理論になりうるのである。大学が4年もあることの意味をも考えよ。よき研究者は教育をおろそかにしない。手もよく動かす。もちろん大学教員には、高専生の解析力や語学力不足、資質・物の考え方を、問題にしている者も多いだろうし、筆者も直にそのような声を聞いたことがある。敢えて言うなら、英語や数学が弱いので、あるいは、専門分野への固定観念があって「教育しにくい」。高専からの編入学は、受け入れ当初は、受け入れ大学も少なく、試験内容、入学枠的に厳しかった、厳しすぎたという。逆にこの厳しさを突破してこそ、選りすぐりが育っていった。山梨大学工学部あたりが高専生を受け入れたと聞く。確かに、ここには、極めて強い向学心をもって入学し非常に優れた卒業生を生んでいるようである。しかし、はっきり言って、今の編入学は、一部の大学を除いてかなり緩くなっている。

高専生の学力については、私が見た生徒についての実感や印象をもとにしている。また、筆者は一般入試の勉強をして大学に入った後に、高専生はどんな試験を受けるのであろうかと振り返って編入学試験も数多くチェックしてみたりした。筆者の見聞に基づく以上のような評価があながち間違っていないのではないかと考え始めたのは、教員側であられたI博士の見解(HP。筆者の過激な高専批判とI博士の洞察と建設的な意見・提案が混同されては同氏に失礼と判断しお名前を伏してある)に触れたからである。もちろん、抜群の成績を得ている者がいることは認めるし、この者たちの資質にはしかるべきものがあろう。しかし、これが高専教育の成果かと問われれば非常に疑問が残る。本人および指導する高専教員の個人的な資質と努力による成果というなら、これは断じて認めなければなるまいが・・・。それにしても、大学工学部・大学院で学べている身分を忘れて、ここのでの成果を高専教育における早期の専門科目導入・卒業研究の賜物だのと、高専側の都合のいい宣伝材料(4年一貫の工学部、大学院工学研究科を見込んだ6年一貫に途中から入り込んでおいて、そこでの成果は、「5年一貫」「早期の専門科目導入」の賜物とやりはじめ、資質あふれる生徒にそれを信じ込ませる)に乗ってやる必要はないのである。むしろ、自分の能力と大学で学べている優位性こそに感謝してほしいものである。さらに、大学工学部で一般入試を経た者でも4年後、6年後、企業等に入ってから、同程度以上の成果を挙げているのを忘れてはならない)。

 日本の大学入試に問題がない、なかったという気はない。この点は、ところどころで言及してある。

(5) 大学研究室で高専出身者が優秀に見える奇妙な現象、とは言ってみたものの、これには、留保事項がある。 

①まず、数パーセント高専”最”優秀層は抜群の頭脳を持っていることは否定できず、逆に、英語や数学でハードルが下がっていることが失礼な結果になっている面があるということである。教養問題の章でも述べたとおり、この高専最優秀層はもっと英語や数学を鍛えられてよいし、鍛えれば出来る。大学への入学に関しては、本来の学力水準からしても相応の水準の大学に入っている、つまり、ポジティブアクションは働いていないのであるが、しかし、英語力や数学力さらにはその他の人文社会科学分野の能力の涵養プロセスが省かれているというその学力内容と質に問題があるわけである。もっとも、当の高専生がそれでよいと納得しているのであれば、彼らは、確かに優れた専門的学力の持ち主には違いないのであるが、真の意味で「優秀」などとは断じて思わない。そのような心持では、一般入試を突破した連中に追い越されてしまうであろう。

(仮に高専上位数パーセントは特別の能力があり別だとして)、今日では、高専の学科10番程度でも進学する計算になるわけだが、おそらく、平均的な高専の学科10番や偏差値の低い不人気学科でたまたま上位にいる層、後述する進学高専下層にとって、大学工学部編入学は一般入試よりかなりラクなのは間違いない。そして、悲しいかな、上述のとおり彼らの多くが昔の高専出身者のイメージを覆しているものと思われる)。

②定員面では、高専の生徒全員が国立大学工学部に入れるだけの定員は準備されていない。地元の国立大学工学部の編入学定員が10名や20名等となっていたら、学科で上位でないとそこには入れないことになる。さらに、いうまでもないが、技科大はかつては高専トップの指定席であったし、今でも主要な進学先であるが、2校しかないので、頭数を受け入れているわけではない。「枠」をめぐっては競争があるだろう。ところが、進学高専を除く普通の高専の10番以下は就職するか、進学希望がない、あるいは勉学意欲を失っている者も多いから、影響は限定的であるものと考える。留保の留保になるが、優秀ではあるが様々な事情で進学せず就職する者も一定数いること、あるいは、その中で堂々大卒院卒枠に食い込んでいく者もいることは、高専にとって、歴史的な、そして制度の本質な問題である。

③次に、短期大学からの編入学よりはまだマシという点である。つまり、短期大学では、科目数や内容面でのポジティブアクションの度合いが、高専よりも遥かに強く・露骨に働いている。学士入学者またその水準にある人にとっては適切な試験内容でも、そもそもの学力水準が非常に低い短期大学出身者が当たりに当たって入学しているケースがある。

10.進学高専?の怪、高専上位層の青田刈り?

(1)I博士のように、高専の問題性を喝破しつつ、高専を選んでしまった学生のためには編入学でもさせるしかないというのであれば、まだ理解できる。 

 ところが、私は驚いたのだが、最近は「進学高専」という言葉もあるそうである。そこでは進学校ばりに補習を行って進学者数を競うそうである。そもそもその言葉は、言語的用法からして完全に誤っている。その矛盾は他の箇所で触れることになろう。ただ、ここでは、「大学進学したけりゃ高校へ行け!もっとまっとうな努力をせよ!」と言っておく。ちなみに、ここで散々問題にしてきた『モデル』氏は、俗に進学高専と呼ばれる高専に所属している。

 こういう高専は、生徒の勉学意欲を喚起するため、大学入学競争を利用しているつもりなのかもしれない。ところが、当初はそういうつもりでも、編入学が一般化してくると、どう考えても学力が足らない層までも編入学しようとし(二山化した学力層の低い層や、もともと優秀であるが高専教育にはまって勉強しなくなった層)、実際に、編入学してしまう、そこそこやっていればいいんだという風潮が生じる、という笑うに笑えない事態があることさえ見聞する。昔の編入生や上位高専生、進学率が低い高専のトップ生,大学一般入試を課した元高専生等、逆に優秀でありながら高専卒で就職する人には真に失礼な話であるが、真実味のある話である。大学側は定員に関係なく、もっと厳格な試験を課すか(最低でも、英・数・物・化・作文+専門2科目。現にそれに近い試験を課す大学もある)、編入学など廃止してしまえ、専攻科設置で晴れて「完成教育」となったのだから大学院入試を受ければ、とさえ思えてしまうのである。

(2)次に、前項でも少し言及したが、大学側にも問題のある行動パターンが見られる。学生の学力低下や理工離れ、これにともなう自校の教育への支障、地位の低下に危機感を抱いた大学が、高専上位生(ところどころ言及するように数パーセントは優秀である)を、まるで、青田刈りでもするかのように、①自校の定員の1割もの割合の人数を、②推薦入試中心(半数が推薦)で、「もっていく」という手法である。さすがに、旧帝大や地元高校からの安定供給がありこれを維持しようという多くの地方国立大学ではそんなことはやらないが(旧帝大や地方国立大学では工学部定員400人中、編入学定員10人とか数人あるいは若干名というふうに、逆に定員を絞り込んでいる大学も結構多い。多くても定員の5%というのが普通である)、堂々たる名門国立理工系大学や旧六クラスの大学工学部や一部地方国立大学工学部がそのようなことをしているケースがあるのである。

 高校からの推薦入試は、学力一般入試が厳しいため、高校側が逆に学力試験が及ばない層を組み込んでくる危険性があることや、大学側が高校3年生で理工学の潜在能力測定に自信がないというのも理由だろう。しかし、このような方法は一般入試受験生との公平性に常に緊張関係を生み出す。定員1割の余裕があれば、理系科目は大好きだが国語だけはどうしても点数が伸びなかったとか、受験勉強で物理の面白さにはまってしまって物理以外あまり勉強しなかったとか、高校の科学部の研究に没頭していたという連中を救い出すことが出来る。受験勉強をしなければならないという状況でたとえ初歩的であっても科学研究をやる勇気ある少年たちと、専門科目さえやっていればいいから当然そうする人たちとどちらが純粋であろうか、面白みがあるだろうか、伸びしろがあるだろうか。もちろん、高校生向けの推薦入試もちゃんと用意してあるという反論もありそうだが、その母数に比してその機会が非常に少ないというのが現実であり、この観点から公平性に疑問符がつく。

 そもそも、旧帝大東工大ではない、この大学群こそがこれら特異な人材を救い出してきた歴史がある。また、この大学群に入りたい高校生はいくらでもいるのである。高専生の心配をして頂く必要は全くない。技科大も専攻科もわざわざ作って差し上げたのだから。3年修了で一般入試大学受験したら結構通ったりするから。特異な入学パターンを作るよりも、皆に平準な試験制度だからこそ、そこに様々な資質をもった生徒が集まってくるし、この中の特異な生徒を救い出すためなら、科目間の調整とか2次試験重視でどうにでもなる。姑息なことをするくらいなら、全員AO入試にしてしまうというのも一考である(ただし、筆者は「制度」論として、今日の「全校」AO入試は大反対である)。逆に言うと、高専生への評価の表れとも取れるわけだし、高専生にも人気があるらしいが、では、誰のためになっているかのと問われば、高専生のためなのだろうか?自校の都合が優先していないか?とさえ思えてくるのである。中等教育から接続して、潜在能力と意欲にあふれた青年を、たとえ今はゼロの専門知識でも、将来に向かって伸ばしてやる、4年の大学制度の本義を忘れては本末転倒というほかない。

 もちろん筆者の考えは、高専は成績優秀層が学ぶべき教育機関ではない、のというのが前提としてあるわけだが、百歩譲って優秀者が入ってしまったとして、彼らをすくいだすために進学させようとする、その仕組みの内実・方法にも問題が生じているのではないかと思っているわけである。もっとも、繰り返すが、多ければ1割程度の高専生は優秀であることを否定するつもりはない。

 

*後日、平成30年1月頃、阪大と京大の物理の入試問題にミスがあり、本来なら合格の者が不合格になっていたという報道に接した。2校とも、問題は「波動」についてのものであった。合格者がひっくり返る程度に大事な分野なのである。高専では上層にあるはずの平均的なの高専経由大学編入学者では、この試験問題の意味などは分からなかったものと思われる。